騎士団
崖上。
血に濡れそぼった髪から、赤い雫がぽたり、ぽたりと落ちている。
谷底から吹き上げてくる冷気に、白い息を吐く男。
月明かりに浮かぶその姿は、まるで死神そのものだった。
男――騎士団長は、先ほど遊ぶように殺した魔物の首を片手にぶら下げたまま、谷底を見つめている。
数秒。
ただ、じっと。
何かを探すように谷底を見下ろしていた。
やがて。
ゆっくりと踵を返す。
そして、そのまま暗い森の奥へと消えていった。
濃い血の匂いを漂わせながら歩く男の後を、森の魔物たちが追い始める。
飢えた獣のように。
血の匂いに誘われて。
だが――。
しばらくして。
森の奥から、矢が飛んでいくような鋭い悲鳴が一声だけ響いた。
それきり。
静寂。
ただ遠くから、
べちゃ。
べちゃ。
ぬかるんだ地面を踏む、男の足音だけが微かに聞こえていた。
その頃。
森を囲むように、王国騎士団が篝火を焚いていた。
禁猟区に指定された森。
その周囲を幾重にも取り囲み、魔物が外へ逃げないよう警戒している。
先行して森の様子を探っていた騎士から、短い笛の音が響いた。
それを聞いた頬に深い傷のある副隊長が、周囲の部下たちを手で制する。
「静かに。何か来る」
副隊長は足早に笛の元へ向かった。
「魔物か?」
「いえ。分かりません。ただ……何か来ます」
先行の騎士が、森の奥を睨みながら鼻を動かす。
「血の匂いが濃すぎる」
その足元では、目のない犬のような魔獣が唸り声を上げていた。
鼻をひくつかせながら、森の奥を警戒している。
やがて、その身体が小刻みに震え始めた。
「備えろ」
副隊長が低く告げる。
「魔獣の尾が股に隠れている。先ほどの魔物程度とは違うだろう」
「隊長の可能性もありますよ」
「だとしても、魔物でも隊長でも、気を引き締めることは変わらんだろ」
副隊長が剣の柄に手を置く。
「出てくるのが魔物か鬼かの違いなだけだ」
「……違いない」
先行の騎士も剣を抜く。
周囲の騎士たちが一斉に武器を構えた。
弓をつがえる者。
斧を握る者。
魔導士たちは後方へ下がり、すでに詠唱の準備に入っている。
「……来ます」
先行の騎士が呟いた。
その声に反応するように、魔獣がさらに身体を低くする。
尻尾は完全に股の間へ入り込んでいた。
闇の塊のような森の奥から。
ガシャリ。
ガシャリ。
金属同士を擦り合わせる音が、ゆっくりと近づいてくる。
騎士たちの指に力が入った。
武器を握る手が、白くなる。
誰も口を開かない。
ただ、森の奥だけを睨んでいる。
「待て」
副隊長が短く言った。
その声に、周囲の騎士たちが僅かにざわめく。
「……隊長?」
「気を抜くな」
「正気なのか?」
「副隊長、捕縛術を?」
魔術師の問いに、副隊長が僅かに下唇を噛んだ。
ほんの一瞬。
逡巡する。
「……俺が先に声をかける」
剣を抜く。
「正気と見られなければ、やれ」
「はい」
魔術師が詠唱を始める。
その前へ、何人かの騎士が進み出た。
副隊長はそれを確認すると、剣を構えたまま森へ向かって歩き出す。
すぐ後ろを先行の騎士が続く。
魔獣だけはイヤイヤと頭を振って動かなかった。
むしろ後ろへ下がろうとして首輪とリードが綱引きの様にピンと張られる
「おい」
先行がリードを引っ張る。
「散歩を嫌がる犬か、お前は」
こんな状況には似つかわしくない呟きに、周囲から小さな忍び笑いが漏れた。
張り詰めていた空気が、一瞬だけ緩む。
「詠唱まで時間を稼ぐぞ」
「死なないですかね、俺ら」
「さぁな」
副隊長は前を見たまま答える。
「隊長に殺す気ですかって聞いてみろ」
「……無茶言わないでくださいよ」
そんなやり取りをしている間にも、森の奥から金属音が近づいてくる。
ガシャリ。
ガシャリ。
そして。
森から、長身の男が姿を現した。
だが、髪の色も鎧の色も何も分からない。
全身が赤黒い血に染まりすぎていた。
月明かりがその姿を照らした瞬間。
誰もが息を呑んだ。
副隊長が頬の傷を僅かに歪める。
「隊長」
返事はない。
「聞こえているなら、そこで止まってください」
男は歩みを止めない。
「あなたは重大な命令違反を犯したんです。戦闘許可のない単騎出撃。無断で聖剣を持ち出し、禁猟区の森へ侵入した」
それでも男は止まらない。
「貴方がいくら国を救った英雄でも、陛下もこれでは庇いきれ――」
ドンッ。
言葉が途切れた。
何かが、足元へ落ちてきた。
副隊長が反射的に身構える。
先行の騎士も息を呑んだ。
地面に転がったもの。
それは――人間の首だった。
ひとつ。
ふたつ。
さらに。
男女数名。
生首が無造作に転がっている。
先行の騎士が思わず口に手をやる
副隊長は、ゆっくりと膝をつきそれを見た。
よく出来ている。
人間の首にしか見えない。
だが。
どこかがおかしい。
恐怖に引き攣った、妙に美しいふくよかな女。
その瞳孔は、縦に裂けている。
不自然なほど色男の顔をした男。
その鼻の一部だけ、獣のような形をしている
別のものには、蝙蝠のような耳。
また別のものには――人間ならばあり得ない何かがある。
一見すれば人間。
だが、必ずどこか一箇所がおかしい。
副隊長の表情が険しくなる。
「……魔物」
その呟きに。
血濡れの男が、ようやく足を止めた。
そして。
「何匹か逃した」
低い声が、ぼそりと響いた。
顔を上げる。
そこに立っていた隊長は。
なぜか、ひどく茫然としていた。
まるで。
自分が何か、とてつもない失敗をしてしまった子供のように。
「隊長……?」
副隊長が声をかける。
男はしばらく黙っていた。
やがて、ぽつりと呟く。
「あの女……」
血の滴る髪が揺れ、地面にまた一つ赤黒い染みを作る
「追い詰めた途端、蜘蛛が腹から子を大量に産むように……魔物共を次から次に生み出し始めたんだ」
その声には、苛立ちとも焦りともつかない色が混じっていた。
「空を飛んだもの」
一歩。
「水へ飛び込んだもの」
また一歩。
「土中へ潜ったもの」
さらに一歩。
「姿を消したもの」
そして。
「虫の様な小ささで逃げたものもいる」
拳が僅かに震える。
「数十体近くは潰した」
それでも。
「だが……」
隊長が谷の方へ視線を向ける。
「逃した数は、確認できただけで五体」
副隊長の顔から、わずかに血の気が引いた。
「早く倒さなければ」
隊長の銀色の瞳が、暗い森を見つめる。
「女と……取り逃がした魔物も」
逃げ延びたのが他にもいましたがママ的に想像以上にやられたことでしょう




