第七話 四ノ島の試験 異変
「瑠璃ぃ、湯加減はどうだ?」
森の中で、海燕の大声が響く。瑠璃も負けじと、大声で声を返した。
「ああ、丁度いいですよー海燕くん。火はそのまま弱火でお願いします」
「わかったぜ」
月明かりすら見えない雲に覆われた夜の闇の中。滋養のある料理を満腹まで食べ終えた瑠璃は、体の疲れを癒さんと風呂に浸かっていた。青い髪が湯の中でさらさらと浮かび上がると、瑠璃は湯の中で大きく手足を広げて体を温める。
瑠璃が浸かっている風呂は天然のものではない。例によって海燕の土属性魔法で土を動かし石を積み上げ、八雲の水属性魔法”水柱”で精製した水を、文次郎が試しに使った”木洩火”の炎によって瞬く間に熱すことで作り上げたのだ。
瑠璃が浸かっている風呂から、少し大きめの木を挟んだ反対側には、瑠璃の火属性魔法で沸かした露天風呂がもう一つある。そちらには今、八雲が浸かっている。今のところ、瑠璃は周囲から視線を感じることはなかった。
『どうせ休息をするならば、いっそ風呂に入りたい』と八雲が提案したことで、この露天風呂は実現した。それを聞いた時、瑠璃は身の危険を覚えた。魔除けの聖水を四方に配置しているにしても、もののけが寄ってくる可能性もあるのだし、不用心だと思いはした。したのだが。
「……邪気や妖気の魔力を感じたらすぐに焼き払えばいいですし、いいでしょう。勿論”紅蓮紅臨”で焼きますから入りましょう」
結局、湯に浸かりたいという欲求には勝てなかった。
「いや、八雲は別に悪気があって言った訳じゃねぇと思うぞ」
「い、意外と助平だな八雲」
文次郎や海燕が尊敬や呆れの入り混じった目で八雲を見る中で、
「そうか?」
八雲だけが気にしていなかった。
こうして、瑠璃はめでたく風呂に浸かっている。今はとにかく魔物との戦闘で負った怪我を清潔にし、舗装されていない獣道を駆けた疲労を回復することが先決だった。
体力のありそうな八雲や海燕と比較すれば、瑠璃は体力に自信がない。明日もこの山で生き残りたいのなら、休むべきだ。そう、瑠璃は計算し判断した。
断じて風呂に入りたかっただけではない。
そうして瑠璃と八雲が二カ所で風呂に浸かっている間は、海燕と文次郎が見張りを続けていた。海燕は瑠璃を見るわけにもいかず、湯から背を向け、温泉の周囲の土に魔力を通して、もののけの襲来に備えていた。
「俺のことは気にするんじゃねぇぞ。ちゃんと背は向けてっからな」
「分かってますよ。邪な視線は感じませんから」
瑠璃は湯に浸かりながら、香草で肌の手入れをし、髪にまとわりついた泥や木屑を洗い流す。丁寧に体を清めながらも、瑠璃の頭の中で、今後すべきことを考えていた。
(昼間は、『揉めたくないから気にしなくていい』って文次郎くんたちに言ったけど)
湯の中で青い髪を弄りながら瑠璃は考えていた。
それは紛れもなく、瑠璃自身の本音だった。初対面の相手に対して責任を持ちたくないという、逃げの感情から産まれた言葉。
しかし。
(……『退魔師として本気で任務を遂行する』のなら。戦闘も探索も、誰かが指揮を執った方がいい、んだよね……)
今日一日、もとい半日の間に、瑠璃は魔熊と大猪という圧倒的な脅威に遭遇している。いずれも、普段使っている装備を持たない今の瑠璃にとっては死にかねない魔物だった。
この森のもののけは、瑠璃の故郷のもののけよりも頑強で、しかも数が多かった。島独自の生存競争の結果だろうか、中級魔法でも一発では仕留められないような強力な魔物複数体と遭遇する可能性も高い。
そういった不測の事態が出来るだけ起きないように、陣形を考え連携しなければ。そういった不測の事態が起きた時に、統率を取り体制を立て直すことができなければ。
当然瑠璃は死ぬ。森に入ってすぐに、魔熊相手に死にかけたように。
しかしそれは言い換えれば、自分自身の行動に対して責任を持つということ。この森で命を賭ける共同体の、指導者として進み出るということだ。
(……それでも、やらなきゃ…言わなきゃ私が死ぬ…!)
