7-7 諦念の楔
「”アッシュ様からなら受け取れない”って、そう言ってたのかい?」
教会での出来事を聞いたハロディは、確かめるように尋ねる。するとカレンは眉尻を下げ、肩を落として答えた。
「ええ。”アッシュ様”のことは確かにご存知のようでしたわ。……ですが、受け取れないと──そうお伝えして欲しいと頼まれまして……」
カレンは小物ケースの蓋を開いた。中には、渡して依頼達成の筈だったタリスマンが収められている。行先を失ってしまった装飾品は、どこか所在なさげにも見えた。
「まあ……無理にでも押し付けちゃえばよかったじゃん、と言いたいところだけど、君たちには出来ないか」
「──そうするには、彼女の表情が悲痛に見えたのです。お二人の事情を知らないわたくしには、引き下がることしか出来ず……」
「事情を知らないからこそ、預けちゃって後は好きにして貰うって手もあるけどね。二人の問題なわけだし」
「おい、カレン様にそんな無責任なことが出来るわけないだろう!」
まるで悪戯のように小狡い案を出すハロディにヴァルターが噛みつく。「おお怖い」と肩を竦めるハロディの向かい側で、ベッドに胡座をかいて話を聞いていたタケルが首を傾げた。
「あのさ、何であの人、”アッシュから”ってことにしてたんだ?」
三人の視線が一斉にタケルへ向けられる。三者三様に目を丸くして口を閉ざしたことにより会話が止まり、タケルはまごついた。
「──単純に、レオが偽名を使ってるっていうのは、分かるよね?」
「……ああ、うん」
「じゃあさ、君はレオが、何で偽名を使ってるんだと思う?」
「え……っと」
ハロディが膝の上に肘をついて身を乗り出すようにタケルに尋ねる。真意など考えもしていなかったタケルは、すんなりと答えが返されなかったことに動揺する。そして、自分なりの考えを捻出しようと頭を捻った。
「そ、そういう気分だったから……とか……?」
弱々しい声に、ハロディが小さく吹き出す。ヴァルターは顔を顰め、カレンは瞳を瞬かせた。
「──何だよ!」
「いや君、本当に何ていうか……下手したら誰よりも純粋培養なんじゃない? ここが君にとって異国だってのもひとつ理由なのかもしれないけどさ。君を見てたら僕の中のアカツキが、どんどん無垢で清澄な国として出来上がっていくよ」
ヴァルターが溜息を吐き、説明しようと口を開きかける。だがそれを手で制し、ハロディは口の片端を持ち上げた。
「いや、待った。直接レオに聞いてみたらいいんじゃない? その方が意外と言葉の連鎖魔法が見られそう。──どのみち、レオに事情を話さなきゃいけないわけだしね」
試すような瞳がタケルに投げかけられると、タケルは盛大に顔を顰めた。タケルは目の前で余裕な表情を見せるこの年長者の、こういった性質に未だに慣れないでいる。
居心地悪そうに口を尖らせているタケルを振り向き、カレンが微笑みを漏らす。そのまま居住まいを正し、目線と仕草でタケルの視線を誘う。
「タケル様は、ロイ様とどちらへ行かれていたのですか?」
タケルは姿勢を正すと、すぐに複雑そうに表情を歪めた。些細なやり取りから口論になり、そのまま決闘へと繋がってしまったこと──少なくとも自分も熱くなって反論したのが一因になったと分かっているので、持ち場を離れてしまったことに対する弁明に苦しむ。そこから決闘に飛躍させたのはロイだ。しかし、タケルにとって頭に血が上る思いを抱いた経験は少ない。この地に来てからは勇者関連の事で気が昂る思いを何度か味わったが、アカツキの生活では常に精神は凪いでいた。師匠である轍が刀で斬られた時に湧き上がったものが、現段階では最初で最後だ。
黙り込んでしまったタケルにカレンが首を傾げていると、ヴァルターの眉間に皺が寄せられる。彼から小言が飛ぶ時の合図である。
「……なんか、すぐ近くの屋敷に連れてかれて、剣の決闘だって言われて……」
慌てて要因を飛ばして出来事を告げる。尻すぼみになっていくタケルの声に、ヴァルターが皺の刻まれた眉間を指でほぐしながら首を横に振った。
「──何がどうなったらそんなことになるんだ? お前相手に好戦的になる理由があるか?」
「いや、だからそれは……俺も悪かったところがあってさ……」
