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第一話 綾小路先生、Domとしての自覚はありますか?

私立青嶺学園には、三つの名物がある。


春になると見事な花を咲かせる中庭の桜。

創立百二十年を誇る重厚な時計塔。

そして、職員室に生息する《学園の聖母》こと綾小路芙実(あやのこうじふみ)。


「綾小路先生、また生徒の相談に乗っていたんですか?」


「ええ。進路のことで少し」


「昼休み、終わりますよ」


「あら、本当ですね」


柔らかな栗色の髪を耳にかけ、芙実は困ったように微笑んだ。


二十八歳。国語教師。

生徒からの信頼は厚く、保護者からの評判も上々。

怒鳴ったところを見た者はなく、彼女に叱られた生徒はなぜか自主的に反省文を書く。


そんな芙実には、ひとつだけ秘密があった。


彼女はDomである。

それも、適性検査では最高水準の数値を叩き出した、筋金入りのDomだった。


ただし。


「……一度くらい、強引に迫られてみたいんですけど」


誰もいない資料室で、芙実はぽつりと呟いた。

生まれ持った第二性と、本人の恋愛嗜好が一致するとは限らない。


芙実の場合、その不一致が少々深刻だった。


命令するより、されたい。

追い詰めるより、追い詰められたい。

好きな男性に壁際まで迫られ、逃げ道を塞がれたうえで「俺だけを見ていろ」なんて囁かれた日には、喜んで白旗を振る自信がある。


もっとも、そんな願望を実現してくれる相手など、二十八年間現れなかった。


――その男が赴任してきたのは、四月最初の月曜日だった。


*


「御影冬弦(みかげとうげん)です。数学を担当します。よろしくお願いします」


新任教師の挨拶は、驚くほど簡潔だった。


三十歳。長身痩躯。黒髪に銀縁眼鏡、隙なく締められたネクタイ。端正な顔立ちは冷ややかで、愛想笑いひとつ浮かべない。


「何か質問は?」


教頭が尋ねると、冬弦は配布資料を一枚持ち上げた。


「三ページ目の年間予定ですが、授業日数の合計が合いません」


「えっ」


「それと五ページ目。会議の終了予定時刻が始業時刻より早い。時間を逆行する予定でしょうか」


職員室が静まり返った。

赴任初日、開始三分で教頭を論破。


のちに生徒たちから《人間関数電卓》と呼ばれる男の、記念すべき初仕事だった。


芙実は感心していた。

なんて頭の回転が速い人なのだろう。

そして、なんて恐ろしい人なのだろう。


できれば関わらずに済ませたい。


そう思った三時間後、芙実は校内の第二性相談室に呼び出された。


「綾小路先生。御影先生との適性相性が、九十八パーセントです」


「……はい?」


担当の養護教諭が画面を示す。


「御影先生はSubなんです。本人も希望されていますし、任意のペア研修をお願いできませんか?」


九十八パーセント。


恋愛小説なら運命と呼ぶ数字だが、芙実には死刑宣告に聞こえた。


なぜなら、目の前の男はどう見ても人に従う性格ではなかったから。


「よろしくお願いします、綾小路先生」


冬弦が微笑んだ。

初めて見る笑顔だった。


怖い。

笑っているのに、ものすごく怖い。


*


「では、俺にCommandを出してください」


放課後の相談室。

研修担当者が席を外すと、冬弦は椅子に腰掛け、長い脚を組んだ。


「え、ええと……」


「どうしました?」


「その、初めてなので……」


「奇遇ですね。俺も初めてです」


「そうなんですか?」


「ええ。こんなに頼りないDomは」


「初対面で失礼すぎませんか!?」


芙実は思わず声を上げた。

冬弦は愉快そうに目を細める。


「いいですね。その調子で命令を」


「じゃ、じゃあ……座ってください!」


「すでに座っていますが」


「…………」


「先生。俺に立てと?」


「すみません!」


「Domが謝ってどうするんです」


「すみません!」


「二回目ですね」


この男、絶対に楽しんでいる。

芙実は確信した。


しかも厄介なことに、冬弦の低い声は彼女の好みに恐ろしく合致していた。


「俺を見てください」


