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■第141話 早朝の教室で


 

 

 『・・・なんで、こんなトコで寝てるのよ・・・。』

 

 

リコはその姿に呆れたように頬を緩め、小さく小さく囁いた。 

  

 

まだ朝靄けむる、早朝の大学の空き教室。


ナチとのケンカで酷く落ち込みあまり眠れなくて、気が付くとその足は大

学へと向かっていた。何かしようという訳でもなく、ただキタジマがいつ

も描いている教室で一人、ぼんやりとしようと思ってやって来たのだ。

 

 

誰もいないと思ってやって来たそこには、いつもの擦り切れたイスに深く

体を沈め、ヘッドフォンをしたまま眠るキタジマの姿があった。


小さな寝息が静まり返った教室に響いている。

何故かそれはリコの耳に優しくて、どこかホっとする。


もう音楽は終わり無音のヘッドフォンをキタジマの頭から静かに取ると、

少し斜めに傾げて窮屈そうな黒縁メガネもそっと外した。

 

 

リコは羽織ってきた淡色のAラインスプリングコートを脱ぐと、無防備に

眠るその大きな体にそっと掛ける。

 

 

絵具の匂いがすっかり染み付いたその教室に、キタジマの小さな寝息だけ

が一定のリズムで小さく流れ続ける。色褪せたカーテンから初夏の朝陽が

やわらかく漏れ差し込んで、光の筋がキタジマの寝顔を照らす。

 

 

リコは眠り続けるキタジマの正面に立ち、小さく微笑むと静かに膝を折り

しゃがみ込んだ。


その姿は、先日剃った髭が少しずつ伸びてきていて、また元の汚い姿に戻

りつつある。髪の毛はまだ短いけれど、全く手入れしないものだからまた

ボサボサの艶の無いそれに。


絵の具だらけの汚れたシャツ、絵の具だらけの大きな筋張った手・・・

 

 

 

  大きな大きな、哀しいほどに不器用な、その手

  

 

 

微かに震える細い指を伸ばし、躊躇って、それは中空で止まる。


しかし、触れてみたいという想いに抗えず、リコはそっとキタジマの手の

甲に指先をあててみた。

  

  

この大きな手で、あんなに優しく繊細な風景を描き出すのだ。

こんなに絵の具で汚れて、こんなにゴツゴツしていて、こんなに感情表現

下手で・・・

 

 

自分でも気付かぬうちに、リコはその大きな手を両手で包み込み自分の頬

に当てていた。


思ったよりもずっとずっと、それは切ない程に温かい。


ふっと絵の具の匂いがかすめる。

そっと目を閉じて、固く筋張った手の感触を微かに染まる頬で感じていた。

 

 

そして、自問自答する。

  

  

 

 (私は、キタジマさんを好きになりかけてるの・・・?)

  

  

 

もう自分の気持ちすら分からなくなっていたリコ。


どのくらいそうしていたのだろう。キタジマの手があまりにあたたかくて

離したくなくて、離れたくなくて、まるで祈るように両手で包み込み深く

深く息を吐き目を閉じていた。

 

 

窓の外から小さく響く小鳥の囀りに、リコは我に返ったように顔を上げる。

そして静かにキタジマの手を離すと、ゆっくり教室から出て行った。

 

 

古い引き戸が軋んでスライドし閉まる音が小さく響き、リコの背中が廊下

の奥へと消えた次の瞬間、そっとキタジマが目を開けた。

リコが、眠るキタジマから外して横の棚に置いたメガネを再び掛ける。


そして、目の高さに上げた自分の手を神妙な面持ちで見つめた。

 

 

さっきまでリコのひんやりした頬に触れていた、その手を・・・

 

  

  

 

 

30分後、リコが教室に戻るとキタジマがイスに深く腰掛け、気怠そうに

タバコを吸っていた。

 

 

 

 『ぁ。 起きたんですか?』

 

 

 

そう言うと、リコは片手に握ったコンビニ袋を目の高さに上げキタジマに

見せて明るく言う。 『朝ごはん買って来ましたよ!』

 

 

なんだかキタジマを真っ直ぐ見られなくて、リコは投げ掛けた一言の反応

も待たずに絵具だらけの散らかった作業棚を片付けはじめる。なにか言わ

れるのを恐れるかのようにやけに落ち着きなく、俯いたまま。

 

 

キタジマはそんなリコを横目で見ながら、壁にかかった時計を見て呟く。

 

 

 

 『まだ8時前だぞ・・・ 


  ・・・なんでここにいる?』

 

 

 

不機嫌そうに顔をしかめ深く深く煙を吐くと、少し躊躇いがちに低くボソ

っとこぼす。 『・・・言ってみろ。 なにがあった?』

 

 

 

 『・・・・・・。』

  

 

 

その不器用な言い回しが優しすぎて、一瞬でも気を抜くと泣いてしまいそ

うになる。


さっきからリコを心配して、きまり悪そうにチラチラと向けるその視線に

気付かないはずはなかった。いつもは指の間に浅くタバコを挟むその指は、

落ち着きなく無意味にパチンパチンと爪を弾いて。

 

  

リコが少し大仰に明るく笑って、首を横に振る。

 

 

 

 『なぁ~んにもないですよ~!


  ただ早く目が覚めたから、ちょっと来てみただけです。

 

 

  キタジマさんだって、なんで帰らないんですかぁ?


  あんな寝方してたら、疲れとれないじゃないですかぁ・・・。』

 

  

 

至って何もないように振舞うリコを、キタジマは黙って見ていた。

 

 

 



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