瑠璃は湯の中で、自分の掌を固く握りしめる。
瑠璃は自分の力量をよく理解した。この森では、そうせざるを得なかった。
(上級魔法を使える、一門の退魔師。それなりに強い。……んだと自分で思っていたけど、違ったわ。私より強い退魔師なんて、幾らでもいた)
客観的に見れば瑠璃は、上級魔法を伝授され、そして習得に成功した”秀才”の退魔師だった。
上級魔法は、その強力さと制御の難しさから、伝授する条件も厳しくお上によって定められている。教えを受けるのにも、道場内で屈指の実力と成績を修めなければならない。資格を持つ退魔師の管理のもとで、数年かけてやっと会得できる魔法なのだ。
一定以上の魔力量があった上で、対象となる属性魔法の制御理論を理解し実践でき、戦闘可能な段階まで魔法の精度を向上させてはじめて上級魔法を修めたと言える。六級や五級の退魔師の大半は、その段階に至ることも出来ないのだ。
瑠璃が通った道場に伝わる奥義のひとつ、火属性系上級魔法”紅蓮紅臨”。望むものを燃やし尽くす必殺の炎を、一年かけて瑠璃は修得した。早いとは言えないだろうが、遅いとも言えない。二年かけた先輩や三年かけても習得出来なかった先輩を、瑠璃はその目で見てきた。
上級魔法を習得したことは瑠璃にとっての誇りであり、自信でもあるが。
それに溺れて死んでは本末転倒だ。
(上級魔法を使える人間は、同年代にもいた。この森で出会った文次郎くんもその一人だった。そして、その文次郎くんも、この森で死にかけた)
上級魔法は強力だ。それに疑いはないが、強力ゆえに咄嗟の発動には向いていない。初級魔法や、一部の中級魔法と違って連発も出来ない。それは戦闘においては、致命的な弱点だった。
そして瑠璃は今日、上級魔法を使えなくとも生き残っている退魔師を見た。
(八雲くんは、接近戦が得意みたいだったけど……中級魔法が通用しない魔熊に対しても痛手を与えたて仕留めていた。……その上彼は、今日傷らしい傷も負っていない)
これは異常な戦果だった。瑠璃の同年代で、魔熊相手に戦える退魔師は居なかったからだ。
その事実を思うと瑠璃はうすら寒い思いに囚われる。世界の広さとともに、己の生きてきた世界の矮小さというものを痛感するからだ。
湯に顔をつけて、瑠璃はさらに物思いにふける。
(海燕くんは、土属性の魔法を上手く使って、もののけからの痛手を最小限に抑えていた。接近戦も、結構できるみたいだったし)
八雲が雲の上の存在であるならば、海燕はかなり瑠璃に近い位置にいる退魔師だった。それでも戦闘不能寸前になっていないのは、八雲の存在のせいもあるが、本人の立ち回りの良さも大きいはずだ。
土属性魔法によって大型のもののけと自分との距離を管理し、致命的な攻撃を避ける。そういった立ち回りを瑠璃一人でしようとすれば、魔力が枯渇し、上級魔法も撃てなくなってしまうだろう。
だからこそ、海燕や文次郎の手を借りる必要もあった。特に文次郎は、瑠璃よりも才能があった。別の地域の魔法を、教えて貰ったとはいえ即座に実践することは瑠璃には出来ない。
魔法とは、己自身の魔力を任意の魔力へと変換して制御する技術だ。本来は、時間をかけて魔力といえ邪なものを飼い慣らしていくものなのだ。その枠組みから外れかけた魔法をあっさりと出来るということは、文次郎自身の魔力制御技術が高く、かつ瑠璃にはない柔軟な思考回路で魔力を運用したということだった。
(……もしかして彼らから見て、私って上級魔法が使える以外に取り柄ないんじゃ……?)