しどろもどろなタケルに、「ハッキリしろ」とヴァルターから喝が飛ぶ。観念したタケルが一通りのことを話すと、ハロディから呆れたような溜息が漏れた。
「あのお坊ちゃんは癇癪持ちなんだ。君の一言が琴線に触れちゃったんだろうねぇ。──まあ僕も彼の琴線を踏み抜いた人間だから、君の事とやかく言えないんだけどさ」
そう言って哀れみの込められた苦笑を零し、ハロディは窓の外に視線を移した。
「アイツは、騎士とか勇者とか……そういうものに憧れてるみたいなんだけど、固執し過ぎてる節があってね。──ちなみに、勝負はどっちが勝ったのかな?」
「三本勝負だったんだけど、俺が剣の経験があんまり無いって話したら俺は一本で勝ちってことになったんだ。……で、その……最後の一本は取れたんだけど」
「…………なるほどねぇ」
カレンとヴァルターが何か言う前に、ハロディはそう呟いて遠い目をした。そろそろ西日が差してくる時間だ。室内には自然と哀愁が漂い始めた。
「まあ、君が気にすることはないよ。──何かに固執することってさ、人を奮い立たせる時もあるけど、行きすぎると……現実や、理不尽や不運に抵抗できなくなって、抑えられなってくるものだ。多分今、奴はそんな状態なんだろう」
そっとしておくべきだと、ハロディは言った。タケルはロイに対して何かしようという気はなかったが、思うところはあった。あのような執着や固執は、初めて見るものだったからだ。自分も、自ら弓を選び、周囲を拒んで山へ逃げ込んだことがある。今思えばあれもある種執着なのだと思う。だがロイのようにどろどろとした、怨嗟にも似た色を帯びたものではなかった。
とはいえ、タケルはロイの衝動のような黒い熱に、遠い意識の縁で憧憬の念を抱いた。感情に突き動かされる感覚を知りたいとさえ思う。ハロディはロイに対して冷めた眼差しを向けているようだが、自分はそうはなれないだろうと無意識に自答する。
「じゃあ、ちょうどいい時間だし……宵灯亭に向かおうか。レオに現場を報告しよう」
ハロディはタケルを横目に、重くなった空気を指で弾くように提案した。ヴァルターがそれに首肯する。カレンは心配そうな眼差しで最後までタケルを見守っていた。だが彼が振り払うように視線を上げ、「行こう」と応えて頷くと、その意思を尊重するように小さく微笑んだ。
再び、夕暮れのロワーサイドを歩く。もう何度も重ねてきた行程に慣れたのはタケルたちだけでなく、鉄扉の門番であるバイロンも同じだった。もはや「どうぞどうぞ」と何の抵抗もなく扉を開錠してくれる彼が、最初はずっとこちらに怪訝な視線を向けていたのが懐かしく感じる。途中でアルトを拾い、彼女に殿を任せるのも最早恒例となっていた。
工場の煙が上り、鍛冶場から響く小気味いい金床の音をすり抜け、薄暗がりの細道を並んで歩くのにも慣れた。始めは緊張に身を固くし、周囲を警戒したものだ。少なくともタケルは今ではそのひりつきを掌握し、自然と周囲の気配に気を配れるようになった。最後まで気が抜けなかったアンスールの地下、リムではこうはならなかった。
開店準備中の店の扉を叩いて中に入ると、カウンターで作業中だったリリーが苦い顔をした。奥ではネリが箒を片手に手を振っている。カレンとタケルが揃って手を振り返す横で、ハロディがリリーと対峙した。
「ちょっと、また何か用? それとも依頼完了の報告?」
「依頼の経過報告かな。レオと会いたいんだけど……」
「はあ、分かったわよ。もう直ぐ来るはずだから、上で待っててくれる?」
リリーは懐から鍵を摘まんで取り出すと、ハロディに投げて寄越した。そしてカウンターの天板を折り上げて奥へと促す。ハロディを先頭に階段を上り、先日通された部屋へと向かい、鍵を上げて中へ入る。ハロディがランタンのルビライトを反応させて明かりを灯していくと、相変わらず重厚な分厚い円卓が室内に浮かび上がる。天板では、レオが突き立てたナイフの跡が影を沈ませていた。
「──さて、教会であったことを話したら、レオはどんな反応するんだろうね?」
呑気な声が壁に溶けていく。円卓の席に座り、背を預けて足を伸ばし、頭の後ろで指を組んだハロディは実にリラックスしているように見える。タケルはその隣で深く座り、ちらちらと出入り口の扉を気にした。
