第9話 初めての夜、氷が溶ける時
土曜の午後。初夏の強い日差しが、表参道のけやき並木に濃い影を落としていた。
行き交う人々の多くが週末の解放感に顔を綻ばせる中、佐野真二とエレノア・スペンサーの2人だけは、周囲の喧騒から切り離されたような静謐な空気を纏って歩いていた。
エレノアは、平日の隙のないパンツスーツとは異なる、ネイビーのシルクのワンピースに身を包んでいた。体のラインを美しく見せる洗練されたカッティングだが、首元は詰まっており、彼女の警戒心の高さを物語っている。
その隣を歩く真二は、仕立ての良いチャコールグレーのサマージャケットに、ノーネクタイの白いシャツという出で立ちだ。180センチを超える長身と、無駄のない姿勢。前世で染み付いた「下っ端」の猫背は微塵もなく、すれ違う女性たちが思わず振り返るような、静かだが確かな存在感を放っていた。
「……斜め後ろ、距離にして10メートルほど。グレーのジャケットの男です。先ほどからショーウィンドウを見るふりをして、我々の歩調に合わせていますね」
真二は前を向いたまま、唇の動きを最小限にして隣を歩くエレノアに告げた。
「ええ、気づいています」
エレノアの声は硬かった。ブルーグレーの瞳が、サングラスの奥でわずかに細められる。
「おそらく、神宮寺専務の派閥が雇った探偵でしょう。私が本当に日本でパートナーを見つけたのか、単なる時間稼ぎの嘘なのか、裏を取るために見張らせているはずです」
「なるほど。では、少しばかり『わかりやすい絵』を撮らせてやりましょうか」
真二は歩調をわずかに緩めると、エレノアの左手側へと自然に体を寄せた。そして、彼女の細い手首にそっと触れ、そのまま指先を絡ませるようにして手を繋いだ。
「……っ」
エレノアの肩がビクッと跳ね、繋がれた手に無意識に力がこもる。
「力を抜いて。誰かに見られていることを意識しすぎると、歩き方が不自然になります。ただ、ショーウィンドウのディスプレイを楽しむ恋人同士のように」
真二の声は低く、ひどく落ち着いていた。その声色には、相手を服従させるような暴力性はない。むしろ、深い海のように相手の緊張を丸ごと呑み込んでしまうような、不思議な安心感があった。
真二の手は大きく、そして温かかった。常に自分を律し、他者との物理的な接触を極端に避けてきたエレノアにとって、それは火傷しそうなほどの熱量に感じられた。
昨日までの彼は、特命担当室という密室で、大西明日香や菊地凛といった手駒を冷徹に動かし、社内政治のトラップを構築する裏方だった。だが、こうして表の世界に出た瞬間、彼は一切の気負いなく堂々と「神宮寺グループ役員の婚約者」というロールを演じ切っている。特命担当室の室長としてすでに彼の才覚は理解しているつもりだったが、その適応能力の高さには改めて舌を巻く。
「着きましたよ」
真二の言葉に顔を上げると、目の前には世界的に有名なハイブランドのジュエリーショップがあった。重厚なガラス扉の奥には、警備員と黒服のスタッフが控えている。
「婚約の事実を本国に認めさせるなら、それなりの物的証拠が必要です。ダミーとはいえ、あなたの左手の薬指が空いたままでは、彼らは納得しないでしょう」
扉を開け、真二はエレノアをエスコートして店内へと足を踏み入れた。
VIP用の個室に通され、ベルベットのトレイの上に数千万円クラスのダイヤモンドリングが次々と並べられる。
「いかがでしょうか。こちらのペアシェイプのものは、エレノア様の透き通るようなお肌に大変よくお似合いかと存じます」
熟練のスタッフが恭しく勧めてくる。エレノアは冷静に石の品質とデザインを見極めようとしたが、横に座る真二の存在感が気になり、いつものような鋭い判断が下せずにいた。
「少し、派手すぎますね」
真二が静かに口を開いた。
「彼女は普段から華美な装飾を好みません。それに、彼女の美しさは石の大きさで飾る必要がない。……こちらを見せていただけますか」
真二が指差したのは、シンプルなプラチナのアームに、高品質だが控えめなサイズのエメラルドカット・ダイヤモンドが埋め込まれたリングだった。
「左手を出して」
真二の低い声に促され、エレノアは無言で左手をテーブルの上に置いた。
真二は彼女の指先をそっと持ち上げると、冷たいプラチナの輪を、細い薬指へと滑り込ませた。
サイズは、寸分違わず合っていた。
「……どうして、私のサイズを」
エレノアが微かに目を見張る。
「書類の受け渡しなどであなたの手元を見る機会はありましたから。目測です。……よく似合っている」
真二は満足げに頷き、スタッフに向き直った。
「これに決めます。支払いは私が」
真二は内ポケットからブラックカードを取り出し、迷うことなくスタッフに手渡した。それは、数日前に暗号資産の急騰で得た資金の一部を移し替えたものだった。
「佐野。これはあくまで偽装の……経費です。私が出します」
エレノアが慌てて声を潜めるが、真二は薄く笑って首を振った。
「仮にも婚約指輪を、女性に自分で買わせるような真似はしませんよ。それに、これは俺からの『投資』です。この程度の出費であなたの立場が守れるのなら、安いものだ」
その横顔には、有無を言わせない静かな迫力があった。
エレノアは、左手の薬指で微かに光るダイヤモンドを見つめた。自分の意志とは無関係に、胸の奥で何かが小さく跳ねるのを感じた。
★★★★★★★★★★★
買い物を終えた後、2人はエレノアが住む港区の高級タワーマンションへと向かった。
