第10話 反撃の盤上
日曜日の午後。初夏の陽光が、新宿御苑の豊かな緑に鮮やかなコントラストを描き出していた。
芝生広場を見渡すカフェのテラス席で、佐野真二はアイスコーヒーのグラスについた水滴を静かに見つめていた。仕立ての良いリネンのサマージャケットに身を包んだ彼の佇まいは、周囲の休日の喧騒から少しだけ切り離されたような、静かな落ち着きを払っている。遠くでは家族連れの笑い声が響き、柔らかな風が周囲の木々を揺らして葉擦れの音を立てていた。
「あっ、佐野室長! すみません、お待たせしてしまって……!」
背後から聞こえた弾むような声に振り返ると、菊地凛が小走りでこちらに向かってくるところだった。
淡いイエローのカーディガンに、膝下丈のふわりとした白いスカート。派手な装飾は一切ないが、その雪のように透き通る白い肌と、艶やかな黒髪のストレートヘアが、周囲の空気を浄化するような無垢な透明感を放っていた。息を切らせて立ち止まった彼女の頬は、微かに桜色に染まっている。
「気にするな。俺も今来たところだ」
真二は短く答え、向かいの席を勧めた。
「あ、ありがとうございます……」
凛は恐縮しきった様子でちょこんと椅子に座り、膝の上で小さなバッグを両手でギュッと握りしめた。その黒目がちな瞳が、不安そうに揺らいでいる。
「あの、今日は急にお呼び出しいただいて……。私、金曜日のファイリングで何か致命的なミスをしてしまったでしょうか。もしそうなら、今からすぐに会社に戻って――」
「違う」
真二は苦笑を噛み殺し、彼女の言葉を遮った。
「金曜の仕事は期待以上だった。大西のデスク周りが見違えるように整理されて、あいつの作業効率が上がったくらいだ」
「えっ……じゃあ、どうして」
「ただの慰労だ。特命室に来て最初の1週間、お前には慣れない環境で気を張らせた。大西のような機械的なペースに巻き込まれて、息が詰まっているんじゃないかと思ってな」
真二の言葉に、凛は目を丸くして数回瞬きをした後、ほうっと長く息を吐き出した。握りしめられていたバッグを持つ手の力が抜け、その顔にふにゃりとした安堵の笑みが広がる。緊張で強張っていた肩のラインが、スッと本来の滑らかな形に落ち着いた。
「よかったぁ……。クビを言い渡されるのかと思って、昨日の夜からずっとドキドキしてました。変な夢まで見ちゃって」
店員が凛の前にアイスティーを置く。彼女は両手でグラスを包み込むように持ち、ストローに口をつけた。冷たい液体が喉を通るたび、彼女の表情が少しずつ柔らかくほぐれていく。
真二は静かにその様子を観察していた。
誰かと休日を過ごすということは、神経をすり減らし、見返りのない労力を搾り取られるだけの時間だという認識が、真二の中には深く根付いていた。だが、目の前で嬉しそうにアイスティーを飲んでいる凛からは、そうした打算や要求が一切感じられない。ただのカフェでの1杯の茶で、彼女は心からの感謝と幸福を顔に表している。その無防備な笑顔は、真二がここ数年忘れかけていた、人間としてのささやかな温もりを思い出させるものだった。
「大西さん、無口で少し怖い時もありますけど、すごく優しいんですよ」
凛がふと思いついたように口を開いた。
「この前、私が書類のコピーの部数を間違えてしまって落ち込んでいたら、無言で『糖分補給です』って、引き出しから高いチョコレートを出してくれたんです。佐野さんが、私のことを『言われたことを疑問も持たずに引き受ける人間』だって言っていた意味が、少しわかった気がします」
「どういうことだ」
「私みたいな要領の悪い人間は、大西さんのように無駄なく仕事を進める人の邪魔にならないように、身の回りのことを一生懸命やるしかないんです。でも、特命室では、私がやった雑務が確実にチームの役に立っているのがわかる。それが……すごく、嬉しいんです。前の部署では、誰かの役に立っている実感なんて、これっぽっちもありませんでしたから」
凛は真っ直ぐに真二を見つめた。一切の裏表もない、澄み切った瞳だった。初夏の陽光を反射して、彼女の瞳の奥がキラキラと輝いている。
