7-9 選ぶということ
宵闇は美しいハイフォールドであっても、静寂の不気味さが漂う。セントラルとの隔壁に設けられた通用門は閉じられ、そこには常駐の番兵が数名で周囲を警戒する。特に外で異変が頻発している昨今では、穏やかであったセントラルの住民も恐怖や不便さから不満が上がり、兵は内外のいざこざに齷齪していた。
「街道の守りはいつ頃出来上がりそうなんだ?」
「分からんな……騎士を筆頭に派遣隊が各地へ向かっているようだが、何せ、魔石が枯渇しているからな」
「そのあたりはアンスールに協力を要請すれば事足りるんじゃないのか?」
「いや、どうだかな……。我がアルシオン王は──市民から見てもアンスールとは距離をとっているように見える」
「それは向こうじゃないのか? 古の立場に居座って我が王を若輩と侮っているだろう」
兵士たちは静寂の虫の音に紛れて空言を吐く。ここにはそれを嗜める騎士は居ない。夜の番はひとときの安寧とも言えた。
ふと、一陣の風が吹く。それは兵士たちの鎧の隙間を縫って体温を一瞬だけ攫っていく。身震いした一人の門番の横で、もう一人が風の向かう先を見上げた。
「──ん?」
高い隔壁の上。銀色の月光を背後に纏い、黒い影が揺れている。姿は判然としないが、影は隔壁をハイフォールド方面へと器用に駆けていく。それを目の当たりにした番兵は肩を跳ねさせ、腰に携えた剣の柄に無意識に触れ、頭を振る。
「どうした?」
「あ、怪しい人影が──……侵入者だ!」
「何だって⁈」
「壁を伝ってハイフォールド方面へ向かっている!」
途端に通用門で騒ぎが起こった。目撃者を筆頭に数人が影を追跡するためハイフォールドに消えていく。ひとりは城門の塀に通達に向かい、残りは引き続き門を見張る。鎧の金属音が屋敷の壁に反響し、騒ぎを耳にした各家の警備兵や使用人が顔を出す。
あちこちから黒い影の目撃者が現れ、兵がそちらに流れていく。兵が増えるたびにランタンの明かりが増え、少しずつハイフォールドを照らして行った。
「──そっと、そーっとだぞ!」
「チッ、うるせぇな。気が散るから声出すな」
「な、なあ……本当に俺でいいのか、見張り役」
「能力的にも君がベストだよ。僕らだと、何かあった時色々目につきやすいからね」
「それより、こんなこと成功するのか?」
喧騒が広がるハイフォールドの片隅、教会の裏手。庭を囲う鉄柵の外には草木に紛れ、数名の影が潜んでいた。兵士たちが教会を離れ、修道士たちが室内に収まりきった後を見計らい、秘密のルートから忍び込んでいた面々が作戦に乗り出した。
「まあまあ。ガウリーの修行の成果の見せ所だよ。まず最初にアリアベルの部屋のバルコニーにレオを送ってもらう。レオはそのまま部屋に入ってアリアベルに会ってもらう。そしたらガウリーは次にタケル君をバルコニーに送って、タケル君はそこで待機。部屋の中でなんかイザコザが起こりそうだったら仲介に入る。──いいね? アリアベルが窓の鍵を開けていてくれてることを祈ろう」
「──魔法であっちまで移動させるって話だったが……そんなことが本当に出来んのか?」
「ごちゃごちゃうるせぇ。もうやるぞ」
ひそひそと話し合っているのは不安げなタケルと、怪訝そうなレオ、苛立ちを滲ませるガウリーと悠然としたハロディだ。彼らは今騒ぎに紛れ、宵月院にあるアリアベルの部屋へ侵入を試みようとしていた。
ごちゃごちゃとこれからのことを確認し合う面々を無視して魔力を構築していたガウリーが一声合図を送ると、彼の持つ大杖の先端に嵌められた魔石が緑色にぼんやりと発光する。ガウリーは自らの体でその発光をなるべく隠しつつ、まずレオを睨んだ。
「いいか、絶対に暴れるなよ」
「──……了解。今はお前を信じるほかないからな」
レオが苦笑すると、その体がゆっくりと浮き上がった。周囲の草葉が揺れて音を立てるが、それが不自然に最小限となっているのは、ガウリーのコントロールの賜物だろう。
