■第120話 キタジマ
『キレイですね・・・。』
リコは、その絵を見つめたまま動けなくなっていた。
なんだか吸い込まれるようで瞬きも出来ず、呼吸をするのさえ忘れてただ真っ
直ぐ見惚れる。
心臓がドキンドキンと急速に音を奏でて、頭の先から足の先までうるさいくら
いに体中で響く。
『・・・今日からか?』
握っていた絵筆をすぐ横の絵具が散乱する机にポンと放り投げて、その机の
上で絵具にまみれて転がっているタバコの箱から1本取り出し咥える。
だいぶ年季の入ったイスに沈むように深く座り込んだその人は、キタジマと
名乗った。きっと購入当初は厚いクッションの背もたれが快適だったのだろ
うと思えるイスが、今はすっかりキタジマの身体に馴染むようにくたびれ、
革は擦り切れて所々中の白い綿が見えてしまっている。
暫しキャンバスに見惚れ続け、リコは自分が名乗っていないことに気付く。
慌てて『今日からお世話になります、タカナシです。』とペコリと頭を下げ
小さく会釈をした。
キタジマはイスに身体を預け、ぼんやりと遠くを見つめて煙を吐いている。
それは、リコの挨拶にも然程興味がないといった横顔で。
明らかにリコから遠い所に意識がいっているキタジマへ、リコは話し掛けて
いいものか様子を伺いながら、どうしても気になって仕方が無い事を思い切
って訊いてみる。
『いつも・・・
あんな凄いボリュームで、音楽聴きながら描くんですか・・・?』
そう不思議そうに訊くリコに、キタジマは『ぁ? なんで?』と訊き返す。
チラリと一瞬リコへと目をやり、その刹那すぐ窓の外へと視線を戻して。
リコが絵を描く時は、極力音の無い状態で心をまっさらに集中して描く事が
多かった為、キタジマのように大音量で曲を流しながら、しかもリズムを刻
みながら描くなんて考えた事も無かったのだ。
それなのに、こんなにあたたかくてやわらかな優しい風景を・・・
『頭で考えすぎなんじゃねぇの?』
顎を上げ天井に向けタバコの煙をふ~っと吐きながら、キタジマは言う。
『穏やかなやわらかい風景は、静かな環境で描かなきゃいけない、
一人で無音で集中しなきゃ描けない、って考えてんなら、
それは違うと思うけどな。
・・・まぁ、
別に人それぞれだろうから、好きにしたらいいけど。』
その口調は指導のそれではなく、なんだか突き放すような冷たさが滲んで
いてリコは思わずムっとしてしまう頬を必死に隠そうとした。
まず第一に、目の前のこのキタジマが講師なのか学生なのかも分からない。
そんな人にこんな言い方されるのは腑に落ちないが、最初に質問したのは誰
でもない自分だったと、リコは俯いて入学式用に買った少し踵が靴擦れする
ローパンプスの爪先を見眇めていた。
すると、2本目のタバコを口の端に咥え、キタジマが無言でリコの目の前に
絵具だらけの拳を差し出したのが見えた。
(・・・なに??)
リコは顔を上げ小首を傾げつつ、その手の方にしずしずと手を伸ばす。
そしてキタジマの拳へ向け手の平を上向きに広げると、そこに銀色と銅色の
コインがポトリと落とされた。
『コーヒー。』
リコはしかめっ面をして小銭を握りしめ、本校舎の1階にある自販機の前に
いた。東棟からはそこそこ距離があるそこ。階段を下り渡り廊下を通って、
学食のテラスがあるそこまで行かなければ缶コーヒーを買う事が出来ない。
何故か、会ったばかりのキタジマのお使いをさせられていたリコ。
『なんで私が、使いっ走りなんか・・・
・・・ってゆうか、なんで自販機 東棟にないのよ・・・。』
不満気に口を尖らせブツブツ文句を言いながら、渡された小銭を投入口に入れ
缶コーヒーのボタンを乱暴に人差し指で押す。
ガゴンという音を立てて缶が落ちて出ると、しゃがんで自販機から取り出して
それを憎らしそうに睨んだ。
しかし、なんだか不思議でつかみ所のないキタジマにとても興味があった。
否。キタジマという人間ではなく、キタジマが描く絵に惹かれていた。
あまり認めたくはないけれど、もっともっとキタジマの絵を見てみたいという
気持ちが胸の中に湧き起こる。
『遅っせぇな。』
リコから缶コーヒーを受け取ると、キタジマはまだ半分くらい残るタバコの吸
い殻を空缶に押し込み、絵具が付いた汚れた人差し指でプルタブを引いてコー
ヒーの飲み口に口を付けた。
その顔はぼんやりと虚空を見つめて、リコなどまるでそこに居ないかのようで。
『ぁ、あの・・・
・・・学生、 じゃ、ないんですよ、ね・・・?』
リコが顔色を伺いながらたどたどしく訊く。
見た目はどう見ても初々しい学生には見えないし、かと言って講師にしては
あまりに自由すぎる感がある。では一体誰なのかと、リコの頭の中は当初抱
いた疑問でいっぱいだった。
キタジマは缶コーヒーの飲み口から口を離し、イスに更に深く背を沈めて
特にそこには何もないのに天井をぼんやりとした色の無い目で見ている。
『・・・だった。
昔、学生だった。 併設した4大の方の・・・
・・・今は違う。
ココ借りて、暇つぶししてるだけ。』
そう言うと、ノソっと気怠そうに立ち上がりまたゴツいヘッドフォンをして
身体を揺らしリズムを取り始めた。
先程まで缶コーヒーを握っていた手は再び筆を握り、咥えタバコのまま鼻歌
を歌う。
そして、あの、やわらかくあたたかい風景が目の前で鮮やかに色付き始めた。
リコは呆然とその様子を見つめていた。




