第三話 御影先生、私以外のDomに尻尾を振らないでください!
綾小路芙実は、嫉妬という感情を文学的に理解していた。
『源氏物語』では六条御息所が生霊になり、『オセロー』では疑念が悲劇を招く。古今東西、嫉妬とは人間を愚かにする厄介な感情であると。
だからこそ国語教師として冷静であるべきだった。
「御影先生、他校の美人Dom教師と楽しそうにお話ししてましたね」
「ええ。会話くらいしますが」
「……そうですか」
「先生。今、持っているプリントが三枚ほど犠牲になっています」
びりっ。
四枚目が殉職した。
*
事の発端は、近隣校との合同研修だった。
第二性への理解を深めるという立派な目的のもと、青嶺学園には各校から教師が集まっていた。
芙実は受付係として、いつも通り穏やかな笑顔で来賓を迎えていた。
そこへ現れたのが、隣校のDom教師・一ノ瀬玲奈だった。
三十二歳。凛とした美貌に、落ち着いた物腰。Domとしての経験も豊富で、まさに理想的な指導者だった。
「御影先生。あなた、まだ正式なペアがいらっしゃらないんですって?」
「ええ」
「でしたら、私と一度お話ししませんか。相性次第では、正式なペア契約も考えています」
芙実の手から、受付名簿が滑り落ちた。
冬弦が拾い上げる。
「綾小路先生。落としましたよ」
「……ありがとうございます」
「顔色が悪いですね」
「元気です!」
「では、なぜ名簿を逆さまに持っているんです?」
元気ではなかった。
芙実は悟った。
九十八パーセントという適合率に、安心しきっていたのだ。
けれど冬弦はSubである以前に、一人の男性だ。
誰とペアを組むか決める権利がある。
自分のように命令ひとつで真っ赤になるDomより、玲奈のような女性のほうが、きっと彼にふさわしい。
……そう考えた途端、胸がひどく痛んだ。
*
「先生、失恋したんですか?」
四時間目、二年三組。
女子生徒の質問に、芙実は赤ペンを取り落とした。
「な、何を言ってるんですか!」
「だって今日、御影先生のこと見てため息ついてた」
「見てません!」
「じゃあ、なんで黒板に『御影』って書いたんです?」
芙実は振り返った。
黒板には、達筆な文字で『御影』。
その下には『嫉妬』。
さらに『独占欲』。
国語の授業としては、もはや公開処刑だった。
「……これは、感情を表す語彙の学習です」
「先生、実例が生々しい!」
教室が爆笑に包まれる。
芙実は静かにチョークを置いた。
「皆さん。教科書五十八ページを開いてください」
「先生、逃げた!」
「逃げていません。授業です!」
その日の授業日誌。
『心情表現について学習。生徒の理解度極めて良好。教師の精神状態、前回より悪化』
*
放課後、職員室。
冬弦は、芙実の机に温かい紅茶を置いた。
以前と同じ銘柄だった。
「お疲れさまです」
「……ありがとうございます」
「今日はCommandの研修、どうします?」
「御影先生」
芙実はカップを見つめたまま、小さく尋ねた。
「一ノ瀬先生と、ペアを組むんですか?」
冬弦の手が止まった。
「なぜです?」
「とても素敵な方ですし……私より、ずっと立派なDomですから」
冬弦は黙っていた。
いつもなら即座に皮肉が飛んでくるはずなのに、その沈黙が妙に怖い。
「……綾小路先生」
やがて、低い声が落ちた。
「俺の相手を、どうして先生が勝手に決めるんです?」
芙実は顔を上げた。
冬弦は笑っていなかった。
「俺が誰とペアを組むか、先生には関係ありませんか?」
「そ、それは……」
「なら、命令してください」
「え?」
「他のDomのところへ行くな、と」
芙実の心臓が跳ねた。
冬弦は一歩近づき、彼女の前で足を止める。
「先生が望むなら、俺はここにいます」
「……そんなこと、言えません」
「どうして?」
「御影先生が……嫌がるかもしれないから」
冬弦の眉が、わずかに動いた。
芙実は俯く。