タケルはいつか、川でガウリーの練習台にされたことを思い出した。服のまま川の水に入ったタケルを魔法の熱で温めた水流でもみくちゃにし、浮き上がらせ、温風を纏わせながら地面に落とす。──その頃には髪も服も乾き、一瞬で水浴びが済んでしまった時のことを。
レオの身体はゆっくりと、目標のバルコニーへと運ばれていく。集中したガウリーの横顔は、タケルからすれば鬼のような表情をしていた。──そして、レオの足が無事、バルコニーへ辿り着く。レオはこちらに向かって片手を振ると、踵を返して窓を叩いた。鉄柵の間からそれを見守っていたタケルたちは、窓が開かれ、レオが室内へと入っていく姿を確認する。
「すげえ、ちゃんと行けた」
タケルが呟くと、傍でハロディが苦笑した。
「さ、次は君の番だ。……アルトがあっちで騒ぎを起こしてるうちに、君も向こうに送ってしまわないとね」
「──アルト、捕まったりしないか?」
「アイツはちょこまか動き回ることしか取り柄がねぇからな」
すかさず口を挟むガウリーにハロディが肩を竦めて笑う。タケルが苦笑を漏らしたところで、その体がレオと同じようにゆっくりと浮き始めた。
一度体験したが、慣れない感覚だった。風を身に纏ったかのように服や髪は靡くのに、周囲にはそれほど影響していない。自らバランスを取ろうとしてもそれは叶わず、体を撫でる風に身を委ねるほか方法が無い。タケルは弓と矢筒を取り落とさないよう抑えながら、自分の体がバルコニーへ到着するのを歯噛みして待った。
バルコニーの柵を越え、纏わりついていた風が一気に霧散する。急に重さを取り戻したタケルの体は容赦無く落ちるが、地面からさほど離れていなかったこともあり、少し蹈鞴を踏んだだけで着地には成功する。振り返って柵の外を見下ろせば、褐色肌と黒髪で闇に紛れたかのように見せかけて長身が頭ひとつ分伸びたガウリーと、白く浮かび上がるようなハロディのダーティブロンドが見える。ハロディはタケルに向かって親指を立てると、そのまま彼を窓へと促すよう手を振った。
「よ、よし……」
タケルは恐る恐る窓に近づき、カーテンの隙間から窓越しに中を覗く。声は聞こえないが、部屋の中央でアリアベルに向かい、レオが何か言っている背中が見えた。
すぐさま言い争う予兆は無かったが、タケルはレオの背中越しに見えるアリアベルの表情が徐々に曇っていくのを目の当たりにした。身振りを添えるレオの手が時折それを隠す。タケルは窓に張り付き、固唾を飲んで二人の様子を見守る。
すると、とうとうアリアベルが口を開いた。叫ぶような声は窓越しにも響くが、詳細までは聞こえない。ただ彼女の悲痛な表情が、どんな言葉を吐き出しているのかは明白だ。タケルから見ても、二人の意見は食い違っているように感じられる。
二人がそのまま争い事を起こすとは思えないが、念のため背中のホルダーに納めていた弓を取り外し、矢筒に手を掛ける。顳顬が汗で冷えたような感覚を抱きつつ、タケルは眉間を寄せる。
その時、突然部屋の扉が開かれた。現れたのは見知らぬ年嵩の男だ。驚いたタケルの肩が跳ねる。男がアリアベルの前に立ちはだかり、レオと距離を取る。そこで、タケルの目は男が携えている剣を捉えた。緊張の糸がこちら側にも伝わり、弓を掴む手に力が入る。そして男の手が鞘から剣を抜いた時、タケルは焦って矢筒から一本抜こうとした。
「いてっ」
弾みで肘が窓枠に当たり、ガタリとそこそこ派手な音を立てた。タケルは矢を握った手の甲で慌てて自らの口を塞いで屈む。
「やっべ……」
思わず咄嗟の呟きが漏れるが、窓に近寄る気配は無い。恐る恐る顔を覗かせると、室内では未だアリアベルを背中に庇った男とレオが対峙していた。
