■第52話 その夜のこと
『きゃぁぁぁああああああああ!!!』
静まり返った暗い住宅街に、突如響き渡った悲鳴。
それは腰を抜かしたようにアスファルトに倒れ込んだリコの声だった。
『リコォォォオオオオ!!!』
リコを追いかけて来た母ハルコが大急ぎで駆け寄る。
そして、いまだ道路上で小さく小さく体を丸めるリコの肩を抱き慎重に
起こすと、左手首を痛がって苦痛に満ちた表情を向けた。
リコは夜も更けた時間に一人で買い物へ行こうと自宅を飛び出し、暗闇
の中で何者かに襲われた。正面から来た男がリコの腕を突然乱暴に掴み
それに抵抗されると突き飛ばして逃走していったのだ。
リコは道路に突き飛ばされた時に咄嗟に左手を付いて体を支えた為、
全体重が左手首にかかり負傷していた。
一瞬の事で何がなんだか分からないリコは、一種のパニック状態に陥っ
ていた。頭の中がごちゃごちゃで整理出来ずに混乱するも、恐怖だけは
真っ先に心が感じ取り怯え震えるその喉からSOSの悲鳴を上げさせた。
暗闇で突然近寄って来た男のシルエットと、乱暴に掴まれ揺さぶられた
腕の感触が今も生々しく残っている。
リコは後から後から津波のように押し寄せる恐怖心で、ガタガタ震えて
いた。痛む左手をかばうように抱きすくめ、まるで必死に隠れようとで
もしているみたいに細い体をより細く小さく縮め、怖くて怖くて泣く事
さえ出来ずに。
(お母さんが・・・
追いかけて来てくれてなかったら・・・。)
いまだ泣く事も出来ずに、頬を引きつらせ母ハルコにしがみ付きガタガタ
震え続けるリコに、ハルコは優しく笑って言う。
『大丈夫よっ! リコ、大丈夫っ!!
ほら、ただ転んだだけよ!!
お母さんがついてるから、なぁ~んにも心配いらないわ・・・。』
リコは次第に潤みはじめた目でふと母の足元を見ると、ハルコの片方の
サンダルが脱げていた。きっとリコの元へと無我夢中で走ったのだろう。
『ぉ、お母さん・・・
・・・足・・・ 血が・・・・・・・・。』
ハルコの裸足の片足には血が滲んでいた。それは足の小指の爪が剥がれ
掛かっているようだった。
必死に走った際にアスファルトに擦って小石を踏んで、それでも痛みも
忘れ娘の元へと駆け寄った普段走ることなど無い大らかな母。
『あら、本当ね・・・
・・・でもお母さんは大丈夫よっ!』
そう言って、ハルコはやわらかく強い母の笑顔を見せる。
まるで幼い子供を抱くようにリコを胸に抱き、心地良い波のリズムで
ゆっくり優しく揺れて『大丈夫』と何度も何度も繰り返す。
『お母・・・さ・・ん・・・
・・・お母さぁん・・・・・・・
こ、怖かった・・・・私、・・・・・・お母さん・・・。』
リコは母のその笑顔を見るとやっと声を上げて泣くことが出来た。
母の柔らかい腕に包まれ、あたたかい胸にしがみ付き顔をうずめて。
恐怖と安堵と苦痛と後悔。ありとあらゆる感情が押し寄せ、しかし今
ハルコのお日様のようなぬくもりに包まれて、堰を切ったようにその
瞳からは涙の粒が溢れ出す。
リコの子供のようなしゃくり上げる泣き声が、閑寂な闇に響いていた。
翌日。コースケはいつもの約束の時間にリコが保育園に現れないことを
不思議に思い、首を傾げて壁掛け時計を眺めていた。
もう1時間半が過ぎていた。
リコの性格なら何か予定が入ったのなら必ず連絡を寄越すはずなのに。
コースケは何度も連絡してみたが、リコのケータイからは機械的な声が
流れるだけだった。
”タダイマ 電話ニ 出ルコトガ・・・ ”
コースケはなんだか胸騒ぎがして心配になり、ナチに連絡してみた。
すると、ナチも今朝からラインを送信しているのだが一切返信が無い
と言う。コースケの不安気な声色に、最初呑気に構えていたナチも急
激に不安が募っていった。
ナチが念の為リコの家を訪ねてみると言うので、コースケは連絡を貰
えるように頼んでおいた。
すると、30分後ナチから電話があった。
『コースケさん・・・
リコが・・・ リコが昨日、襲われてケガしたみたい・・・
・・・今 ・・・病院に、いる、って・・・・・・。』
ナチの声は完全に動揺して上ずっていた。
電話向こうで、涙声になってつっかえる。
ケータイを耳に当てたまま動けないコースケの心臓が、息苦しい程に
もの凄いスピードで打ち付けた。