「口外厳禁という点以外では明確な契約は交わしておりませんでしたが、このような結果になってしまっては──依頼を破棄されてしまう可能性もありますわよね……? そうなれば当初の情報料を集めるほかありませんが……時間と資金が余計にかかってしまいます」
「うーん、どうかな? そこはレオ次第だけど……確かに依頼破棄は厄介だな。今は外の異変の影響で兵士や騎士、銀朱の群鳥が出回ってるし、僕らに回ってくる依頼も限られてくるだろう」
「お前を知る市民からはよく”暇してる”と聞かされていたからな。下層区ギルドの弊害か、元々の評判なのか……」
「おいおい、僕はともかく、アルトやガウリーの戦力は見ただろう? 心外だなぁ」
カレンはすっかり肩を落としている。今回の報酬は情報でもあるため、破棄されればヴェルダ族へ繋がる道が閉ざされ、振り出しに戻る可能性がある。タケルを故郷へ帰したいという目標を掲げている彼女は、それが頓挫してしまうことを恐れていた。
窺うような上目遣いを向けられ、タケルは肩を竦めた。色々あって失念していたが、自分には故郷に戻るという目的がある──そのために、カレンは動いてくれている。自分が所在なさげにしていると、カレンが必要以上に気にしてしまうことだろう。タケルは一度視線を逸らしてからそれを彼女に戻すと、小さく笑い返してみせた。
そんな空気のなか、廊下の方から硬い靴の音が聞こえ始めた。タケルたちは口を閉ざし、居住まいを正す。鎖の鳴るような金属音も混じった足音がだんだんと部屋へと近づき、やがてドアノブが引かれる。扉前に佇むアルト越しに姿を現したのは、相変わらず不機嫌そうな表情のレオだった。
「──渡せたのか?」
掠れた声でそう尋ねながら、空いている席へと勢いよく腰を下ろして足を組む。両隣のヴァルターやハロディに視線を彷徨わせた後、カレンはおずおずと懐から小物ケースを取り出し、テーブルの天板に乗せて蓋を開いた。その中身を見たレオの眉間に力が篭る。
「……結論から申し上げます。アリアベル様から、受け取ることを拒否されました。”アッシュ様からのものなら、受け取れない”と──」
カレンの言葉尻に舌打ちが放たれた。視線を逸らしたレオが、苦悶の眼差しであらぬ方向を睨みつけている。タケルは視界の端で、努めて落ち着いた表情を崩さずにいるカレンの肩が小さく跳ねたのを見た。隣に控えるヴァルターの表情が僅かに歪むのも。
「…………じゃあ、どうしろってんだ」
それは明らかに独り言だった。しかし、その場にいる誰もがその悔しげな声を聞いた。たった一言呟かれたその言葉に、深い事情が滲んでいる。そんななかで、ハロディがチラリとタケルに視線を送った。気づいたタケルはそれを受け止めると、固唾を飲み込んでレオに向き直る。そして、膝の上に乗せていた両手の拳を緩く握った。
「あの、さ。ひとつ、聞いてもいいか?」
「……あ?」
「”アッシュ”って、偽物の名前なんだろ? 何でそんなまどろっこしいことしてるんだ?」
意を決したタケルの問いかけに、鋭いレオの眼差しが刺さる。まるで、それだけで質問から逃れようとするように。だがタケルは目を逸らさず答えを待った。見かねたハロディが小さく溜息を漏らす。
「──事情を言ってくれたら、やれることが見つかるかもしれないよ。もちろん、僕らに出来ることなら……だけどね」
肩を竦め、片眉を持ち上げて微笑むハロディは、緊張漂う状況にそぐわないようで支柱となった。穏やかに見えて有無を言わさない瞳がレオを見上げる。レオは歯噛みし、なおも目を逸らさないタケルを値踏みするように見据えた。服装こそ他の市民と変わらないが、顔立ちや纏う雰囲気は明らかに余所者然とした少年。だが、不思議とその黒い瞳が、裏切りを知らぬ確かなものだと直感出来る。レオは再び小さく舌打ちした。
「ロワーサイドってのは合法的に壁の中に組み込まれた”ならず者”の住処だ。ここにいるのは”上”で真っ当に生きられない奴らで、ラ・カーヴァはどんな事をしてでも、ここで起きた問題を上に持ち込まないよう対処する組織。そのためには人道や倫理に反することが必要になる時もある。──どうしようもない奴ってのは、恐怖で従わせるしかないからな。……で、俺はそんなラ・カーヴァの幹部ってわけだ」
