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第二話 御影先生、Subのくせに調教する側なんですか?

綾小路芙実は国語教師だ。


言葉の意味を教え、文章の意図を読み解き、時には作者の心情について生徒と熱い議論を交わす。

言語は文化。言葉は大事。


そんな彼女が、人生で初めて辞書から抹消したいと思った単語があった。


『命令』。


「綾小路先生。今日も放課後、よろしくお願いします」


「……はい」


「随分と元気がありませんね。昨日はあんなに威勢がよかったのに」


「御影先生」


「はい」


「お願いですから、職員室では普通にしてください」


御影冬弦は、銀縁眼鏡の奥で愉快そうに目を細めた。


「普通とは?」


「そういうところです!」


赴任二日目にして、数学教師が国語教師を言葉で追い詰めている。


しかも被害者はDom、加害者はSub。

第二性の教科書が泣いていた。


*


事態が悪化したのは、三時間目の二年三組だった。


「先生、御影先生と付き合ってるんですか?」


芙実はチョークを折った。


「……どこからその話が?」


「昨日、相談室で二人きりだったって」


「適性研修です!」


「じゃあ、先生が御影先生に命令するんですか?」


「しません!」


「Domなのに?」


「授業中です!」


教室が笑いに包まれる。

芙実は額を押さえた。


この学校の情報伝達速度は光より速い。

教頭の会議資料は間違っているのに、教師の恋愛事情だけは異様に正確な経路で伝播する。


「先生、顔真っ赤」


「教科書四十二ページを開いてください!」


「話題逸らした!」


「これはCommandではありません! 授業指示です!」


その日の授業日誌には、こう記された。


『現代文。比喩表現について学習。生徒の理解度良好。教師の精神状態不良』


*


放課後。

研修室には、養護教諭が用意した資料と、二脚の椅子が置かれていた。


「今日はCommandの持続と解除を練習しましょう」


冬弦は資料を一瞥し、芙実に向き直る。


「まず、俺の目を見てください」


「はい」


「逸らさない」


「……はい」


「先生、また従ってますよ」


「っ!」


芙実は両手で顔を覆った。


「御影先生! あなた本当にSubなんですか!?」


「適性証明書をお見せしましょうか?」


「そういう意味じゃありません!」


「では、どういう意味で?」


「もう嫌です、この人!」


冬弦は笑った。

声を立てず、肩だけをわずかに揺らす。その笑い方が妙に色っぽくて、芙実はさらに腹が立った。


顔がいい男の性格が悪いのは、何らかの法律で取り締まるべきではないだろうか。


「では先生。俺に黙れと命令してください」


「……黙ってください」


「お願いに聞こえますね」


「黙りなさい!」


ぴたり。

冬弦の唇が閉じた。


静寂が落ちる。

成功だ。


芙実は胸を撫で下ろした。


ところが冬弦は喋らないまま、ゆっくりと微笑んだ。


肘掛けに頬杖をつき、こちらを見つめる。

灰色の瞳が、面白がるように細められた。


……ずるい。


声を封じたはずなのに、視線だけでからかわれている。


「……御影先生?」


返事はない。


「そんなに見ないでください」


冬弦は瞬きひとつしない。


「わ、わかりました! 解除します!」


「……三十七秒」


「はい?」


「持続時間です。前回より進歩しましたね」


「褒められてる気がしません!」


「褒めていますよ。非常に可愛らしい負け方でした」


「負けてません!」


「では再戦しますか?」


芙実は机に突っ伏した。

Domとしての尊厳が、毎日少しずつ削られていく。


*


翌日の昼休み、二年三組の生徒たちが職員室へやってきた。


「御影先生、質問です!」


「数学ならどうぞ」


「綾小路先生って、怒ると怖いですか?」


冬弦は採点の手を止めた。


「怖いですよ」


「えー! 嘘だ!」


「本当です。昨日、俺は三十七秒も黙らされました」


「短っ!」


「俺にとっては大事件です」


生徒たちは腹を抱えて笑った。

そこへ芙実が戻ってくる。


「御影先生! 生徒に何を話してるんですか!」


「事実です」


「事実にも守秘義務があります!」


「国語教師らしい名言ですね」


「茶化さないでください!」


そのとき、一人の女子生徒が芙実の顔を覗き込んだ。


「先生、でも最近ちょっと楽しそう」


「……え?」


「御影先生が来てから、よく笑ってる」


不意を突かれた。

確かに腹は立つ。毎日振り回され、心臓にも悪い。


けれど。

昨日の帰り際、冬弦は芙実の机に温かい紅茶を置いていった。


『Commandは体力を使いますから』


それだけ言って、何事もなかったように去っていった。


今日も研修室の椅子には、彼女が冷えないよう薄い膝掛けが用意されていた。

気づいていないと思っているのだろうか。

あんなに意地悪なくせに、優しさだけは隠すのが下手なのだ。


「……そう、かもしれませんね」


芙実が微笑むと、冬弦のペンが一瞬止まった。


*


その日の放課後。

研修を終えた冬弦が資料を片づけていると、芙実が小さく声をかけた。


「御影先生」


「はい」


「いつも、ありがとうございます」


冬弦は眉を上げた。


「急にどうしたんです?」


「紅茶とか、膝掛けとか……ちゃんと気づいてますから」


「……なるほど」


冬弦は眼鏡を押し上げる。


「では、お礼にひとつCommandを」


「またですか!?」


「嫌なら結構です」


「……ずるいです」


芙実は俯いた。


本当は、ずっと気になっていた。


冬弦が誰にでもこんなふうに優しいのか。

誰にでも、あんな顔で笑うのか。


胸の奥が、ちくりと痛む。


「……私だけを」


声が漏れた。


「はい?」


「私だけを、見ていてください」


言ってから、芙実は息を呑んだ。


違う。

こんな命令をするつもりではなかった。


けれど冬弦は笑わなかった。

その灰色の瞳から、いつもの意地悪な光が消える。


静かに彼女を見つめ、ゆっくりと頷いた。


「……はい」


たった一言。

それなのに、芙実の胸は苦しいほど高鳴った。


冬弦もまた、自分の変化に戸惑っていた。


命令に従うことが嫌いだった。

誰かに自分を決められるのが、何より不愉快だった。


それなのに、彼女に「私だけを見て」と言われた瞬間、胸の奥が満たされた。


命令だからではない。

そうしたいと、心から思ってしまったのだ。


「……綾小路先生」


「は、はい」


「今のCommand、解除しなくていいですよ」


「えっ?」


冬弦は微笑んだ。


いつもの皮肉っぽい笑みではない。

ひどく穏やかな、甘い表情だった。


「俺が、そうしたいので」


芙実は両手で顔を覆った。


「……御影先生」


「はい」


「あなた、Subのくせに反則です……」


「褒め言葉として受け取っておきます」


窓の外では、春の夕日が校庭を染めていた。

廊下からは部活動へ向かう生徒たちの笑い声が聞こえる。


その穏やかな日常の片隅で、二人の教師はようやく気づき始めていた。


この研修は、どうやら第二性の適合確認だけでは終わらないらしい。


もっとも。


「ところで先生。顔が真っ赤ですよ」


「……黙ってください!」


「Yes, my Dom」


※


翌朝、職員室には新たな噂が流れた。


《学園の聖母、数学教師を二度黙らせることに成功》


なお、当の数学教師は大変満足そうだった。


――第二話・完――


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