■第114話 おでこ
『リコ?! ねぇ、リコ大丈夫っ?!』
まだ朦朧とする意識の奥、遠くの遠くで名前を呼ぶ声がする。
それはいつも聞いている、少し甲高くてよく通る・・・そう、あれはナチの声。
(ん・・・? ナチ・・・・・・・・・・?)
頭がズキズキ痛くて、胸や喉元や胃まで全身で気持ち悪い。
目を開けなくても天井がグルグル回っている感覚がある。
怠くてしんどそうにうっすら目を開けると、ナチが心配そうにリコを覗き込んで
いる。目に飛び込んで来たその顔は青ざめていて、今はほんの少しの振動も感じ
たくないほど気分が悪いリコをお構いなしにグラグラと揺さぶって。
まだ全く酔いが醒めていない頭で、リコが呟く。
酔って体調が絶不調ということと、目の前にいるのがそれを心配するナチだと
いうこと以外、リコには何がなんだかサッパリ分からなかった。
『私・・・ あれ?
・・・ここ、って・・・・・・・・・・・・?』
リコは泥酔して、一人で園の遊戯室へ行ったはいいが気分が悪くなり倒れて、
コースケのベットに横になっていたのだった。
おでこには冷やしたタオルがのっている。何度も冷たいそれに換えてくれたの
だろう。いまだにそれは心地良い冷たさだった。
ゆっくり慎重に視線を流すと、みんなが心配そうにリコを見ていた。
リコは慌てて体を起こそうと体の横に手をつき、一気に上半身を上げようとして
『ぅう・・・ 気持ち、悪い・・・。』 口元を押さえて、切れ切れに俯く。
ナチがリコの肩を抱いて付き添い、覚束ない足取りでよろめきながらトイレへ向
かった。
気持ち悪くて気分が悪くて一向に回らない頭で、それでも必死にリコはあの暗闇
での出来事を思い返していた。
あれは確かに現実だったはず、絶対に夢なんかじゃない。
リコは暫し考え込み、しかしやはりどうしても気になって恐る恐るナチに訊ねる。
『ねぇ、ナチ・・・
・・・私を、
部屋に・・・ 運んでくれたのって・・・?』
『コースケさんとタケがふたりで、大慌てで担ぎ込んだんだよ!!』
ナチはリコの背中を優しいリズムでさすりながら言った。
しかしその顔は ”そんな心配しなくていいから ”とでも言いたそうなそれ。
きっとナチは、リコが自分を運び込んでくれた恩義を感じてそれを訊いたのだ
とでも思っているのだろう。
『そ、そっか・・・。』 リコの頭の中は、”あの事 ”でいっぱいだった。
月明りの逆光で浮かび上がった、あの輪郭。
あの時の酷く酔っぱらっていて立っている事でさえ覚束ないリコには、見慣れた
輪郭だとしか思えなかった。より深く思い出そうとすればする程、それを意地悪
く遮るかのように、頭の芯がズキズキと痛みを発して邪魔をする。
『コーチャン先生と、タケ・・・。』
夜があけ空が白んで明るくなってきた頃、再び、みんなは眠りについた。
リコはコースケのベットを借り、その隣にナチが一緒に横になった。
リュータは床にゴロ寝して、リカコはソファにもたれ掛かって寝ている。
タケは床に直座りし壁にもたれかかって目を閉じていたが、延々考え事をして
いて実際は眠ってはいなかった。目をつぶったまま、更にぎゅっと力を込めて
まぶたを閉じる。そして頭をブンブンと振ってうな垂れ、細々と溜息を付いた。
コースケはなんだか眠れなくなってしまい、ひとり、外の空気を吸いに部屋を
出ていた。
園のグラウンドのタイヤ型の跳び箱に腰掛け、自宅の冷蔵庫から持ってきた缶
コーヒーに口を付けると、コースケはひとり深く深く溜息を付く。
朝靄けむる早朝の街。目の前の車道には殆ど車も走っていない。それをただぼ
んやりと見ていた。空虚な目でただただ、ぼんやりと。
頭の中を、色々なことがグルグル巡る。
ギュっと目をつぶって、両手で頭を抱えた。
そうかと思えば、頭を左右に振り何かを振り払おうとでもするかのよう。
そしてまた、コースケは大きな大きな溜息を付いた・・・
リコは自宅に帰ると、真っ直ぐに浴室に向かいシャワーに入って自室にこもった。
きっとあれだけお酒を飲んだのだから、随分お酒の匂いは残っているはずだ。
母ハルコに知れたら、さすがに相当叱られるに違いない。
まだ酔いが残って少し気持ち悪いリコは、すぐさまパジャマに着替えるとベット
に潜り込んだ。
頭まで布団をかぶり、その息苦しい狭く暗い空間で浅い呼吸を繰り返す。
結局はまた、あの出来事を思い返していた。
考えないようにしようとしても、考えてしまう。
しっかり思い出そうとしてみても、頭がズキズキして朧げにしか思い出せない。
微かに震える指先で、そっと、おでこに触れた。
ほんの少しだけ感じたあたたかい唇の感触。
(コーチャン先生・・・か、 タケ・・・。)
リコの頬はじりじりと熱くなり、また頭がズキっと痛んだ。
リコの、はじめてのキスだった・・・




