■第119話 春
春、それぞれの新しい日々がスタートした。
リコは電車に乗って3駅離れた美術短大に通い始めた。
ナチは地元の女子短大で国文学を学ぶ。
コースケは昼間はバイト、夜は学校に通い幼児教育を勉強している。
リュータは就職活動に重い腰を上げた。
リカコはまたさっさと一人で海外へ旅立って行った。
みんな忙しい毎日を送っていたが、週末は誰からともなく集合し相変わらず
笑い合っていた。まるで当たり前のようにみんなでいられる事に、誰一人、
口に出さずとも心地よさを感じずにはいられなかった。
入学式の日。
リコは若干、緊張の面持ちで大学に向かった。
濃紺スーツにフリルが付いた春らしいピンク色のシャツ、フレアスカートは
膝丈でやわらかく踊るも、着慣れない感じが否めなくて落ち着かない。
4大に併設された短期大学部が広大な敷地内にあり、短大の校舎に向かうだ
けでも簡単に迷子になりそうで、リコは不安げに辺りをキョロキョロ見渡す。
短大は一応固定のクラスはあっても受講する講義は各自で選択する為、高校
の時のように常に行動を共にする ”クラスメイト ”という感じではない。
どうやって友達を作っていったらいいのか不安に思いながら、入学式終了後、
渡された書類の数々を目に溜息を落としながらリコはひとり、フラフラと当
てもなく校舎を歩いていた。
油絵の具の匂いと鼻歌を歌う声に導かれるように迷い込んだ東側の校舎の、
とある教室。
新しい大学ではないため各教室古びてはいるけれど、更に輪をかけてくたび
れた感じの、その教室。講義で使用している感じはない。一目で空き教室だ
と分かるそれから流れて来る鼻歌に、リコは小首を傾げながら恐る恐る扉を
開け少しだけ覗き込んでみた。
ギギギと耳障りな音を立て扉はスライドして開いた。
明らかに埃っぽくて、少しどんよりと空気が淀んでいる。
わずかに開けている歪んだ木枠の窓から入る春風に、すっかり日焼けして黄
ばんだカーテンが小さく小さく揺れている。
絵具が飛び散り部分的にやたらとカラフルに染まった床に、コーヒーの空き
缶と握りつぶしたタバコの空き箱がゴロゴロと転がり足の踏み場もなくて、
お世辞にも描きやすそうには見えない環境だ。
その奥で、
洋服を絵の具だらけにした痩せた背中がキャンバスに向かっていた。
ワイヤレスのゴツいヘッドフォンをして鼻歌にしては大きめの声で歌い、
体は右に左に小さくリズムを刻んでいる。
ひと気ない東棟校舎の殆ど物音もしないようなそこに、鼻歌と脚がリズムを
取る度にミシミシと軋む古床の立てるそれが響き、なんだか騒々しさが際立
ってどこか違和感が否めない。
その様子にどれだけ荒々しく情熱的な絵を描いているのかと、リコはその絵
を見てみたいという衝動にかられ、自然に足は教室内へ一歩また一歩と進ん
で行った。
♪ンン・・・ン~・・ンンン、ンン~・・・
鼻歌がより近くに響く。
ヘッドフォンから漏れる音の大きさで、どれだけのボリュームで音楽を聴いて
いるかが分かる。実際この人の耳には、頭が割れそうなくらいの音量が流れて
いるのだろうと、それを想像してリコは少し顔をしかめた。
その人は、背後から徐々に近付ているリコに全く気付いていない。
そっと、肩越しにキャンバスを覗き込んだリコ。
『キレイ・・・・・・・・・・・・・。』
思わず、喉が震えて声がこぼれた。
そこには、想像していたものとは全く真逆の、目映くやわらかい風景が広がって
いた。やさしく温かく、なんだか懐かしさすら込み上げるそれに一気に胸が締め
付けられ、鼻の奥がツンと痛む。
無意識のうちに思わず足が前に出て、リコは引き寄せられるようにキャンバスに
近付きその人の横に立っていた。
『・・・新入生?』
その人は低く穏やかな声で一言だけ呟くと、瞬きも忘れ呆然とキャンバスを見つ
めたままのリコに目をやり、ヘッドフォンを頭からはずして首に掛けた。
少しずれたメガネを右手指先で上げた時、握る絵筆の絵の具が頬についた。
リコはゆっくりゆっくりキャンバスからその人へと視線を向ける。
伸び放題の無精ひげとボサボサな頭、長身で姿勢が悪い痩せた身体。顔色も悪く
どこか虚ろな目の奥は、必要以上に感情を出さないバリアが張られているように
も感じる。
何故だか、その人から目を逸らせなかった・・・
それが、キタジマとの出会いだった。




