■第144話 高揚しながら
『じゃ。
明日から・・・ 気をつけて・・・
・・・ゆっくりしてきて下さいね・・・。』
リコがキタジマに向け背中で言った。
夏休みに入る前日。暫くこの教室に顔を出すことはなくなる為、リコは
念入りに掃除をし、空き缶や空のタバコの箱を全てゴミ袋にまとめた。
時間をかけていつもしない場所まで掃除をしながら、キタジマの様子を
盗み見る。チラチラと視線を向けるも、それを知ってか知らずかいつに
も増してリコの方を全く見ないキタジマ。
リコは最後の最後までキタジマからの『お前も来てみるか?』という言
葉を待ったが、それを聞ける気配は微塵も無かった。
リコの最後の挨拶にも、キタジマは聞いてるのかどうか分からないよう
な感じで虚空を見つめ、タバコの煙を深く吐くだけだった。
さすがに諦めたリコが俯いて苦笑いをし、『私は、これで・・・。』と
小さく呟き、ドアの前でもう一度だけキタジマを振り返った。
しかし、その目に見えたのはイスに深く沈んだ微動だにしないキタジマ
のシルエットだけだった。
かぶりを振り寂しげに目を伏せて、リコは教室を後にした。
大学からの帰り道。
独りぼっちで歩く並木道。
夕暮れ前の風は緩やかになびきリコの頬を優しく通り過ぎるけれど、その
表情は暗く浮かないもので、分かり易く踵を重く引き摺りトボトボと家路
へ向かっていた。
最寄駅で電車を降りると、いつもは自宅近くまでバスに乗るのだが今日は
久しぶりに目的も無く商店街を歩いてみる。いつもの見慣れた商店街なは
ずが、なんだかまるで知らない街を歩いてるかのようだ。
リコの心は明らかに沈んでいた。
ナチもいない、キタジマもいない。
そして、コースケとは暫く会ってもいない。
自分が誰と一緒にいたいのか、どうしたいのか、正直もう分からなくなっ
ていた。 ”寂しい ”という言葉だけでは言い表せないこの心細さや焦燥
感、世界にたった一人だけ取り残されたような孤独感に打ちのめされそう
になる。
活気ある商店街の喧騒も、なんだかそれは他人事のようにぼんやり霞む。
俯いてただ足を進め本屋を通り過ぎようとした時、リコは後方から誰かが
自分の名前を呼ぶ声に鈍く反応すると、気怠そうに振り返った。
すると、そこにはマリとタクヤの姿があった。
『久しぶりね、リコちゃん!!
・・・もし良かったらお茶でもしない??』
そのやわらかい声に、リコはもうずっと長い間誰とも口をきいていなかっ
たかのような感覚に陥り、マリからの誘いが泣きたくなるほど嬉しくて、
哀しげな情けない笑顔で首を縦に振った。
商店街の一角にある古い喫茶店に、マリとタクヤ。そしてその向かい席に
リコが座る。タクヤはリコに久々会えたのが嬉しくて仕方ないようで、
息継ぎも忘れ身を乗り出して喋っている。身振り手振りを付けながら目を
キラキラさせるその姿を、リコもマリも微笑ましく見ていた。
『ぁ、そう言えば・・・
・・・リコちゃん・・・ 美大に、通ってるんだってね・・・?』
マリは思い切って、以前コースケから聞いた話を切り出してみた。
しかしそれはどこか躊躇いがちに、様子を伺うように。
マリやコースケが心配する ”あの件 ”が、どうか間違っていることを
願って。どうか ”それ ”がリコではないことを祈って。
すると、リコが目を見張り堰を切ったように早口で話し出した。
『私の大学に、すっごい変わった人がいて・・・
その人、学生でもないのに、
大学で居座って描いてるんですけど・・・
・・・その人、凄いんですっ!!
すごい・・・ すっごい優しくて、あったかい絵を描くんですっ!!』
リコの何処か必死なすがる様な目を見て、マリは瞬時にキタジマの事だと
気が付いた。しかし、リコはマリとキタジマが知り合いだという事を知ら
ない。知人だなんて夢にも思わず、身を乗り出して興奮気味に語るリコは
止まらない。
『その人・・・
そんな優しい絵を描きそうな雰囲気なんかじゃ、全然ないんですよ!
髪なんかボサボサで、無精髭で、偏屈者なんですけど・・・
・・・でも、すごい人で・・・
ほんとは・・・すごい、優しくて・・・
すごい、あったかくて・・・
・・・ただ、不器用で照れ屋なだけ、で・・・
ほんとは・・・ ほんとは・・・・・・・・・・・・・・。』
マリは、高揚しながらまくし立てるリコを、ただじっと見ていた。
なんだか胸の奥がザワザワと音を立てる。心臓が早鐘を打ち、喉が痞える
ような息苦しさを感じて落ち着かない。
暫し口を噤んでいたマリは、一瞬頭をかすめたその一言を言おうかどうし
ようか迷い、しかし躊躇いながら小さく口にした。
『なんだか、まるで・・・
・・・リコちゃん、恋してるみたいに見えるわね・・・?』
そう言うと、マリは必死に頬に少しぎこちない笑みを浮かべ、リコの表情
を盗み見た。 ”恋 ”というワードによる化学反応が、リコにどう作用す
るのかを確かめたいけれど確かめたくない。
マリは言ってしまってから、どこか後悔しているかのように目を落とし、
手持無沙汰にスプーンでコーヒーを無意味にかき混ぜ続けた。
少しの間、俯いて黙りこくっていたリコ。じっと膝の上に置いた手を見つ
め続けている。それは自分で自分に問い掛けているような、明確な言葉と
して形づけてしまうことに怯えているような。
居心地の悪い時間が通り過ぎ、リコは弱々しい視線をマリへ向けると囁く
ように小さく嗤って呟いた。
『・・・そうかも・・ しれません・・・。』
コースケの困ったように情けなく笑う顔が、よぎって消えた。