「……待ってくれよ。これ、あの二人戦う流れなのか? いつどうやって割って入りゃいいんだ……”ちょっと待った”って飛び出して行けばいいのか?」
そういう状況に陥って初めて仲裁の実感が湧いたタケルは、自らを落ち着けるように声を潜めて独りごちた。なるべく相手の視界に入らぬよう頭を少しだけ窓枠から覗かせ、ハラハラと様子を窺う。剣を構える男に対し、レオは身構えるだけだ。彼はナイフを所持していたが、それは宵灯亭の、例の部屋にある円卓の上だ。他に隠し武器を持っていない限り、レオは丸腰ということになる。
恐らく作戦の通りなら、アリアベルを庇うあの男は彼女の父親だ。カレンとヴァルターがうまく誘き出すような餌を撒く手筈だった。つまり丸腰のレオを庇うなら、アリアベルの父親に矢を放たなければならない。咄嗟に人に向けて矢を放ったのは、リューデの先にある森で行商人のアーデンを止めた時以来だ。経験があるとはいえ、あの時はまだこの大地についてほとんど何も知らなかった時の反射的な行動だ。しかし、今は違う。
アリアベルは貴族の娘で、その父親ももちろん貴族だ。それがどういう事か、今のタケルはその重みを無意識的に理解できる。仲裁の役目は思ったよりも責任重大な役目であった。
タケルは目を見開きながら瞬きも忘れて中の様子を注視した。対峙した二人は何やら言葉を交わしているようだが、父親の拳がいつレオに向かうかは予想がつかない。アリアベルはその背後で必死に父親の手を止めようとしているように見えるが、あまり効果は無さそうだ。
タケルは剣の鋒に視線を集中させることにした。父親が口を開くたびに揺れるそれが明確な意思を持ったと感じた時、窓を押し開けてその剣に向かって矢を放つ──そう心に決め込むと、弓を持つ手を窓枠に掛ける。
──そうなってくれるなと願うタケルの思いとは裏腹に、剣がレオに向かって振りかぶられる。アリアベルの悲鳴が窓から漏れると同時に、タケルは素早く窓を開けた。
剣の動きに集中し、荒くなる息を止めて矢を番える。レオは何故かその場を動く気配を見せない。どういう経緯でそうなったのかは知らないが、タケルは無我夢中で弓を引き、振り下ろされようとする剣に向かって矢を放つ。
矢尻が剣を突く高音が室内に響く。剣は呆気なく弾かれ、父親の手から離れて床の木板の上を滑っていく。突然の侵入者に驚いた父親は、剣を持っていた腕を抑えながらタケルを振り向いた。その背後では、アリアベルも驚愕に目を見開いている。
肩で息をしていたタケルは、顎を伝った汗を拭うと唾を飲み込んだ。突如として訪れた沈黙のなかで息を整え、その間に何を言おうかと考える。だが、最初に口を開いたのはアリアベルだった。
「あ、あなたは──」
その目は困惑を極めていた。どうやら彼女はカレンやタケルを、単なる”アッシュの伝言役”と踏んでいたらしい。口角を少し上げて軽く笑い返すと、タケルは最後に大きく深呼吸をした。
「あ、のさ。──この人、丸腰なんだ。……それで、あんたにはこの二人の話をちゃんと聞いてもらいたいっていうか……」
「──貴様は何者だ?」
おぼつかないタケルの言葉を遮り、父親──セドリックはぴしゃりと告げた。入り口付近に滑って行った剣に向かって後ずさるのを見て、タケルは慌てて弓を地面に置く。そしてそこから一歩離れ、戦う意思が無いことを示した。
「あの、どっちとも知り合いっていうか……その、もし争い事が起こりそうなら止める役っていうか……」
「──それに、偶然とは思えぬ頃合いの良さだ。止める”役”、か……ライオネル・グレイヴ、全ては貴様の謀というわけか? ロワーサイドの番犬にしては、随分と姑息な真似をするものだ」
セドリックはタケルの言葉を待たずに続けた。矛先はすぐにレオに向けられ、場の空気がさらに緊張感を増す。埒が明かないと感じたタケルはひとまずレオの前に躍り出ると、セドリックに向き合った。