疲れ切ったような声で前置きのようにレオは語り始めた。タケルは相槌を打ちながら真剣な眼差しで耳を傾ける。そんな彼の様子を垣間見たレオは、観念したような吐息を漏らし、浅く座っていた姿勢をわずかに戻した。
「──俺には幹部として、”上”の状況を確かめる密命がある。その時、俺がラ・カーヴァのライオネルだってことは絶対にバレちゃならない。だから、密命の時には偽名が必要ってわけだ」
「それが、”アッシュ”?」
「……ああ。それで──俺は”アッシュ”の時に……アリアと出会った」
レオはそう言って、小物ケースの中に収められた不格好なタリスマンに遠い目を落とした。しんとした室内に、彼の静かな語りが調べとなって漂う。タケルたちは、心なしか険が失われた低い声を邪魔することなく静かに聞いた。
──
秘密の通路を抜け、セントラルの様子を窺う。行商や商店の市場を確かめ、ロワーサイドの住民になけなしの仕事を与えるためにも、それは必要な調査だ。次期ボスとして幹部となってまだ日が浅いレオは”アッシュ”と名乗り、ロワーサイドとは異なり日差しに溢れた街を歩いていた。
”アッシュ”は旅人だ。アンスール大陸を渡り歩き、行商じみたことをしながら食いつなぐ放浪者。特別な拠点を持たず、定期的にアルマにも訪れる。街の人はアッシュと再会すると、みな一様に「久しぶり」と笑いかける。これは、幹部となる前から任されていた仕事で築いた関係値によるものだ。
「今夜の宿は?」
「三つ星亭だよ。俺、万年金欠だし」
「なんだ、じゃあ再会記念に酒でも奢ってやるよ。今夜空いてるか?」
ロワーサイドのことなど知らぬ人々は、気さくにアッシュを迎える。心の奥底で後ろめたさを感じつつも、レオはセントラルにいる間だけ”ラ・カーヴァのライオネル”であることを忘れ、街の住民と笑い合う──それが、彼のもう一つの顔だった。
下層に流れてくる粗悪品の鉱石や魔石を鍛冶場から買い取り、それをセントラルの商店などに売りつけることで”アッシュ”としての体裁を保ちながら街に溶け込む。生まれた時から暗い夜の世界が人生の舞台である彼にとって、それは泡沫の夢のようなものだった。
短い滞在期間の中で、セントラルの街を隅々まで観察する。日陰にならず者が混じっていれば、秘密裏に対処することもある。レオはその日、ロワーサイドの住民として相応しい人物を一人下層に放り込み、再び路地裏を練り歩いていた。空も朱い夕暮れ時、迷い込んだように覚束ない足取りで視線を彷徨わせる白い影を視界の端に確認すると、自然とその影を追う。
程なくして、影にはすぐに追いついた。日向の部分で立ち止まり、途方に暮れた様子だったからだ。白い影に見えていたのは、教会の修道服だった。全体的に華奢なシルエットと頭に被ったヴェールが、後ろ姿でも女性であることをレオに知らせた。
「おい、あんた。ひょっとして迷子か?」
声をかけたのは無意識だった。別にセントラルの治安を守る義理は無い。ならず者候補をロワーサイドに送るのも、面倒な手続きをすっ飛ばして下層区の働き手とするためだ。ロワーサイドには、ロワーサイドを存続させるための”上がり”が必要なのだ。
だが、何故か惹かれるように、レオは修道女に声をかけた。面倒ごとに巻き込まれないよう、配慮するかのように。
「あ、──ええ。薬屋に使いを頼まれたのですが、どこかで道を外れてしまったようで」
「薬屋? この辺には無いはずだ。どこの店を指定されたんだ?」
「”薬屋ベネット”というお店です」
「ベネット爺さんのところか! それなら中央通りの向こうだぜ。こっちは正反対だ。……あんたもしかして、方向音痴か?」
レオが笑いを漏らすと、修道女は微かに眉根を寄せた。まるで彫刻のような無表情がわずかに動いた事に、レオは目を瞠る。そして反論に身構えたが、返ってきたのは想像とは違う言葉だった。
「……あの、あなたは?」
そう問われ見上げられた時には、もう寄せられた眉間は幻のように元に戻っていた。レオは肩を竦めると、両手を腰に当てた。
