最終話 命令です。私を一生、甘やかしてください。
御影冬弦は人生で初めて告白を後悔していた。
正確には、告白する前から後悔していた。
「御影先生、おはようございます!」
「……おはようございます」
「今日もいいお天気ですね!」
「ええ」
「桜も綺麗で!」
「そうですね、ほとんど散ってますけど」
「教頭先生もお元気そうで!」
「それはどうでしょう」
綾小路芙実、二十八歳。国語教師。Dom適性最高水準。
現在、絶賛現実逃避中。
昨日、冬弦から届いた『男として話があります』というメッセージ。
あれから一睡もできなかった芙実は、寝坊した挙げ句、左右違う靴下で出勤した。
「先生」
「は、はい!」
「右が紺、左が黒です」
「…………」
「新しいファッションですか?」
「見ないでください!」
「昨日は俺だけを見てほしいと仰ったのに?」
「それとこれとは別です!」
冬弦は眼鏡を押し上げた。
ああ、今日も可愛い。
そして今日こそ、絶対に逃がさない。
*
「綾小路先生、今日こそ告白されるんですか?」
三時間目、二年三組。
芙実は出席簿を落とした。
「誰がそんなことを!?」
「御影先生が昨日、廊下で『国語の勉強をする』って言ってました!」
「それがなぜ告白に!?」
「先生、恋愛小説の読解だけ壊滅的だから!」
教室が爆笑に包まれた。
「失礼ですね! 私は国語教師ですよ!」
「じゃあ『あなたに選ばれたい』って、どういう意味?」
「正式なペア契約の希望でしょう?」
「先生、それ本気!?」
女子生徒が机に突っ伏した。
男子生徒は天井を仰いだ。
「御影先生、頑張れ……」
「なんで御影先生を応援するんですか!」
「だって先生、攻略難易度が高すぎる!」
その日の授業日誌。
『恋愛文学における心情表現を学習。生徒の理解度良好。教師の読解能力に重大な疑義』
*
放課後。
誰もいない相談室で、芙実は冬弦と向き合っていた。
窓から差し込む夕日が、机の上の書類を橙色に染めている。
「……綾小路先生」
「はい」
「昨夜のメッセージ、読みました?」
「読みました!」
「意味は理解できました?」
「……たぶん」
「では、説明してください」
「口頭試問ですか!?」
冬弦は笑った。
「先生が国語教師なので」
「性格が悪い!」
「今さらですね」
その軽口に、芙実の緊張が少しだけ解けた。
冬弦は椅子を引き、彼女と目線を合わせる。
「俺は、ずっとSubであることが嫌でした」
穏やかな声だった。
「従順でいろ。大人しくしろ。Domに主導権を渡せ。そう言われるたび、自分の性格まで否定されている気がして」
芙実は黙って聞いていた。
「でも、先生は違った」
「……私、いつも負けてばかりですよ?」
「ええ。見事な負けっぷりです」
「最後くらい褒めてください!」
「褒めていますよ」
冬弦は彼女の手を取った。
「あなたは、俺に従うことを強要しなかった。俺が嫌がっていないか、いつも気にしてくれた」
「……当たり前です」
「その当たり前に、俺は救われたんです」
芙実の胸が、きゅっと締めつけられた。
「俺はあなたのCommandが好きです。でも、それ以上に……あなたが好きだ」
冬弦は、まっすぐに彼女を見つめる。
「綾小路芙実さん。俺と付き合ってください」
芙実の目から、ぽろりと涙が落ちた。
「……私で、いいんですか?」
「あなたがいいんです」
「私、Domなのに全然格好よくなくて……」
「知っています」
「命令するより、されるほうが好きで……」
「ええ」
「御影先生に意地悪されると、ちょっと嬉しくて……」
冬弦の眉が上がった。
「……それは初耳ですね」
「今の忘れてください!」
「無理です。一生覚えています」
「最低!」
「最高の褒め言葉です」
芙実は泣きながら笑った。
そして、小さく頷く。
「……よろしく、お願いします」
冬弦の表情が、ふっと柔らかくなった。
「こちらこそ」
彼は芙実の頬に触れ、涙を親指で拭った。
「キスしても?」
芙実は真っ赤になりながら頷いた。
唇が重なる。
触れるだけの、優しい口づけ。
離れたあと、冬弦は額を寄せた。
「……先生」
「は、はい」
「今の、もう一度したいんですが」
「……聞かないでください」
「では、命令してください」
芙実は震える指で彼のシャツを掴んだ。
「……もう一度、キスしてください」
冬弦は笑った。
「Yes, my Dom」
二度目の口づけは、少しだけ長かった。
*
翌朝。
二年三組では、朝から異様な盛り上がりを見せていた。
「先生! 御影先生と付き合ったって本当!?」
「誰から聞いたんですか!?」
「御影先生!」
「本人!?」
芙実は頭を抱えた。
そこへ冬弦が通りかかる。
「おや、賑やかですね」
「御影先生! 生徒に何を話したんですか!」
「事実です」
「事実にも守秘義務があります!」
「以前も聞きましたね、その名言」
生徒たちは大爆笑。
冬弦は涼しい顔で続けた。
「ちなみに、交際は真剣ですので」
「きゃー!」
「御影先生、男前!」
「先生、顔真っ赤!」
芙実は教卓に突っ伏した。
教師としての威厳が、完全に消滅した瞬間だった。
*
それから二年後。
綾小路芙実は、御影芙実になっていた。
結婚式では教頭が祝辞を三十分も喋り、冬弦が「結論からお願いします」と遮った。
二年三組の卒業生たちは、全員で拍手した。
そして現在。
「冬弦さん」
「はい?」
「……今日は、もうお仕事しないでください」
夜十時。
自宅のソファで、冬弦は採点用紙を広げていた。
芙実は隣に座り、彼の手から赤ペンを取り上げる。
「命令です。今日はもう、休んでください」
冬弦は一瞬だけ目を細めた。
そして素直にペンを置く。
「……はい、芙実さん」
彼は彼女の膝に頭を預けた。
いつもの皮肉も、意地悪な笑みもない。
ただ安心しきったSubの顔だった。
芙実はその黒髪を優しく撫でる。
「……冬弦さん」
「なんです?」
「もうひとつ、命令してもいいですか?」
「どうぞ」
芙実は少しだけ頬を染めた。
「私を、一生甘やかしてください」
冬弦は目を開けた。
そして、世界で一番幸せそうに笑った。
「Yes, my Dom. ……喜んで」
彼は起き上がり、芙実を抱き寄せる。
「ただし、覚悟してくださいね」
「……何をですか?」
「俺、甘やかすときも手加減しませんから」
「っ……!」
耳元に落ちた低い声に、芙実の肩が跳ねた。
冬弦は楽しそうに笑う。
「ほら。また顔が赤い」
「……冬弦さんの、意地悪」
「ええ。あなた専用の、性格最悪なSubです」
芙実は彼の胸に顔を埋めた。
命令するのは、今でも苦手だ。
けれど、この人になら。
「……大好きです、冬弦さん」
冬弦の腕が、少しだけ強くなる。
「俺もですよ、芙実」
世界一面倒くさいDomと、世界一生意気なSub。
二人の主導権争いは、今日も決着がつかない。
ただひとつ、確かなことがある。
どちらが命令しても。
どちらが従っても。
最後に幸せになるのは、いつだって二人一緒なのだ。
――最終話・完――