地上40階。東京の街並みを一望できる広大なリビングは、白と黒を基調としたミニマルなインテリアで統一されていた。高級な家具は揃っているが、生活感というものが一切存在しない。モデルルームのように冷たく、無機質な空間だった。
「適当に座ってください。お茶を淹れます」
エレノアはヒールを脱ぐと、キッチンへと向かった。その歩き方が、少しだけ重いことに真二は気づいた。
ソファに腰を下ろし、部屋を見渡す。
彼女はこの異国の地で、常に気を張り詰め、たった1人で戦ってきたのだ。誰にも弱みを見せず、気を抜くことなく。この生活感のない部屋は、彼女の孤独そのものだった。
数分後、エレノアがティーカップを2つお盆に乗せて戻ってきた。
しかし、テーブルにカップを置こうとした瞬間、彼女の手元が微かに狂った。カップがソーサーにぶつかり、高い音を立てて熱い紅茶が少しだけ溢れる。
「……失礼しました」
エレノアは小さく舌打ちをし、眉間を押さえた。その顔色が、先ほどよりも明らかに青白い。
「無理をするな。座っていろ」
真二は立ち上がり、エレノアの肩に手を置いてソファに座らせた。
「何をするのですか、私はただ……」
「昨日も一昨日も、深夜まで本社とのオンライン会議だったのだろう? 睡眠不足と、ここ数日の急激な気圧の変化だ。……少し待っていろ」
真二はエレノアをリビングに残し、キッチンへと向かった。
巨大な冷蔵庫を開ける。案の定、中はミネラルウォーターとゼリー飲料、そして数本の白ワインしか入っていなかった。
「酷い食生活だ」
真二は小さく呟き、戸棚を漁った。奥の方から、手付かずのオートミールと、いつ買ったのかわからないフリーズドライのスープの素を見つけた。
真二は手際よくお湯を沸かし、オートミールをスープで柔らかく煮込み始めた。
前世で、深夜に疲れ果てて帰宅した後、麻衣に文句を言われながら自分のために作っていた簡素な夜食。その経験が、こんなところで役に立つとは思わなかった。
10分後。
真二は温かい湯気を立てるボウルを、ソファで目を閉じているエレノアの前のテーブルに置いた。
「食べなさい。胃に負担がかからないようにしてある」
エレノアはゆっくりと目を開け、目の前のボウルと、それを見下ろす真二の顔を交互に見た。
「……私は、こんなものを頼んでいません。それに、あなたに気を遣われる筋合いは……」
「契約の一環だ」
真二は彼女の言葉を遮り、対面のソファに腰を下ろした。
「あなたは俺の最大の『盾』だ。その盾が体調不良でヒビ割れては困る。それに、先ほども言ったが、これは俺の自己満足だ。黙って食べろ」
エレノアは反論しようと口を開いたが、真二の有無を言わせない視線と、ボウルから漂う温かい香りに抵抗する気力を奪われた。
スプーンを手に取り、1口だけ口に運ぶ。
特別な味付けなどされていない、ただのインスタントスープで煮込んだだけのオートミール。しかし、冷え切っていた胃袋に、その温かさがじんわりと染み渡っていく。
「……美味しい」
誰に聞かせるわけでもない、微かな呟きだった。
エレノアは無言のまま、スプーンを動かし続けた。他人の前で無防備に食事をする姿を見せるのは彼女にとって気が進まないことのはずだった。しかし、目の前に座る男は、そんな彼女を評価するでもなく、嘲笑うでもなく、ただ静かに、当たり前のようにそこにいてくれた。
ボウルが空になる頃、エレノアの青白かった頬に、微かな血色が戻っていた。
「……なぜ、そこまでできるのですか」
エレノアは空になったボウルを見つめながら、ぽつりとこぼした。
「社内のデータ偽装を見抜く実務能力。探偵の尾行を躱す胆力。そして……他人の不調を正確に見抜き、迷いなく手を差し伸べる余裕。あなたの底が知れない」
真二は立ち上がり、空になったボウルを手にした。
「ただ、自分が頂点に立つために必要な手札を集めているだけです」
「私も、その手札の1枚だと?」
「ええ。最も強力で、美しい1枚だ」
真二は一切の照れや誤魔化しなく、真っ直ぐにエレノアの瞳を見つめ返した。
その淀みない言葉に、エレノアはわずかに息を呑んだ。
自分を利用すると公言している男。だが、彼の言葉には、本国の親族や社内の人間たちが隠し持っていたような「卑劣な打算」がない。極めて冷徹な等価交換。だからこそ、信じることができた。
真二はボウルをキッチンに片付けると、自身のジャケットを手にした。
「今日は帰ります。ゆっくり休んでください。来週からは、いよいよ翔太の足元を崩すための具体的なフェーズに入ります。大西と菊地には、すでに準備を進めさせている」
「……わかりました」
エレノアは立ち上がり、玄関まで真二を見送った。
ドアノブに手をかけた真二の背中に向かって、エレノアは少しだけ躊躇いながら声をかけた。
「佐野」
真二が振り返る。
「……指輪と、先ほどの食事。……悪くありませんでした。ありがとう」
それは、彼女が「神宮寺の役員」としての仮面を外し、一人の女性として見せた、素直な言葉だった。
真二は表情を崩さず、しかしその瞳の奥に確かな優しさを滲ませて頷いた。
「おやすみなさい、エレノア」
静かにドアが閉まる。
一人残されたエレノアは、広くて冷たい部屋の真ん中に立ち尽くした。
左手の薬指には、めったなことでは外れないように計算された指輪が冷ややかな光を放っている。
エレノアは左手で自身の右腕を抱きしめ、微かなため息を暗い部屋にこぼした。