「”アッシュ”だ。旅人やってて、もうこの街には何度も来てる。薬屋ベネットにだって案内できるぜ」
苦笑を漏らしてそう言うと、修道女はほんの少しだけ口角を持ち上げた。
「私はアリアベルと申します。ルーメリア教会の修道女です。……では、ご案内いただいてもいいですか?」
二人は肩を並べて路地を抜け、中央通りを折れてから渡ると、反対の路地へと入っていく。その道中、取り留めのない会話をした。ほとんどがレオから切り出した話題だったが、アリアベルは表情に反して反応が良く、静かながらも会話は弾んだ。
「教会の人間って、こっちに来る事あるんだな」
「ええ。薬草畑で採れた薬草をお渡しするのです。お受け取りした金銭は寄付金として、教会に収められます」
「へえ。でもそれなら、薬師が教会へ行った方が良くないか? 教会ってなんだかんだ、色々忙しいんだろ?」
「教会からお配りすることに意味があるのですよ。お忙しいのはお店の方も同様でしょうから」
「ふうん、そりゃご苦労なことだ。でもだったら、もっと街に詳しい奴に頼めばいいのに──あんたみたいな方向音痴じゃなくてさ」
「ええ、本当に。今回は私が無理を言って許可をいただきました。……街を、見てみたくて」
レオの揶揄いにも動じず、微笑みまで帰してくるアリアベル。慈愛の奥に潜む揺るがぬ芯が、レオの心を擽った。
「──ほら、あれが薬屋ベネットだよ。これでもう次から大丈夫か?」
「ええ、ありがとうございます、親切な旅人の方」
「アッシュって言っただろ」
「……アッシュ様」
別れ際にはそんなやり取りをした。一度限りの逢瀬だろうと思っていたのに、何故か名前を刷り込むようなことをした。レオは店の中に消えていくアリアベルの背から視線を剥がし、約束の酒場へと足を向ける。もう二度と会わないだろう。──だが、良い出会いだった。そんなことを思いながら。
しかし、二度目の逢瀬はすぐだった。次の”アッシュ”の訪問時、別の路地裏に迷い込んだアリアベルと遭遇したのだ。彼女はレオに気づくと、わずかに気まずそうに視線を逸らして足を止めた。
「……やっぱりあんた、方向音痴だろ」
「……返す言葉もありませんね」
「で、今度はどこに行きたかったんだ?」
「薬屋の、マルセルという方のお店です」
二人は再び肩を並べて路地を歩いた。二度目の案内では別れ際、用事はすぐ済むから待ってくれと頼まれ、店の軒先にしばし止まった。そして帰りに小さな喫茶店へと招かれ、礼としてお茶を一杯ご馳走になった。レオにとっては何とも上品な返礼で、姿勢正しくテーブルの向かいに座り、カップに手を添えて茶を嗜むアリアベルが発光して見えるほどだった。
「じゃあな。好奇心旺盛なのもいいけど、次からちゃんと人に道を聞くんだぞ」
「ええ、そういたします。自分を過信せずに」
喫茶店の店先で別れ、ハイフォールドに向かっていくアリアベルの背中をぼんやりと眺める。喫茶店は薬屋ベネットにほど近く、前回の使いの帰りに見つけて、入ってみたかったのだと言っていた。
「いろいろ、自分の足で見てみたかったんだろうな……」
無意識に呟きが漏れた。きっと、街の様々な景色を見たくて自分の足だけで探検していたのだろう。教会で修行する人間は、おいそれと教会からは出られない。その制限が解かれる唯一に近い方法が、”薬草の使い”だけなのだろう。
レオは、通用門へと続く坂道へその姿が消えるまで、無言でアリアベルを見送った。その時にはもう、彼女への想いを抱いていた。
──
「──アリアがユージー家の令嬢だって知ったのは、四回目に会った時だ。アリアは素性を隠したがっていたみたいだが、俺は街の奴からそれを聞いて知った。──今思えば、あの時引き下がってりゃ良かったんだ。でも俺は”アッシュ”としてアリアに会うことをやめられなかった。アリアも……同じ気持ちだったと思う。自惚れなんかじゃなく」
レオはそう言って、テーブルに両肘をついて手を組んだ。そしてゆっくりとその上に額を乗せる。レオが言葉を切ると、しばしの沈黙が降りる。誰も口を挟むことが出来なかった。
