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初めての朝



 チチチ、チチチ。


 鳥の声が聞こえる。


 遠くから響く小さな鳴き声に、沈んでいた意識がゆっくりと浮かび上がってきた。


 寒い。


 最初に感じたのは、それだった。


 身体の芯まで冷え切っている。指先は痺れ、手足を動かそうとしても、まるで自分の身体ではないかのようにぎこちない。


 重たい瞼を開こうとする。


 だが、うまくいかない。


 濡れた睫毛が張り付いているのか、それとも単に身体が言うことを聞かないのか。何度か力を込めて、ようやく手を持ち上げた。


 冷え切った指で、瞼をそっと擦る。


 パリ、と音がしそうなほどぎこちなく、ゆっくりと目を開いた。


「……っ」


 目が眩む。


 視界いっぱいに、白い光が広がった。


 夜明け、だろうか。


 辺りは薄白く霞み、世界の輪郭がぼんやりと浮かび上がっている。


 谷底へ落ちるまで、必死に駆け抜けた森。


 あの時は、行く手を塞ぐ黒い手のように見えた木々が、今は濃い緑の葉を朝露に濡らし、きらきらと光を反射していた。


 美しい。


 そう思った。


 こんな状況でなければ、もう少し眺めていたかったくらいだ。


 ……いや、こんな状況とは何だろう。


 そもそも、自分はどうなったのだったか。


 記憶を辿ろうとして、すぐにやめた。


 銀色の瞳が脳裏をよぎっただけで、身体の奥がぎゅっと縮こまる。


 あの騎士。


 あの死神。


 思い出したくない。


 今は、ここにいないことだけを願おう。


 ふと、腰から下に違和感を覚えた。


 見下ろす。


 ……川だ。


 どうやら、まだ下半身が川に浸かったままだったらしい。


 慌てて手をつき、這いずるようにして岸へ上がる。


 水から身体を引き離した途端、冷気が濡れた肌にまとわりついた。


 寒い。


 息が白くなるほどだ。


 普通の人間なら、とうに死んでいたのではないだろうか。


 そう考えて、ふと思う。


 人間じゃなくてよかった。


 ……いや、本当に。


 人間だったら、崖から落ちた時点で死んでいた可能性もある。そうでなくとも、この冷たい川の中で意識を失っていたのだから、助かったとは思えない。


 そう考えると、魔物の身体も悪いことばかりではないらしい。


 もっとも。


 あの騎士に見つかれば、そんな利点など何の意味もないのだろうが。


 身体に引っかかっているものを確かめる。


 女から渡された布だ。


 ずぶ濡れになりながらも、どうにか失わずに済んだらしい。


 よかった。


 これがなければ、口も目も隠せない。


 ほっと息をついた、その時。


 母体から受け継いだ記憶が、ふと頭をよぎった。


 ――そうだ。


 人間は、まず足の間を隠すのだった。


 何故かは知らない。


 ただ、それを隠さないことは恥にあたるらしい。


 恥。


 なるほど。


 自分の身体を見下ろした。


 足首に、布がかろうじて引っかかっている。


 それ以外は何もない。


 つまり。


「……真っ裸か」


 自分で口にしてみると、妙に実感が湧いた。


 足の間をしげしげと眺める。


 これが、人間の恥の部位。


 記憶に従って、ひとまずそこを布で隠しておくことにした。


 もっとも、濡れ切った布は重く、冷たく、身体にまとわりついてくる。


 正直、邪魔でしかない。


 人間は、服を着なければならない。


 身体を隠さなければならない。


 寒さにも耐えなければならない。


 つくづく面倒な生き物だ。


「人間って大変なんだな……」


 ぽつりと呟いた。


 その瞬間。


 ガサガサッ。


 目の前の茂みが揺れた。


 身体が勝手に強張る。


 反射的に鼻を動かし、匂いを探る。


 血の匂い。


 湿った土。


 草木。


 そして、獣臭さ。


 ……あの死神の匂いではない。


 それだけで、肩に入っていた力がわずかに抜けた。


 だが、安心するには早い。


 茂みの向こうから、何かがこちらを窺っている。


 やがて、枝葉を押し分けて現れたのは、毛むくじゃらの獣だった。


 豚に似ている。


 ただし、鼻先から突き出した牙は四本。


 身体の大きさは、小さな牛ほどもある。


 記憶を探る。


 確か、魔獣の一種だったはずだ。


 好戦的な性質を持ち、縄張りへ侵入した相手には容赦なく襲いかかる。


 なるほど。


 こちらを睨む顔からは、縄張りを荒らされたことへの怒りがありありと伝わってくる。


 鼻息が荒い。


 前脚が地面を掻く。


 次の瞬間。


「ギィイィィッ!」


 雄叫びとともに、魔獣が突っ込んできた。


「え」


 驚いた。


 いや、驚いている場合ではない。


 そう理解するより早く、魔獣は目の前まで迫っていた。


 身体が勝手に動いた。


 構えを取り、迫ってきた牙を両手で掴む。


 ガシッ!


