■第179話 雨宿り
キタジマは、赤く滲むリコの人差し指を目を見張り見つめる。
一気に心臓が異常なほどに早く胸を打つ。全身が心臓になったのではないかと
思うほどバクバクと爆音が響き、息苦しさすら感じるくらいだった。
暫し呆然とそれを見つめ、しずしずと震える手でポケットからハンカチを出す
と恐る恐るリコの指先を包む。
そして怯えるようにゆっくりと目を上げると、リコが嬉しそうに小さく微笑ん
でいた。
(シュン、優しいね・・・。)
ミホの声が、頭の中で木霊する。
ミホが眩しそうに微笑んで、ミホが愛おしそうに目を細めて、ミホが嬉しそう
に小首を傾げて。ミホが・・・ ミホが・・・。
苦しそうに俯きギュっときつく目をつぶって、キタジマは唇を噛み締めた。
そして、咄嗟にキタジマは空を指さしてやけに早口で言った。
『・・・ほ、本当に降るのかな? 天気いいのにな・・・?』
リコがもし、万が一『優しいね』と口にしたらと思うと、キタジマは居ても
立ってもいられなかった。
リコが、妻ミホと重なる。
そんな事したくなどないのに、どうしても重なって見えてしまう。
苦しかった。
苦しくて苦しくて胸がつぶれそうだった。
ミホを忘れたりなんかするつもりはないが、こんな風に誰かに重ねていつま
でも胸にとどめておくなんて間違っている。
それはきっと、己の弱さやずるさや小ささが生みだしたものだと自分が一番
分かっているのだ。
そんな自己嫌悪と自己保身の間でどうしようもなく悩み苦しんでいた。
その時、
『ぁ・・・ 降ってきた・・・。』
リコが空に向けて手を伸ばし広げた。
その手の平に細かな雨粒のくすぐったい感覚。辺りからは、ほんのり雨のにお
いが立ち込め、湿度の高さと共に体にまとわり付いた。
二人は慌てて砂浜から抜け出し駆けた。互いに片手には靴をつかんだままで。
簡易梯子をのぼり道路を渡って、裸足のまま先程の商店の軒先に逃げ込む。
次第に強まってゆく雨脚にふたり困り顔を向け合うと、ここで少し雨宿りさせ
てもらおうと互いに目で合図し合った。
軒先に置かれている企業名が書かれたレトロなベンチに勝手に座り、足に付い
た砂をはらう二人。足を前に投げ出すと丁度雨粒が砂を洗い流してくれる。
足だけシャワーのような雨に打たれ、互いに顔を見合わせて笑った。
すると、『やっぱり降ったねぇ?』 店のおばさんが奥から出てきた。
勝手に雨宿りさせてもらってる事を詫びると、おばさんは笑顔で首を振る。
『中に入って休んで行きなさい。』 おばさんが人懐こい笑顔でリコの手を引
く。海水浴シーズンが終わった海辺の雨天の商店は誰も客が来る気配はなくて、
店続きになっているおばさんの自宅テレビのワイドショーの音声と、更に雨脚
が強まるその雫音だけが辺りを包んでいた。
おばさんがなんだか上機嫌に鼻歌を歌いながら、ポットから急須にお湯を注ぎ
お茶を淹れてくれた。
二人は申し訳なさそうに背中を丸め、お礼を言ってお茶を戴く。少し濃い目の
それに何故かほっとする。
すると、『可愛い彼女だねぇ?』 おばさんがニコニコと微笑みながらキタジ
マに言った。リコの方へもう一度目をやり、やわらかく頬を緩めて。
その瞬間、キタジマとリコとおばさん、三人の間に一瞬の ”間 ”が生じる。
”彼女 ”という響きに、思わずリコがキタジマの方へそっと視線を向けた。
キタジマは肯定するのか・・・ または、その逆なのか・・・。
キタジマは勿論、リコでさえ ”好き ”という言葉を告げたことは無かった。
自分の存在は相手のなんなのか、確認しあった事など今まで一度も・・・。
思わず、咄嗟にリコがうわずる声で話題を変えた。
キタジマの反応が、怖かった・・・




