第一九話 四ノ島の試験 ヒダル神
「なあなぁ瑠璃ちゃん。俺たちってあの神木を止めちゃったわけじゃん?」
文次郎の声は明らかに弾んでいる。強敵を相手にして二人だけで生き延びたことも、自信につながったようだった。
「で、ここが聖域ってことはさ。もうこのまま進んじゃえばさくっと合格できるんじゃねぇ?」
「それは気が早いよ文次郎くん。こういう時ほど気を引き締めないと。勝って魔力を緩めるな、が退魔師の基本ですよ?」
こういう時ほど落とし穴があるのだ、と瑠璃は思う。瑠璃だって、爪土竜を倒した後は気分が高揚していた。神木相手に無謀な特攻をしそうになったのも、その成功体験の影響がなかったとは言い切れない。
「そっかー。このまま今日中に合格出来るかなーって思ったんだけどなー。」
「もちろん、今日中に合格するつもりで行きますよ。空中から様子を窺っていた鉄烏子たちも去っていきましたからね。でも、軽快は忘れないで」
神木との和解によって、海燕たちを取り巻く環境は快適になった。鉄烏子はもののけの中では雑食で、比較的知能も高い部類に入る。鉄烏子は元気のある退魔師に襲いかかるほど好戦的ではないが、より効率よく腹を満たそうとする習性があるのだ。鉄烏子たちは自らを殺せる神木とは敵対せず、海燕たちの上空を飛び回りながら、その死体を狙っていたのである。
「鉄烏子は賢いからな。神木が人間に対して大人しくなったのを見て警戒したんだろう。これで、この森で亡くなった受験生が鉄烏子に喰われることはなくなっただろう」
そう言って八雲は神木に殺された受験生たちを悼む。神木との戦闘は八雲にとって楽しいものではあったが、それはそれとして亡くなった退魔師の死が悲しくないわけではない。
まだ見ぬ受験生とも会って、話をして、合格して学校に通う機会があれば戦ってみたかった。その機会がなくなってしまったのは、八雲にとってこれ以上ない不幸なのだ。
「神木も人間じゃなくて鉄烏子を狙ってくれればよかったのになぁ」
「神木にとって、自分を傷つけない烏を狙う理由がありません。それは仕方のないことです。あくまでも、神は神であって人ではありませんから」
瑠璃は実感をこめてそう言い、自分の短くなった青い髪を撫でた。実際に神木と対峙したからこそ言える、瑠璃自身の解釈だった。
神木は人間を狙って殺戮を繰り広げたが、そこに悪意や害意はない。人間が地爆基を設置して、自分たちの安寧を脅かすならばそれを排除することに躊躇いはない、というだけのことだ。神木そのものを狙わず人間の掃除までしてくれるならば、鉄烏子のようなもののけだって見逃す。
「神木にも神木の都合というものがあります。重要なのは、それを知って退魔師として動くことですよ。そうすれば神は人にとって害にはなりません」
「そういうものかなぁ?」
「私の魔力や捧げもので、人間を見逃そうという気になったんですから。今はそれでいいじゃないですか」
文次郎はまだ微妙に納得できていないようだった。直接神木の本体と対峙していない文次郎にとって、神木はもののけと変わらない人間にとっての脅威であるようにも感じられた。
(……でも、実をくれたんだよなぁ)
人間を殺してしまうような神とすら和解してしまう瑠璃がすごいのか、自分たちを脅かした人間とすら休戦した神木がすごいのだろうか。
「何ていうか退魔師って。もののけをぶっ殺すだけじゃないんだね」
いつか自分も、それが出来るように鍛えなくてはな、と文次郎は心を改めた。
舗装された山道を歩きながら、海燕はふと違和感を感じた。
腹が、空腹を訴えている。やけに足が重い気がする。
(腹が減ったな……)
聖域の内部で土属性の魔力を放出しても、神木に吸収されてしまう。なので今の海燕は目や耳や足に魔力を集中させているだけで、そこまで疲れてはいないはずだった。
しかし、人間は空腹には勝てない。思考も纏まらないままに、海燕は本能的に言葉を放っていた。
「……腹が減ったぜ。八雲ぉ、熊肉を分けてくれねぇか?」
海燕は後ろを振り向いて八雲にそう強請る。八雲は笑顔で熊肉を手渡した。
「おう。たんと喰え。沢山余ってるからな」
「ありがとよ」
三対の熊を倒したことで得た肉には余裕があった。
「海燕、ちょっと食べすぎじゃねぇ?神木の実は喰っただろ?」
「なんかやけに腹が減ってんだよ」
がつがつと熊肉にかぶりつく海燕を尻目に、文次郎たちも休息をとる。雲の隙間からのぞく太陽の位置にはまだまだ余裕があった。
「……?文次郎くんは食べないんですか?」
「ああ、俺はいいよ瑠璃ちゃん。まぁ、あの海燕は根っことの戦いで一番動いてたからな。魔力を使ったし腹が減るのは仕方ねえか」
(おかしい。神木の実は栄養満点のはず。海燕くんの切り札の副作用?)