 衝撃。


 腕が軋んだ。


 止められない。


 魔獣の突進を受け止めた身体が、ずるずると後ろへ押し戻されていく。


 足元の土が崩れた。


 あと少しで、再び川へ押し込まれる。


「っ、力が……!」


 思わず歯を食いしばる。


 強い。


 この魔獣、想像していたよりもずっと力が強い。


 腕が震える。


 掴んだ牙が、手のひらに食い込む。


 魔獣の鼻面が、目の前に迫っていた。


 その時。


 口の中が、むずりと疼いた。


 ――口を隠せ。


 母の言葉が脳裏をよぎる。


 だが、そんなことを考えている余裕はなかった。


 目の前にあるのは、魔獣の鼻面。


 こちらへ突き出された、柔らかそうな肉。


 噛め。


 そう、本能が告げた。


 次の瞬間。


 ガリッ!


「ギャアアアッ!」


 牙が、魔獣の鼻面に食い込んだ。


 硬い。


 思った以上に硬い皮膚だった。


 それでも、牙は肉を貫いた。


 噛みついた瞬間、歯の根元から先端へ、じわりと熱が走る。


 熱い。


 まるで、牙そのものが熱を帯びたかのようだった。


 だが、それは一瞬。


 すぐに魔獣が身をよじり、こちらから距離を取ろうとした。


 ……何だ?


 そう思った時には、もう遅かった。


 魔獣の脚が、突然ガクガクと震え始めた。


「ギッ……ギィッ!?」


 踏ん張ろうとしているのに、四肢が言うことを聞いていない。


 太い脚が折れ曲がり、巨体がぐらりと傾く。


 口元から、白い泡がぽたぽたと垂れ始めた。


 泡に、赤いものが混じる。


 血だ。


 魔獣は苦しげに顎を開閉しながら、地面を掻いた。


 だが、立ち上がれない。


 痙攣は全身へ広がっていき、やがて巨体が横倒しに崩れ落ちた。


 それでも、脚の震えは止まらなかった。


 数秒。


 あるいは、それよりも短い時間だったかもしれない。


 魔獣は最後に、肺の奥に残った空気を吐き出すように、深く息をついた。


 そして。


 動かなくなった。


「…………」


 しばらく、呆然と見下ろしていた。


 何が起きたのか、すぐには理解できなかった。


 自分は、噛みついただけだ。


 確かに、牙は刺さった。


 だが、傷そのものは小さい。


 それなのに、この魔獣は死んだ。


 ……いや。


 死んだ、のだろうか。


 そっと近づいて様子を窺う。


 動かない。


 匂いを嗅ぐ。


 血の匂いと獣臭さ。


 それに混じって、妙な刺激臭があった。


「……もしかして」


 自分の口元に手をやる。


 牙に触れた。


 尖った先端。


 その奥に、何かがあるような気がした。


 試しに、牙の根元を指で押してみる。


 すると。


 ぽたり。


 牙の先から、透明な液体が一滴落ちた。


 地面に落ちたそれは、濡れた葉の上で小さく弾けた。


 ジュッ。


 耳を疑うような音がした。


 葉の縁が、みるみるうちに黒ずんでいく。


 やがて、葉全体がしおれ、縮れた。


「…………」


 思わず、指を引っ込める。


 もう一度、地面を見る。


 枯れた葉。


 その上に残る、小さな透明の雫。


「……毒?」


 ぽつりと呟いた。


 そういえば。


 魔獣に噛みついた瞬間、牙が熱くなった。


 てっきり、相手の体温を感じたのだと思っていたが。


 どうやら、それだけではなかったらしい。


 自分の牙を、もう一度見つめる。


 母は、目を隠せと言った。


 口も隠せと言った。


 だが。


 この口には、見た目が異様というだけではない、何かがあるのかもしれない。


「……人間のふりをするのも、大変そうだな」


 目の前には、牛ほどもある魔獣の死骸。


 その鼻面には、小さな噛み傷がひとつ。


自分の口の中がちょっぴり怖くなった,自分で舌噛んだらどうなるのか考えるのが怖い

毒持ちでしたね

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