■第145話 求めるその人
マリは、とても嫌な予感がして居ても立ってもいられなくなっていた。
胸の中をザワザワしたものが渦巻き、やけに口の中が乾いて気持ち悪い。
脈が速くて耳元でドクンドクンとうるさい程に音がする。口元に手をやる
と自分でも気が付かないうちに小さく爪を噛んでいた。
何かが悪い方悪い方へ向かっている気がしてならなかった。
それはゆっくりと。細くて心許ない一筋の川の流れが静かに静かに大海に
向かうようにゆっくりと。
まるで運命という大きな流れには抗えないとでも言われているようにさえ
思えるそれ。
(キタジマさんに、
リコちゃんに近付かないで、なんて言えない・・・
もし・・・
リコちゃんのことを、ミホさんの代わりみたいに思ってるなら、
そんなの、絶対ダメに決まってる。
リコちゃんに、キタジマさんの亡くなった奥さんの話すればいいの?
そうすればリコちゃんはキタジマさんから離れていく・・・?
どうすれば、誰も傷つかずにいられるの・・・?)
マリは一人で誰にも言えずに考え込んでいた。
あれからずっと胸のモヤモヤが晴れない。
リコが哀しげに目を伏せなんだか泣き出しそうに嗤って囁いた、キタジマ
への恋心。言葉にしてしまって初めて自分で確認したかのようなその表情。
考えれば考えるほど、浮かぶのはコースケの顔ばかりだった。
コースケはこの事を知ってるのだろうか。
リコがキタジマに惹かれ始めているという事に気付いているのだろうか。
また自分を抑えて、我慢して、情けなく頬を緩めて笑っているのではない
だろうか。
コースケを思うと、胸がつぶれそうに痛く苦しくなった。
何も出来ない不甲斐ない自分にかぶりを振り、ふと自宅リビングの棚に飾
ってある写真立てにすがる様に目を向ける。
(ケイタ・・・
コーチャンを助けてあげてよ・・・。)
マリの口から弱々しく震えて溜息が漏れた。
夏休みに入り、リコはまるで空っぽになってしまったように毎日を過ごし
ていた。一人でいても家族といても、なんだか居場所がないように感じる。
スケッチブックを持って家を出てはみるものの、何も描きたいものが見付
からない。口からこぼれるのは溜息ばかりで、伏し目がちなその瞳には何
も映らなかった。やわらかい日差しにも、子供の笑い声にも、青々とした
煌く樹々にも、リコの心が動かされることは無かった。
ひとり、部屋にこもってはケータイを眺めていた。
自分でも誰からの連絡を待っているのか、もう分からない。
ただ闇雲に、このケータイを震わせてくれる誰かを待っていた。
ナチもまた、ケータイと睨めっこする日々だった。
体育座りをしてコンパクトに体を縮め、膝の上に顎を乗せて。不貞腐れた
ように目を眇め、日に何度も何度も新着メッセージの有無を確認する。
隣でそれを見ていたリュータがさすがに呆れ果てて言う。
『そんなに気になるなら電話すればいーだろ?』
しかし、半ば八つ当たりのようにふくれっ面を向けジロリとリュータを睨
むとナチはケータイを乱暴にテーブルに放り投げた。
そして、メールを打っては消し打っては消している人間がもう一人いた。
もしリコが ”あの夜のこと ”に気付いているのだとしたら、きちんと話
をしたかったのだ。しかし、話すと言ってもなにをどう切り出したらいい
のか。どう言葉にしたらいいのかなんか分からなくて、たった数行の無味
乾燥な文字列でどう伝えたらいいのかなんか分からなくて、時間を掛けて
躊躇う指先で入力したそのゴシック体は、結局はクリアボタンで最初の真
っ新な画面に逆戻りした。
コースケもまた、向き合うチャンスをずっと探っていた。
◆元気にしてますか?
私は、何故か全く描けなくなっちゃいました(笑)
リコが送信ボタンに触れた。
”送信完了 ”とケータイの画面に表示され軽快な短いメロディが響く。
たった2行のメールは送られた。
たった2行の、今のリコの心情全てが込められたメール。
リコが迷いに迷って、やっとメールを送ったその先にいた相手・・・
すると、すぐさまリコのケータイに着信音が鳴り響いた。
それはまるでリコからの言葉を待ち望んでケータイをひたすら眺めていた
かのようなスピードで。
『・・・なんで描けない?』
言葉の間々に、穏やかにゆったりとタバコの煙を吐く息を感じる。
ケータイの画面に、リコが求めるその人の名前が表示されていた。
◆着信:キタジマさん