瑠璃の頭の中で疑問符が浮かび上がった。
激しい戦闘で魔力を消耗した身体が空腹感を訴えるのは当然のことだ。だが、それならば文次郎もそうであるべきだし、八雲だって瑠璃を背負って移動した上で激しく動き回っている。
瑠璃はそこでふと気づく。
聖域で、最初に干からびた受験生の遺体を見たことを。
「ち、ちょっと待ってください海燕くん。ちょっとこっちを向いてもらっていいですか?」
「ん?どーしたんだよ瑠璃」
「海燕くん。喉が渇いたりしてません?」
「……そいや、そこそこ乾いてんな」
「魔力はどうですか?」
「全快のときよりは少ねぇけど余裕はあるぜ。瑠璃がくれた実のおかげだな」
「その空腹感はいつから?」
「神木との戦闘が終わってからだな。それがどうしたってんだよ?」
「そうですか、それは良かったです。海燕くん、その空腹感、治療させてください」
瑠璃はほっとない胸をなでおろす。どうやらまだ最悪の事態には至っていないようだ。
「……?何か喰わせてくれるのか?」
対する海燕には、瑠璃に対する警戒心がなかった。明らかに判断能力が低下している証拠だ。
「ええ。とびっきりのをお見舞いします。では八雲くん、文次郎くん!戦闘態勢に入ってください!」
「お?」
「何だなんだ?」
「おい、瑠璃、何がどうしたってんだよ?」
「大丈夫ですよすぐ終わりますので。海燕くん、喉が渇いたでしょう?お水をどうぞ」
瑠璃はこっそりと瓢箪にひとつまみの岩塩と水の魔力を入れて海燕に手渡した。、
「おう、ありがとよ」
対する海燕はここに至るまで全く疑問を抱かない。今の海燕にあるのは、空腹感だけだ。
……だからこそ、今のうちに海燕を治療しなければならなかった、
「”浄水”!!」
「んがぁ!!?」
海燕が水を飲んだ瞬間、海燕の口から白い光が解き放たれる。
水属性初級魔法”浄水”。水を浄化するために日常でも用いられる魔法だが、魔除けの効果を持つ塩と組み合わせることで、特定のもののけに対して強力な効力を発揮する。
海燕はその水を飲んだとき、体の全身が熱くなっていくのを感じた。まるで自分の体に熱が送り込まれているような感覚と、熱が呼び起こされるような感覚があった。
そして、海燕の意識はそこで途切れた。
意識を失った海燕が前のめりに倒れそうになるところを、瑠璃が体ごと抱きかかえる。海燕の赤い髪が瑠璃の耳にかかったとき、海燕の背後に影が現れた。
いや、現れたというのは正確ではない。魔力を使い、目を凝らさなければ認識すらできないものが、海燕の背後から煙のように逃げていく。実体を持たない、怪しげな魔力の塊だ。
「ふん!」
「”水泡”」
だが、仲間に憑りついたもののけを逃がすわけはない。八雲が放った斬撃はその魔力を確かにとらえて引き裂き、水泡に包まれた魔力は、文字通り泡となって弾け、消滅させた。
「あーそうかヒダル神か。あの遺体の原因は……」
「餓鬼憑きまで居るのかよこの森は!?とんでもなくやべぇ森じゃねぇか!?」
終わってみれば簡単に祓えたようにもみえるが、戦闘後の男子の顔には余裕がない。それも当然だった。
海燕に憑りついていたのは、ヒダル神という病魔の一種だ。地方によっては餓鬼憑きともいうこのもののけは、山道を歩いている人間に憑りつく。飢饉や戦争や天災のとき以外は滅多に出現しないこの病魔は。本人に自覚症状がないままじわじわと体内を侵食し、宿主の体力を奪いながら中で力を蓄えていく。
憑りつかれた人間は奪われる体力を取り戻そうと、自覚もないままに空腹感を訴える。この段階であれば、今瑠璃がやったように”浄水”という魔法で体内から追い出すことができる。