「私、Domなのに全然頼りなくて……御影先生に命令するたび、恥ずかしくなって。いつもからかわれてばかりで……」
「ええ。見事な負けっぷりですね」
「今くらい優しくしてください!」
「十分優しくしていますよ」
冬弦はため息をついた。
「先生。俺は従順なSubではありません」
「……知ってます」
「性格も悪い」
「よく知ってます」
「口も悪い」
「本当によく知ってます!」
「そこまで言われると傷つきますね」
「自分で言ったんでしょう!?」
いつもの調子に戻りかけた、その瞬間。
冬弦が芙実の手を取った。
指先が触れる。
芙実の呼吸が止まった。
「……でも、あなたのCommandは嫌じゃない」
冬弦の声が、少しだけ柔らかくなる。
「俺は今まで、Subだからという理由で従順さを求められるのが嫌でした。俺の性格も、意思も、全部否定される気がして」
芙実は黙って聞いていた。
「でも先生は違う。命令する前に、必ず俺の気持ちを考える。俺が嫌がっていないか、苦しくないか、いつも気にしている」
「……それは、当たり前のことです」
「その当たり前が、俺には珍しかったんですよ」
冬弦は、彼女の手をそっと持ち上げた。
そして指先に、触れるだけの口づけを落とした。
「っ……!」
芙実の頬が一気に熱くなる。
「み、御影先生!?」
「嫌でした?」
「……嫌じゃ、ないです」
「よかった」
冬弦は微笑んだ。
いつもの意地悪な笑顔ではない。
ひどく優しく、どこか切なげな表情だった。
「俺は、あなたに選ばれたいんです」
芙実は息を呑んだ。
けれど。
「……ペア研修の話、ですよね?」
冬弦の表情が固まった。数秒間。
「…………先生」
「はい?」
「国語教師ですよね?」
「そうですけど?」
「行間を読むという概念、ご存じですか?」
「失礼ですね!?」
冬弦は額を押さえた。
人生初の告白未遂。
しかも相手は文学を教える女だった。
*
その日の夕方。
二年三組の生徒たちは、職員室前で奇妙な光景を目撃した。
御影冬弦が、廊下の窓際で一人、深いため息をついていた。
「御影先生、どうしたんですか?」
「……国語の勉強をしようかと」
「数学の先生なのに?」
「ええ。どうやら俺には、言葉を伝える能力が不足しているらしい」
生徒たちは顔を見合わせた。
「……綾小路先生のこと?」
冬弦は答えなかった。
ただ、眼鏡を押し上げる。
「君たち。余計なことを言うと、次の小テストを難しくしますよ」
「職権乱用だ!」
「冗談です」
「顔が冗談じゃない!」
廊下に笑い声が響いた。
*
その夜。
芙実は自宅のソファで、何度目かわからないため息をついていた。
指先には、まだ冬弦の唇の感触が残っている気がした。
『俺は、あなたに選ばれたいんです』
あの言葉を思い出すたび、胸が締めつけられる。
あれは、本当に研修の話だったのだろうか、それとも。
スマートフォンが震えた。
画面には、御影冬弦の名前。
『明日、仕事が終わったら時間をください』
続けて、もう一通。
『研修ではなく、男として話があります』
芙実は固まった。
そして。
「…………えええええっ!?」
隣室から壁を叩く音がした。
申し訳ありません。
けれど今、それどころではない。
さらに通知が届く。
『ちなみに、明日は逃げないでくださいね』
芙実はスマートフォンを抱きしめ、ソファに沈んだ。
「……御影先生の、馬鹿」
その声は、どうしようもなく甘かった。
一方、冬弦は自宅で返信を待ちながら、珍しく落ち着きを失っていた。
彼女が自分を選んでくれる保証など、どこにもない。
それでもあの優しいDomにだけは、どうしても伝えたいことがある。
冬弦は眼鏡を外し、小さく笑った。
「……明日こそ、覚悟してくださいね。綾小路先生」
なお翌朝、芙実は盛大に寝坊した。
恋愛におけるDom/Subの主導権争いは、まだ始まったばかりだった。
――第三話・完――