「アイツは教会の裏手にある秘密の通路を教えてくれた。宵月院にあるアイツの部屋の窓の位置も。街に下りられない時には、そういう裏技もあるってさ。で、俺が尋ねると周りの目を盗んで裏手の庭に出てきて……格子越しに色々話したりもした」
レオの肩が力なく揺れる。自嘲したのだろう。
「だが、分かるだろ? これは”夢”だ。現実じゃないんだよ。ずっとこんなことが続くわけがない。俺はある日、自分の素性を打ち明けた。俺がロワーサイドの人間で、それを束ねる幹部の一人だってことも全部な。正体をセントラルで言いふらされてもいいとさえ思ってた。……けど、アリアはそうしなかった。むしろ俺に言ってみせたんだ。”それが、何だって言うんですか?”ってな」
そこまで言って顔を上げ、レオは再び背もたれに寄り掛かった。両肩の力を抜き、体の中の膿を取り出すように長い息を吐く。そして、黙って耳を傾けている円卓の面々に瞳を巡らせた。
「間もなく、アリアに縁談の噂が広まった。俺はいい機会だと思って、会うのを止めようって言ったんだ。相手はエレヴァンの……アーミル家の子息だろ? 港湾都市の商売人に嫁げるなら、アリアは存分に街に出られる。アイツの幸せがあるのは、ここじゃない」
諦めたように笑いを漏らすレオだったが、そこには潔さも滲んでいた。関係を続けられないと嘆くでもなく、静かに身を引く覚悟がある。語りが一旦の終わりを告げると、ハロディが椅子の肘掛に頬杖をついた。
「……なるほど。つまり君は、元々立場の違いで関係がどうにもならないと分かってて、今回の縁談を切っ掛けに身を引こうとしたってわけか。──このタリスマンは、餞別?」
「そうだ。自作だが、これに込められたキャスターの魔力は本物だ。お前の所の奴に頼んだからな」
「ガ、ガウリー⁈」
叫ぶような声とともにハロディの肘が肘掛から外れ、盛大に体勢を崩す。驚いたのは彼だけじゃない。タケルをはじめ、ガウリーを知るこの場の人間は全て、等しく瞠目した。
「ほとんど居ないキャスターで俺が知ってるのは奴だけだったからな。詳細までは話してないが」
「ってことは君、相当前からそのタリスマンを懐に潜めてたんじゃないかい? ここ最近は、僕ら国外に出てたんだから」
「──……まあ、そうだ」
レオは静かに答えると、タケルを見据えた。
「……これで分かっただろ? 偽名は元々仕事の一環だったが、俺がラ・カーヴァのライオネルである限り、ユージー家の令嬢であるアリアベルとは相容れない。──それで今、こんなことになってんだ」
全て聞き終えたタケルは、これまでのことを思い出していた。親と揉めてまで音楽の道を選び家を飛び出したカラ、アンスールの地下水路から一人で飛び出せず踠いていたネリ、そして、恐らく家の重圧を必死に受け流そうとしているロイ。少なからず関わりを持った人々は、それぞれ何らかの問題に抵抗し、耐えていた。カラは楽器の腕を試すためにエレヴァンへ向かい、ネリは育ての恩人を助けるためにもリムを脱出し、ロイはギルドという与えられた居場所で奮闘している。道は違えど、三様に未来を目指しているようにタケルには映った。
だが、このレオはどうか。彼から感じるのは”諦念”だ。本当の望みを自ら作り上げた装飾品で押しつぶし、それを相手に与えて無かったことにしようとしている。カラやネリ、ロイがこの先どうなるか分からない。だが遠い先の未来で、彼のように何かを諦めることになるのだろうか。そう思うと、どうしてもやるせなかった。頑なにタリスマンを受け取らなかったというアリアベルの方が、望みを胸に抵抗しようとしているように感じられた。
「アリアベルに……それ、全部伝えてるのか?」
タケルは静かに問いかけた。目の前の青年は、苦悩を忘れてしまったかのようだ。せめてそれを拾い上げ、アリアベルに有りのままを伝えたら、状況がどうにか変化しないだろうかと思ってしまう。だがレオの返答は吐き捨てるようなものだった。
「全部言ったさ。現実も伝えた。あんたがどう思ってるか知らないが、ハイフォールドの商業貴族とロワーサイドのファミリーじゃ、本来ならどうやったってかち合わないはずだった。だが俺がセントラルの”アッシュ”で、あんたがただの修道女だから偶然出会えて、関係を続けることが出来たんだ、ってな。事実を知った今でも互いの気持ちが同じなら……なんて綺麗事じゃ、この現実は塗り潰せないんだよ」
