■第137話 鼻歌
キタジマはリコの頬に伝う涙をティッシュで少し乱雑に拭きながら、ひとつ
溜息をついた。
子供のように顔をクシャっと歪ませ、目元も頬も鼻の頭も真っ赤にしてポロ
ポロと涙をこぼしている。ぎゅっとつぶっていた目尻から流れていた涙は、
キタジマが握るティッシュが突然頬に触れた感触に驚いてパチっと目を開け
瞬きを繰り返した瞬間に大粒の雫となって、下まつ毛を揺らして落ちた。
困ったような呆れたような顔をして、キタジマが目の前で小さく笑う。
リコは赤く染まる鼻をスンスンとすすりながら、言った。
『キ、キタジマさん・・・
なんかあったら、私・・・ 話とか、聞きますから。
だから、愚痴・・・とか、もし。
・・・なんか、あったら・・・ わ、私・・・。』
泣きすぎてしゃくり上げ、胸が跳ねながら必死に言葉にしようとするも
それは途切れ途切れでぎこちない。
瞬きもせず、未だ雫が溢れる透明な瞳で真っ直ぐリコに見つめられて、
キタジマが思わず目を逸らした。
(どうゆう育てられ方したら、
こう、真っ直ぐなるんだろな・・・。)
内心そう思いながら、『ん。』と一言ぶっきら棒に返事をした。
こんな風に自分のために泣いてくれるリコの握り締めた震える拳が、なん
だか照れくさくて俯き床に目を落としたキタジマの視界に入る。
白くて細くて華奢な、リコのその手。
『タカナシも・・・
なんかあったら。 話、聞いてやってもいいぞ。
・・・まぁ、俺の気分次第でな。』
そのキタジマらしい言葉にリコが呆れた顔を向け、そして、やっと笑った。
ケラケラと高音で笑う声と可笑しくて仕方なさそうに綻ばせ笑うその顔に、
キタジマは少しホッとする。
『ぁ。 ・・・あと、金の相談以外でな?』
『間違ってもキタジマさんにお金の相談なんかしませんよっ!』
いつものように軽快に悪態付き合って、二人で笑い合った。
床に胡坐をかくキタジマが照れくさそうに目を細め大きく口を開けて笑う。
リコはその時、キタジマの笑う顔を見ながら『ちゃんと笑う人なんだな。』
と思った。
その不器用な笑顔が、リコの心に小さな小さな波紋を落とした瞬間だった。
気が付くともう陽は傾きはじめ、今日はもう帰る事にした二人。リコとキタ
ジマは荷物を持つと揃って教室を出た。
大学の門をくぐり、ほんのり橙色に染まったやわらかな夕暮れの並木道を二
人並んで歩く。気怠そうに片手に喪服の上着を持つキタジマと、まだ微かに
目元が赤いリコ。
以前ラーメン屋に行った時は勝手に一人でズンズン進んでしまうキタジマを
リコが必死に小走りで追いかけた。
今は長身のキタジマと小柄なリコが、互いの歩幅に気遣い合いながら一緒に
歩いている。
♪~ンン・・♪♪~ン・・♪~
・・♪♪~ン・・♪~
キタジマがいつもヘッドフォンで大音響で聴いている曲の、いつもの鼻歌を
無意識に歌いだした、その時。リコも自然に、合わせて歌っていた。
ふいに斉唱した事に気が付きちょっと驚いた顔をして立ち止まり、慌てて
リコへと視線を向けたキタジマ。
リコも完全に無意識だった為、パチパチと瞬きを繰り返し一瞬なにをして
しまったのかと動きを止め固まって、改めて斉唱してしまった自分に驚く。
そして、互いに顔を見合わせて大笑いした。
『勝手に真似すんな! タカナシっ。』
『毎日毎日聴かされてたら、
覚えたくなくても覚えちゃいますよっ!!』
可笑しくて仕方なさそうに、二人は道の真ん中でよろけながら笑い続ける。
すると、尚も笑いながらキタジマが呟いた。
『この曲、なんて曲なんだろな・・・?』
『知らないで、毎日毎日聴いてるんですかっ?!』とリコはまた呆れ顔を
向けた。まさか曲名も知らずに聴いていたなんて思いもよらなかったのだ。
すると、少し何かを考え込むように優しく遠くを見ながらキタジマが言う。
『・・・曲名ぐらい、訊いとけば良かったな。』
その言葉の意味を察し、リコが何も言えずに俯いた。
キタジマが今でも亡き妻を愛している証な気がして、胸がぎゅっと詰まる。
そんなリコに、キタジマはやわらかい声で呟く。
『いくら後悔しても、どうにもなんない事があんだよな・・・
あの時ああしてれば、こうしてればって。
だから、後悔しないように生きろ・・・
後になって悔やまないように、真っ直ぐ自分に正直でいろ・・・。』
まるで自分に言い聞かせているよなキタジマの姿を、リコは真っ直ぐ見つ
めていた。