他者と比較したときの己を直視する時、人は思考の牢獄に囚われる。そこに答えなどなくとも、己を責めてしまう無駄な真面目さが瑠璃にはあった。
瑠璃ははあ、とため息をつく。
『お前に一体何が出来る』
(そういえば、家を出るときに父様はそう言っていたっけ)
瑠璃の家は、それなりに長く続いた由緒ある退魔師だ。皇区の辺境においては一般的な神社としてそれなりに栄え、周囲の退魔師と依頼を取り合い、縄張り争いなどもしながら伝統を神の教えを守って生き延びてきた。
だが、時代が進み、瑠璃が生まれて暫く経つと、各地の道場や寺子屋で教える魔法の中にも、魔力の消費効率がよく、もののけに対して有効な魔法が増えてきた。
(今まで通りに伝統を守っているだけじゃ駄目だって思ったんだ……)
だから道場に通い、上級魔法を習得した。神社のためになると思って。
だが。
『私たちが今の地位で留まっているのはね。それが正しい位置だからなの。人には、相応の場所があるのよ』
実家では、あまり快くは思われなかった。
(そうね母様。今なら少しだけ母様の気持ちも分かるかも)
瑠璃の実家全員で強力な魔法を修め、地位を上げ、担当する区域を広げたとして。
その先に待っているのは、縄張りを担当していた他所の退魔師との軋轢や、今日瑠璃が戦ったような、自分の力量以上の強力なもののけとの戦闘だ。
瑠璃はそれを、今日身を以て味わった。
力量以上のもののけとの戦闘で起きる、笑えない末路を。
魔熊と遭遇したときに瑠璃を置いて逃走したのは、腐れ縁の男子だった。親の縁で知り合い、何かと私にちょっかいをかけてきた。だが、大して親しい訳でもなかった。
(……面白い子だとは思ってたけど)
なぜか試験でも出会ってしまったのだ。その男子と。
『ふははは安心しろ。俺が唐草を守ってやる!』
先の見えない試験の最中に、そんなことを言い出す相手を信頼など、すべきではなかった。だが、初めての環境で同郷の知人がいることは心強いものだと思えた。
だから渋々ながらその手を取り、男子が前衛、瑠璃が後衛として、この試験を攻略相談していた。男子が瑠璃の話を聞かずに先行したその矢先に、瑠璃たちは魔熊に襲われた。そして、腰の抜けた自分を置いて、男子は逃げだした。
同じことを繰り返さないために、瑠璃は今度こそ話し合っておく必要があった。
探索のための方法や、四人の陣形、いざという時の指揮権、簡易的な連携方法などなど。まず自分が生き延びるためにも、最善を尽くす義務が瑠璃にはあった。
(男子たちに頼まなきゃいけないんだけど……)
男子たちが瑠璃の力量不足を不満に思い、瑠璃の提案を無視すれば、瑠璃が試験で合格することは出来ない。口上手なら誰か一人を操縦して動かすという手もあるのだろうが、瑠璃は自分が口上手だとは思っていなかった。
(わたしと同じように上級魔法を使える文次郎くんと、見るからに粗野な海燕くんがそれを承諾するだろうか?八雲くんも、私の意見を聞いてくれるだろうか?)
……男子というのは何処までいっても自分勝手で、女子からの指図を嫌う生き物だ。
それを今日学んだではないか。彼らが瑠璃の提案を聞き入れると何故言えるのだ?
(そもそも私が同じ立場だったとして、初対面の相手を信用するだろうか?)
(……)
(…………)
(………………!!)
瑠璃は湯に顔をつけてぶくぶくと泡を吐きだす。そうしなければ不快感で暴れてしまいそうだった。
自分の胸の内で、どす黒い感情が侵食していくのは耐えられなかった。
「おい瑠璃ぃ、大丈夫か?」
「……はっ!?はい、どうしたの海燕くん?」
「どうかしたはおめーだよ。さっきから入りっぱなしだが、何かあったのか?」
湯に浸かって出てこない瑠璃を心配したのか、海燕が声をかけてきた。
「……そうですね、少し考え事をしていました」
「考え事ぉ?」
(何だぁ?)
海燕は首を傾げた。瑠璃は一体何を考えていたのだろうか?
「はい。ちょっと物思いにふけっちゃいまして」
「……そうか。何でもいいけど考え過ぎて頭の中まで茹蛸にはなるんじゃねぇぞ」
「ならないわよ。炭でも吐くの私?」
瑠璃はくすりと笑う。海燕が真面目な調子で冗談を言うのがおかしかった。
この一瞬は、どす黒く染まっていた胸のうちは少しだけ白く染まっていた。
「ならいいんだよ」
「海燕くん。もし私が合格のための秘策があると言ったら、信じてくれますか?」
「秘策?」
(何て真面目な奴だ……!)
海燕は瑠璃がそれを考えていたのかと合点がいった。命と今後の人生が懸かっているのだから当然ではあるのだが、休憩中にまでそれを考えていたとあっては、いっそ尊敬の念すら覚える。
「そりゃ内容によるだろ。八雲たちも居る場所で話せばいいじゃねぇか」
海燕は嬉しそうに言う。
(無暗に声をかけなくて良かったぜ)
考え事をしている時に余計な横槍を入れられるのは、海燕ならば気に障る。何より、考えていた内容を少し忘れてしまうこともある。声を掛けるのを待ったのは、正解だったのだ。
「……それはそうなんですが。皆が私の意見を聞いてくれるかどうか」
「瑠璃が何を不安がってるかは知らねぇが、話があるなら皆聞くとは思うぜ。少なくとも文次郎はおめーの言うことなら聞くだろうし、俺も組むって決めた奴をないがしろにはしたくねぇ。納得出来ねぇとこは話し合って詰めりゃいいだろ。まずは話せよ」
「……ありがとう、海燕くん。少し考えが纏まりました」
……そうして瑠璃が風呂から上がろうとした時。
大地に、轟音が鳴り響いた。