自分に言い聞かせているように聞こえるのは、自分が彼に、そうあって欲しいからだろうか。そんな風に思いながらタケルが反論の余地を探っていると、気を取り直したハロディが足を組んでタケルを見据えた。
「まあ僕も、レオの考えは理解できるかな。──タケル君、君の目の前にいる彼は今まっさらに見えるけど、本来は暴力の世界の人間なんだ。時には命だって奪う。けど、アリアベルはそれとは対極にいる女性だよ。いくら自分の幸せがレオと一緒に居ることだって突っぱねても、いずれこの問題にぶち当たる。その時彼女がレオを諭そうとしたって、それは無駄なことでしかない。それにレオと一緒になることで、彼女はレオの弱みになる。……住む世界が違うっていうのは、そういうことだ」
リムでは、街に溶け込もうとしていた下層の人間が、結局は差別にあって地下に戻ったという話を聞いた。今回は、互いの背負った使命がしがらみとなって諦めることを余儀なくされている。逃げ出そうとしても、それが出来ない責任を互いが負っているのだ。
ネリには、「立場なんかどうだっていい。そうしなきゃならない状況なら、逃げるのもひとつの手だ」と言って励ました。カレンに賛同する形ではあったが、タケルは本心からそう思っていた。ネリは今、下の酒場で楽しそうに働いている。逃げた結果、現状ではいい兆候をみせている。
一方で同じことをレオに言えるかというと、抵抗心が勝った。しがらみから飛び出してしまえばいいと思うのに、軽々しくそれを言葉にすることが出来ない。何故ならレオは、少なくとも自分がロワーサイドにいることを卑下していない。これまでラ・カーヴァに関する不満が、一滴たりとも零れ落ちていないのだ。
「でも、じゃあ……どうするんだ? だってアリアベルはこれ、受け取らないって言ってるんだろ? その気持ちはどうなるんだ?」
「……受け入れてもらうしかない。それが──この話のハッピーエンドだ」
レオが呟くようにそう言った時、ガタンと大きな音が室内に響いた。驚いてそちらを見ると、カレンがテーブルに両手をつき、椅子が倒れる勢いで立ち上がったところだった。
「カ、カレン様……⁈」
「いいえ! お二人はいま一度、対面して話し合いをするべきだと思いますわ」
驚き戸惑うヴァルターの声を押し除け、力強くカレンは反論の狼煙を上げた。タケルは彼女が眉根を寄せ、怒りにも似た表情を見せる姿を初めて目の当たりにする。
「もしわたくしがアリアベル様なら、あなたのお考えを聞いたらお父様に掛け合います。どんなことがあろうと、わたくしの……お互いの気持ちを知っていただき、それについてどうお考えになるのか聞かなくては」
「……何だと?」
レオは舌打ちをし、カレンを睨み返す。タケルは目の前で火蓋が切られた不穏な空気に動揺し、胸中に蔓延っていた靄の存在を忘れる。その向かいで間に入ろうと立ち上がりかけたヴァルターを制し、カレンは続けた。
「その答えによってわたくしも、どちらを諦め、どちらを選び取るか──考えを固めますわ」
「……あんた、異国の貴族令嬢らしいが……とんだ世間知らずだな。世の中ままならないことなんてごまんとある。──それを作り上げたのは、あんたら上流階級だろう」
「……そうかもしれません。ですが、立場や世界が違うからといって想いを封じ込めるなんて、毒を飲むようなものですわ。お二人が結ばれることで、新しい道が開かれる可能性だってあるはずです。それを試さず諦めるなんて、わたくしには出来ません」
今度はレオがテーブルに手を叩きつけた。分厚い天板が大袈裟に跳ねる。その赤い瞳は、燃えているようにも見えた。
「知った口聞くんじゃねえよ。てめぇら貴族ってのはどうしてそう自分本位なんだ? 自分が正しいと信じて疑わねえ──誰がどれだけ振り回されようと、知ったことかって面して強行する。こっちの気遣いや配慮なんてお構いなしだ。……大体あんたはこっちの貴族のことなんか何も知らねえだろ。同じ貴族令嬢だからといってもアリアとは別人だ。それで首突っ込んで引っ掻き回そうなんて、どうかしてる」