しかし、病魔が体内で成長した第二段階では、病魔に抵抗する体と病魔とが戦いを繰り広げる。体は主導権を取り戻そうと脱水症状を起こし、ヒダル神は抵抗されながらも完全に体を掌握し、宿主の体をつかって手当たり次第に水を飲み、ものを喰らい、人を襲い始めるのだ。餓鬼憑きという名前も、病魔に侵された人間が餓えた鬼のように人を襲うことからきていた。
こうなってしまうと、憑りつかれた人間を止めることも一苦労だ。憑りつかれた人間は病魔の力で己の体を省みず、己の限界以上の力で暴れまわり被害を広げていく。仮に大して強くはない宿主でも、この段階まで育ったヒダル神という病魔自身の魔力は膨大になっていて、体から追い出した時には上級魔法を放つ化け物に成長しているのだ。
対抗する手段はあるが、その手段がない最悪の場合は宿主を殺すという結末もありえるほどの恐ろしい病魔。それがヒダル神なのだ。
「……でも、本当にこの段階で気付いて良かったです。海燕くんが無事で……」
瑠璃は海燕を介抱しながら手を握りしめた。その手は暖かく、血が通っていた。
「一応おれたちも”浄水”をやっとこう。もしかしたら気付いてないだけで憑りつかれてるかもしれないし」
という文次郎の進言で、三人も浄水をしておく。幸運なことに、三人には憑りついていないようだった。
「聖域ではヒダル神なんて発生しないから、その前の道で憑りつかれたんだろうな。こればっかりは仕方ない」
八雲は海燕に同情的な視線を送る。舗装されていない獣道で、地中に魔力を流しながら進んでいた海燕は、上級魔法を使っていた瑠璃や文次郎ほどではないが魔力の消耗も激しいほうだ。発症する危険性は避けられなかった。
「……ってぇ」
半刻後、海燕は目を覚ました。目覚めの気分は最悪だった。
(気付けよなぁ、俺!)
何故あんなに飯のことしか頭になかったのかと恥じ入るばかりだったが、何はともあれ三人に頭を下げて礼を言う。
三人がいなければ、海燕は試験で脱落し、死んでいただろう。瑠璃が気付いていなければ、海燕が三人を殺していた可能性すらあった。
「……ありがとよ三人とも。おかげで助かったぜ」
「時間に余裕があったからな」
「水くせ―こと言うなって。今更置いていくってのはないだろ兄弟?」
「私のほうこそごめんなさい。ヒダル神が珍しい病魔とはいえ、あの遺体を見たときにその可能性に気付くべきだったのに」
「それは瑠璃のせいじゃねぇだろ。つーか、人の中から神様を追い出して良かったのかよ?」
「人間と共生できない神様は神じゃありません」
瑠璃はそう言って唇に手をあてた。
「大事なのは今後ね。今後、どんな罠があるかわかったもんじゃない」
神木のような神も、ヒダル神のような病魔も試験の一種。そう考えると、瑠璃はこの先に待ち受けている困難をより深く想定しなければならなかった。
それに追加して、海燕の精神的な負荷を取り除くことも瑠璃の仕事だ。
「この試験、熊や大猪で大魔力を使ったり、警戒して魔力を大量に消費してもヒダル神に憑りつかれたりするんだからちょっと性格が悪すぎるわ」
瑠璃が選んだのは論点のすり替えだった。ついでに瑠璃自身の鬱憤も晴らしてしまおうという一石二鳥の作戦であった。
「ま、もののけは退魔師の都合なんて考えてくれないとはいえ、神木とあの轟音は人為的だからな。受験生を殺すことと試すことは違うってのが分かってねぇんだ」
「ほんとそれ」
海燕もそれに乗っかり、活気を取り戻した一行は森を突き進んだ。
そして、小川のせせらぎが聞こえる森の奥深く、鳥居まで受験生を導く石段が見える中で。
四人は、ヒダル神に憑りつかれ、脱水症状を起こした少女に襲われた。