「あのさ、怒んないで、落ち着いて二人の話を聞いてやってくれよ。あんたに言えなくて困ってたことがあるみたいなんだ。一旦この場はお互い武器無しで……話し合うってことって出来ねぇか?」
「得体の知れない者に何を言われようが聞く価値もない。貴様もこの男も我々にとっては不審者に他ならない。──アリアベル、兵を呼んで来なさい。この場は私が抑えておく」
「だから、争ったりするつもりは無いんだって! ──あんたも、なんか言ってくれよ」
タケルは思わずレオを振り返る。その赤い目は燃えているようで、どこか諦めたような色を浮かべている。ここまで来て何を迷うことがあるのかと苛立ちを覚えつつ、タケルは今度は縋るようにアリアベルを振り返った。
「──どうしたアリアベル? 早くしなさい。今すぐこの部屋を出て、外で警戒している兵士を呼んで来い!」
語気を強めたセドリックの声が部屋に木霊した。しんと空気が鎮まり返り、セドリックの息遣いだけがその場に蟠る。呆然としていたアリアベルはその声を聞くと、眉間に皺を寄せて父親の鋭い眼光を撥ね返した。
「──……いいえ、お父様」
アリアベルの低い声にセドリックが口を噤む。その目は信じられぬものを見るように見開き、動きがピタリと止まった。まるで時間まで止まったかのような沈黙が室内を満たし、タケルも口を引き結んで様子を窺う。
「お父様。私は一度も……了承した覚えはございません。リアム様との縁談は、突然お父様が持ち込まれたものです。お父様はそもそも、私が了承するという前提でこのお話を進めておりました。私が反論する間もなく、ただ……指示を与えるかのようにお伝えになっただけ──」
両手を体の前で揃えて真っ直ぐに背筋を伸ばし、父親に強い意志の込められた眼差しを送る。アリアベルは静かに、胸の内に潜む澱みを吐き出していく。受け止める父親の目は焦燥を忘れ、わなないていた。見開いた目は怒りを帯びているようにも見えるが、身動ぎ出来ずにいる。
「ルーメリア教会へ入る時も、お父様は私の意思など聞く間も無くただ結果だけをご報告されました。……私はお父様のおっしゃることに、ただ従っていた。それが正しいのか間違いなのかという疑問すら持たず、”そういうものだ”と受け入れてまいりました。──ですが教会での修行は自戒や慈悲とともに、私に自由を教えてくれたのです」
胸元に下げたプレカリオの鎖を持ち上げ、アリアベルは真摯な瞳を父親に向けたまま視線を外さない。囚われたセドリックは為す術がない。照明の光を受けたプレカリオの煌めきが、そんな彼の体の上を通り抜ける。
「ルーメリア教の教えは尊く、私は感銘を受けました。自戒とは、自由を不当に行使しないよう自らを戒めるもの。でも、自由という前提が無ければ成り立たないものでもあるのです。自ら選ぶことが許されて初めて、その選択を正しくするために自らを戒めることができるのだと。それに気づいた時……私は、ユージー家の人間でいることが苦しく感じてしまった……これまでの自分に疑問を抱いてしまったのです」
セドリックの口が開きかけるが、声は出てこない。娘の反論がそれだけ彼にとって衝撃であり、意外だったことが分かる。タケルは二人の様子を眺めながら、故郷での過去をぼんやりと反芻していた。
「お使いで街を歩くのが楽しくて、無闇に歩き回ってしまった時……迷っていた私を助けてくれたのが”アッシュ”という男性──彼、でした。その時、私たちはお互いの正体を全く知らなかった。でも彼は私がユージー家の人間だと知った時──そして、アーミル家との縁談が結ばれたという情報を知った時……自身の正体を明かして身を引こうとしたのです。引き止めたのは、むしろ私の方」
「……いや、それは──」
「アリアベル、私はお前が大事だ。故にお前のためを思って道を示している。お前は学ぶのが好きだから教会へ紹介したのだ。アーミル家との縁談も、将来の安寧を見据えてのこと。お前はまだリアム君と会ってもいない。彼との”出会い”を経て尚同じことが言えるのか?」