レオは叩きつけた拳を強く握り、呻くような声で反論した。最後には吐いて捨てるように笑ったが、それは明らかに自嘲だ。あまりの物言いにヴァルターの表情にも怒りが浮かんでいる。タケルはそんな彼らを見守りながら、互いの胸中に潜む苦しみを見た気がした。
「──最初はあんたらならって思ったが、これじゃ話になんねえよ。……依頼は無かったことにしてくれ」
「いいえ!」
小物ケースに伸ばされたレオの手が届く前に、カレンが両手を被せて自らに引き寄せる。予期せぬ行動にレオが瞠目すると、カレンは息を上げながら両手の中に守ったケースを強く握った。
「全てアリアベル様に打ち明け、お二人がお会いする機会を作りましょう。お互いにお互いの想いを無視することなく話し合い、その上で納得し合うことが出来れば──もっと滞りなく事が進むはずですわ」
「──余計な世話だって言ってんだろ!」
怒りのままに立ち上がるレオの勢いで、重い椅子が転がるようにして倒れる。そのままカレンの元へ向かい兼ねない彼を、反射的に立ち上がったタケルが抑えた。その隙にヴァルターがカレンの前に立ちはだかる。二人に阻まれながら、カレンとレオは互いに強い視線を向け合った。
「邪魔だ!」
「待てよ! ──俺、あんたの言い分も分かるけど、カレンの言い分も捨てきれねえと思う」
障害物を手で跳ね除けるようにして肩を掴まれたタケルは、抵抗しながらレオに食い下がった。
「……分かる、だと?」
怒りに満ちた瞳がタケルを見下ろす。その剣幕に押されながらも、タケルは必死に対抗した。
「──あんたは、諦めすぎな気がする。……やってみるべきだと、思う」
タケルに向かって、やり場のない拳が振り上げられる。カレンが小さく悲鳴を上げて止めようとするが、ヴァルターがそれを制する。タケルはその拳が顔面に向けて飛んでくる様を、まるでコマ送りのような感覚で視界の端に捉えていた。瞳だけは説得するようにレオに向けたまま、両足に力を込める。
「レオ!」
拳がタケルに届く寸前、座したままだったハロディが制止の声を上げた。気づいたように拳が止まり、荒い息遣いで肩を揺らすレオの瞳がハロディの方に落とされる。一触即発の空気にそぐわないゆったりとした動きで立ち上がったハロディは、肩を竦めて苦笑した。
「止まってくれてありがとうレオ。──アルト、柄から手離してくれ」
拳を下ろしたレオに礼を言い、扉の側で刀に手をかけていたアルトに一言添えると、小気味いい音を立ててひとつ、手を叩く。
「……レオ、騙されたと思って彼らの言う通りにしてみるのも、アリなのかもしれない」
「あ?」
掌を返すような発言に、レオが顔を顰めて牙を剝く。それを意に返さず、ハロディは緩く首を振った。
「僕らは、考えが大人臭く凝り固まってるんだよ。──実際おっさんの僕はともかく、君は若いのにいろいろ見すぎて、知りすぎたが故に、そうなった」
ハロディはそう言って、カレンとタケルを順繰りに見据えた。その目は穏やかな弧を描き、まるで二人を慈しむように柔らかだった。
「こんな僕らが行き詰まった時、──世間を知らない子供たちの意見が、案外良い薬になったりするものさ」
レオは視線を逸らして舌打ちすると、カレンの両手に包まれているケースを見据えた。諦めとも納得とも言えぬ沈黙に、タケルは唾を飲み込む。眉根を寄せたままケースから目を離さず動きを止めたレオから漂うのは、葛藤だった。
「……二人の話し合い大作戦、決行してみる?」
「──馬鹿言うんじゃ」
「はい! 作戦会議とまいりましょう!」
ハロディが悪戯っぽく提案する。一蹴しようと口を開いたレオを構う事なく遮り、嬉々としたカレンが返事をする。ヴァルターが疲労と安堵の長い溜息を吐き、額を抑えて肩を落とした。
タケルもそっと胸を撫で下ろし、レオを横目で見やった。その表情はなおも不機嫌そうだったが、その奥に期待の灯火が揺れているようにも見える。
それが幻でも構わない。その時はただ彼の心変わりが窺えたような気がして、タケルは小さな喜びを抱いていた。
──作戦の先にどのような困難が待ち受けているかなど考えもせず、高まる期待に胸を踊らせていた。
全話AI補助利用作品です。
利用範囲:イメージイラスト作成・名称のアイデア出し




