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■第36話 距離



 

 

 

とある夕方。

コースケは、マリの家でタクヤの子守りをしていた。


たまにどうしても仕事の都合で帰りが遅くなるマリの代わりに、タクヤの面倒を

頼まれていたのだ。

 

 

タクヤを膝に乗せて絵本を読み聞かせたり、一緒におもちゃのロボットで遊んだ

りテレビアニメを観たり、タクヤはキャッキャと子供らしくはしゃいでコースケ

にとても懐いていたが、それでも母親の代わりなど到底出来るはずもなく時折見

せるタクヤの寂しそうな表情に心は痛んだ。

  

  

 

 『コーチャン、ごめんねっ!! 遅くなって・・・。』

 

 

 

マリが騒々しく慌てて帰宅する。


脱いだローパンプスを玄関脇に揃えて並べると、片腕ずつ上着を脱ぎながら他方

の手に持つスーパーの買い物袋をテーブルの上に置く。

脱いだ上着をテーブルのイスの背に掛けると、すぐエプロンを付け休む間もなく

キッチンに立った。

 

 

その背中をコースケはなにも言わずにじっと見ていた。


ふんわりとカール掛かった髪の毛が肩のあたりでせわしなく揺れている。

あまりに細く心許ない体で仕事と子育てを一人こなすマリは、いつになく疲れて

見えた。

 

  

 

 『なぁ、マリ・・・ 


  なるべくたっくんの傍にいてやれないかな?

 

 

  その分、俺、バイトするからさ。 それで、少しでも負担を・・・。』

 

 

 

そう言いかけたコースケを話途中でマリは遮った。

 

 

  

 『そんな事してもらう訳にはいかないの。


  コーチャンには、ほんと感謝してる・・・

 

 

  でも、今のままで充分よ・・・ たっくんを見てくれるだけで、充分。』

 

 

 

マリはキッチンに立ち包丁で野菜を切ったまま、コースケを振り返らない。

その声色は無理をしている訳でも強がっている訳でもなく、毅然としたもので

一本芯が通った強さを感じさせるものだった。

 

 

いつもこの繰り返しだった。

 

 

コースケはマリを助けたかった。

もっと弱いところを見せてほしかった。甘えてほしかった。頼ってほしかった。

 

 

しかし、マリは決してそうする事はなかった。

 

 

やるせない思いのまま、コースケはそっとマリの背中から視線を移動する。


視線の先には本棚に大切そうに保管された何冊もの古びた大学ノート。

それは、兄ケイタとマリが学生時代に交わした想い出の交換日記だった。

 

 

その横に飾られた写真立ての中の照れくさそうにはにかむケイタが、そんな遣り

取りをそっと見つめていた。

 

 

 

   

マリの家で夕飯をご馳走になって帰る、ひとりきりの帰り道。

コースケは兄ケイタの事を考えていた。

 

 

子供の頃から大好きで自慢で尊敬していたケイタは、マリとタクヤを残し行方を

くらました。

許せなかった。

悔しくて、腹立たしくて、そして何より悲しかった。

 

 

行方不明になった当初は、方々血眼になって探し回った。

しかし、数年経ってその気力も薄れていった。

 

 

出逢った頃から気が付けばマリのことが好きだった。

最初は兄の彼女として、しかし次第にその想いはひとりの女性としてマリへと

向けられていった。


だから心の何処かではケイタがいなければ自分がマリの傍にいられる。自分が

マリを一番近くで支えられる。自分がマリを大切にしてあげられる。そんな思

いがあったのは事実だ。

 

 

しかし、何年経ってもマリはケイタを待っていた。


タクヤにも『パパは遠くにいる。必ず戻って来る。』と繰り返していた。

あの日からひと言も弱音を吐かず、不安な顔も見せず、涙のひと粒も零さない。

マリは、ケイタを心から信じていたのだ。

 

 

ケイタとマリふたりと子供の頃からずっと一緒にいたコースケだが、結局それは

”3人 ”ではなく、”ケイタ・マリ ”プラス ”コースケ ”という図式でしか

なかった。決してふたりの絆に触れることなど出来ずにいたのだった。

 

 

マリは一番近くにいるのに、一番遠い人だった。


マリへの想いは直接口にしたことは無かったが、マリもそれに薄々気付いていて

知らないフリを続けていた。だからコースケも気付かれていないフリを続けた。

  

  

 

コースケとマリは、そんな微妙な距離をずっと保っていた。

 

 

 



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