「ですがお父様。教会との繋がりはユージー家のためでもあるでしょう? 縁談も、エレヴァンの領主であるアーミル家と深く関係を築くため……全て、ユージー家のためではありませんか」
一度堰を切ったアリアベルの静かな勢いは止まらない。レオが一歩踏み出しかけるが、それはセドリックに阻まれる。頑ななアリアベルと動揺の混じるセドリックの様子から、二人が初めてこうして本音を言い合っているのだと悟ったタケルとレオは、父娘の前で口を噤み、見守ることに徹する。
「──何と言おうが、お前は貴族なのだ。身の丈に合わぬ者と関わればその身を崩すのはお前自身……ましてやこの男はロワーサイドの番犬”ラ・カーヴァ”の幹部。それを遺漏なく理解しているのか? ロワーサイドがどんな場所で、この男が何をしているのか──全てを把握しているか?」
セドリックの言葉に、アリアベルは僅かに怯む。唇を小さく噛み、瞳がレオに向かって逸らされる。目が合った二人はそのまま見つめ合う。
その傍らでタケルは、セドリックに現れた小さな異変を捉えた。動揺の滲んでいた目が見つめ合う二人を目の当たりにし、瞳孔が開く。それと同時に肩が一度震えたかと思うと、煙のような微かな黒いもので彼の周囲が歪んだように見えたのだ。だがそれに気づかないアリアベルとレオは互いに歩み寄る。タケルは三人の様子を窺いながら、ジリ、と床に置いた弓に一歩足を進ませた。
「私は確かにあなたがしていることや、ロワーサイドのことは知らない……でも、あなたのことは理解しているつもりです。私だけではありません。あなたは”アッシュ”としてではありますが、街の人にも受け入れられていた。あなたがどこで何をしていようと、私にとって──あなたはただ、あなたでしかありません」
「……俺の本当の姿を見たら、お前は後悔すると思う。さっきも言ったが、”今”だからこうしてられるんだ。俺の将来を考えたら、お前は今のうちに”元の世界”に戻っておいた方がいい。──そう、思えて……あのタリスマンを餞別に見送ってやるつもりだった。……けど、お前にはお前の苦しみがあったんだな」
「ええ。──でもこれで、お互い様だということがわかりましたね」
二人は瞳を合わせたまま互いの手を取った。眉尻を下げ、似たような表情で小さく笑い合う。そしてひとつ頷くと、セドリックに向き合った。
「お父様。確かに私たちは互いをまだ理解しきっておりませんが、全てを理解することも出来ないでしょう。それでも一緒に居たいと思うのは、我儘なのでしょうか?」
セドリックは片手で目を覆い、わずかに項垂れる。後ずさる足が覚束ず、ふらついた踵が床に放られた鞘を蹴る。
「もしそうだとおっしゃるなら──どうか不肖の娘をお赦しの上……放逐してくださいませ」
アリアベルの放った言葉に驚いたのはレオだった。アリアベルの肩を掴んで止めようとするが、彼女は首を横に振って応えるだけで父親を見据えている。
だが、そこでようやく部屋にいる誰もがセドリックの異変に気付いた。彼はアリアベルの言葉に何も返さず、自らの額を掴んだまま足を不安定に彷徨わせている。空いている片方の手は何かを探すように空中を掻き、肩は呼吸で上下し、娘の言葉が耳に入っていたのかどうかすら危うい状態だった。
「──お父様?」
頑なだったアリアベルの表情が一変し、気遣わしげに歪む。父親に近寄ろうとするが、彼女の肩を掴んでいたレオが力を込めてそれを止めた──その時だった。
「…………なぜ、わからんのだ」
唸るような声が鳴ったかと思うと、後ずさっていたセドリックの手が床に落ちた剣を徐に拾った。アリアベルの目が見開かれると同時、剣を持つ手が空を斬る。勢いで背後の壁に鋒がめり込み小さな破片が散った時、セドリックの体は黒い靄を纏っていた。