「は、はい」


「目を逸らさない」


すっと身を乗り出され、芙実の背筋が伸びる。

銀縁眼鏡の奥で、灰色の瞳が笑っていた。


「……顔が赤いですよ」


「近いからです!」


「近いと困るんですか?」


「こ、困ります!」


「では離れましょうか」


そう言いながら、冬弦は動かない。

芙実の心臓が、馬鹿みたいに跳ねた。


ずるい。

Subのくせに。


いや、Subだからといって意地悪をしてはいけない決まりなどないのだが、それにしてもこの男は性格が悪すぎる。


「先生」


「な、なんでしょう」


「命令しないんですか?」


「だから、今しようと……」


「俺、いつまで待てばいいんでしょうね」


とうとう芙実の堪忍袋の緒が切れた。


「もう、黙ってください!」


空気が変わった。


怒鳴ったわけではない。

けれど、声に宿ったDomの力が、部屋の隅々まで静かに満ちた。


冬弦の唇が閉じる。

組んでいた脚が解かれ、背筋がわずかに伸びた。


本人の意思を無視して身体を支配するほど強制的なものではない。それでも、適合したDomからのCommandは、Subの奥深くに届く。


冬弦は動かなかった。

芙実も動けなかった。


やがて彼の喉が、小さく上下する。

その表情から、先ほどまでの余裕が消えていた。


芙実は慌ててCommandを解いた。


「ご、ごめんなさい! 大丈夫ですか?」


冬弦は答えない。

ただ、ゆっくりと息を吐いた。


「……驚きました」


「やっぱり強すぎましたよね!?」


「いいえ」


冬弦は眼鏡を外した。

そして、芙実をまっすぐに見つめる。


「気持ちよかった」


「…………はい?」


「今のCommandです。妙に落ち着きました」


芙実は言葉を失った。

冬弦自身も、戸惑っていた。


これまで受けたCommandは、どれも窮屈だった。

従うことを当然とされ、性格まで矯正されるようで、ひどく不愉快だった。


けれど今の声には、不思議な温かさがあった。

命令しておきながら、誰よりも自分の反応を気にしている。


なんとも情けなく、なんとも優しいDomだ。


「綾小路先生」


「は、はい」


「もう一度、お願いします」


「えっ」


「あなたのCommandを、もう少し試したい」


冬弦が立ち上がる。

芙実は反射的に後ずさった。


背中が壁に触れる。


冬弦はそこで足を止め、彼女の逃げ道を塞がない距離から、少しだけ身を屈めた。


「……先生」


耳に届く声が、ひどく甘い。


「俺に命令するの、そんなに恥ずかしいですか?」


「は、恥ずかしいです……!」


「では、慣れていただかないと」


「な、何にですか!?」


冬弦は薄く笑った。


「俺に、ですよ」


その瞬間、芙実の思考は完全に停止した。


*


翌朝。

職員室では、早くも妙な噂が広まっていた。


《学園の聖母、赴任二日目の数学教師に敗北》


事実ではない。

少なくとも、Dom/Subの研修としては成功だった。


ただし芙実の恋愛的な意味での敗北は、否定しようがなかった。


「おはようございます、綾小路先生」


背後から聞こえた声に、芙実の肩が跳ねる。


「お、おはようございます、御影先生」


「今日も放課後、よろしくお願いします」


「……はい」


「今度は、もう少し上手に命令してくださいね」


にこり。


芙実は机に突っ伏した。

一方、冬弦は珍しく上機嫌だった。


昨夜、彼は研修記録に一文を書き加えている。


『綾小路芙実。適合率九十八パーセント。継続研修を希望』


その下に、誰にも見せない私的なメモがあった。


『彼女の困った顔は、実に好ましい』


どうやらこのSub、Domに従う以前に、Domを泣かせることに生きがいを見出したらしい。


そして芙実は、まだ知らない。


この性格最悪な数学教師が、彼女のたった一言で、いつか誰よりも従順な男になることを。


もっとも、それはもう少し先の話である。


――第一話・完――


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