苦しげな呻き声が室内に響く。めり込んだ剣を抜くのに戸惑っていたセドリックがひときわ大きく呻くと、勢いよくそれが引き抜かれる。その力突然暴走したようにも見え、纏っていた靄が爆風の如く放出した。
「なっ……」
慎重に弓を手に取ろうとしていたタケルはその寸前で風に翻弄されて床を転がる。同じく体勢を崩したアリアベルを支える形でレオは膝をつき、彼女を庇う。
「何だこれは⁈ どうしたってんだ!」
レオが驚愕に戸惑う声を上げる。その腕の中でアリアベルも困惑を極めている。だが、タケルには見覚えがった。人の体から滲み出る黒い煙のような靄。操られたかのように不規則に動く体。獣のように異様な力。
「──あんたら、今すぐ逃げろ!」
タケルは吹き飛んだ弓に向かいながら叫んだ。だが逃げろと言っても出口はセドリックの背後にある。窓から出るにしてもアリアベルが危険だ。レオはせめて距離を取ろうとアリアベルの肩を抱いて後ずさる。
その頃には、セドリックは我を忘れたかのように足を踏み出していた。それまで剣の構えすらどこか不器用だった姿は影もなく、暴風のような速さで抱き合う二人に突進し、剣を振り上げる。
「くそっ……待てよ!!」
タケルは弓に飛びついて倒れ込み、起き上がり様に振り返って即座に弓矢を構えて放った。だが不安定な体勢から放たれた矢は軌道がぶれ、セドリックとレオたちの間を切り裂いて奥の壁へと突き刺さる。
高い悲鳴が上がる。一瞬の出来事だったが、奇しくもタケルはそれをコマ送りのように目の当たりにした。
レオを標的としたセドリックの剣。それを察したアリアベルがレオの腕を払って庇うように両手を広げ、きつく目を閉じる。剣が振り下ろされる前に矢がその間を切り裂くが何の歯止めにもならず、無情にも刃は振り下ろされる。──その寸前で、レオがアリアベルを抱き込んだのだ。
レオの背が斜めに切り裂かれ、血飛沫が舞うとともにコートに血が滲む。息を呑んで声を抑えたレオだったが、そのままアリアベルに覆いかぶさるように倒れ込む。返り血を浴びたセドリックは狂ったように笑ったが、それは泣き声のようでもあった。
一瞬遅れてアリアベルが悲鳴を上げる。レオの体から何とか抜け出して触れようとするが、セドリックがそれを突き飛ばす。タケルは我に返って次の矢を番えると、今度は剣を持つ方の肩を狙った。意識が瞳に集中するのが分かる。まるで全身の血流がそこに集中するかのような感覚。タケルの瞳は再び、文字通り色を失くした。
「ぐっ……!」
衝撃によろめいたセドリックだったが、剣だけは離さなかった。タケルは無我夢中で駆け出し、背後からセドリックに体当たりをして諸共床に雪崩れ込む。倒れた体を押さえ込むが、予想以上の抵抗がタケルを襲った。
「な、何事ですか──⁈」
外から駆け込んできた修道女が、室内の惨状に驚愕の声を上げた。そちらを見れば先の爆風で吹き飛ばされたのか、部屋の扉が無くなっていた。
修道女が倒れ伏すレオを捉えると駆け寄ろうとする。しかしタケルは、必死にセドリックを抑えながら叫ぶように言った。
「だ、誰か呼んできてくれ! 治せる奴とか戦える奴とか……あと、外の庭に仲間がいるからそれも! 早く!」
「え、ええ──わかりました!」
修道女は戸惑いながらも何度も頷くと、部屋を駆け出していく。すると、既に騒ぎを聞きつけていたのか、修道士や修道女が数人室内に駆け込んできた。
「怪我人を外に出してくれ! 早く!」
セドリックの唸り声が獣じみたものに変貌していき、呼応するように抵抗が強まっていく。タケルは必死にそれを抑えながら、有無を言わさぬ勢いでレオの搬出を急がせた。
「レオ! レオ! お願い目を開けて! 大丈夫だって言って!」
その間もアリアベルの声が、夜の宵月院に何度も響き渡っていた。