「私を拾ってくださって、本当にありがとうございます。私、佐野さんのためなら、何でも頑張れますから」
殺伐とした社内政治と、人を陥れるための罠を構築する日常の中で、彼女の存在はあまりにも異質だ。彼女の優しさを利用し、復讐の傍らに置いている自分は、かつて彼女を搾取していたサポート部の人間たちと本質的には何も変わらないのではないか。
そんな微かな罪悪感が胸の奥を掠めたが、真二はそれを氷のような意志で即座に封じ込めた。足を止める気はない。だが、この無防備な純粋さを、少しでも長く守ってやりたいと思う自分がいることも事実だった。
「……期待している」
真二はグラスに残ったコーヒーを飲み干し、短く答えた。その声の奥底に、自分でも気づかないほどの柔らかな響きが混じっていたことに、彼は気づいていなかった。
テラス席を初夏の風が吹き抜ける。木漏れ日がテーブルの上に落ち、2人の間に穏やかな時間が流れていた。
★★★★★★★★★★★
翌、月曜日の午前9時。
分厚い防音扉に閉ざされた特命担当室は、すでに実戦の空気に包まれていた。外部の音が一切遮断された空間の中、空調の低い唸り声だけが響いている。
大西明日香のデスクからは、3台のモニターを縦横無尽に行き来しながら叩き出されるタイピング音が、冷たく規則正しいリズムを刻んでいる。モニターに映し出される膨大なデータが秒単位で切り替わり、その青白い光が、彼女の無表情な横顔を照らし出していた。
そこへ、重厚な扉が開く音が響いた。
入ってきたのは、エレノア・スペンサーだった。仕立ての良いダークネイビーのパンツスーツに身を包み、一切の感情を排した「氷の令嬢」の仮面を隙なく貼り付けている。ヒールの足音も鋭く、土曜日の夜、真二の淹れたオートミールを無防備に食べていた姿はそこには微塵もない。
「おはようございます。エレノア役員」
真二がソファから立ち上がり、一礼する。明日香もタイピングの手を止め、正確な角度で頭を下げた。
「ええ。週末の間に、状況に進展は?」
エレノアは真二の対面のソファに腰を下ろし、冷ややかに問うた。手元のタブレットをテーブルに置く動作にも、一切の無駄がない。
その時、給湯室からお盆を持った凛が出てきた。
「あ、エレノア役員、おはようございます。お茶、お持ちしました」
凛がテーブルにティーカップを置く際、エレノアが書類を受け取ろうと左手をテーブルの上に出した。
その薬指に、小ぶりだが極めて品質の高いエメラルドカットのダイヤモンドリングが、冷ややかな光を放っていた。窓から差し込む朝の光を受けて、微細な虹色の輝きを放っている。
明日香の切れ長な視線が一瞬だけその指輪に止まったが、彼女の表情は全く動かず、何も見なかったかのようにすぐに視線を外した。それが彼女の優秀さの証だ。不用意に上司の私生活に踏み込むような真似はしない。
しかし、凛は違った。
「わぁ……とっても綺麗な指輪ですね。エレノア役員の白いお肌にすごく似合ってます」
裏表のない、心からの称賛。
その言葉に、エレノアの肩が微かに跳ねた。彼女はサッと左手を自分の右腕の下に隠すようにし、僅かに視線を逸らした。真二はその様子を静かに見つめていたが、エレノアの表情に浮かんだ微かな動揺を見逃さなかった。
「……ありがとう。ただの、装飾品よ」
普段の彼女なら、末端の社員に私物を褒められても完全に無視するか、冷たくあしらうところだ。しかし、凛のあまりにも真っ直ぐな瞳を前にすると、エレノアの強固な壁も少しだけペースを崩されるようだった。
「本題に入りましょう」
真二が静かに場を引き戻す。エレノアは小さく咳払いをして、すぐに鋭い視線を明日香に向けた。
「大西。藤井主任の動向は」
「はい」
明日香はモニターから一切目を離さず、抑揚のない声で報告を始めた。彼女の指先が再び滑らかにキーボードの上を踊る。
「藤井主任は今朝イチで、アパレルブランド『アルカディア』の役員と極秘裏に面会しています。そして現在、法務部の正式な審査プロセスを迂回し、武藤常務の『特命』という名目を使用して、彼らとの基本合意書案を独断で作成中です」
「独断で……。随分と強引ですね」
エレノアが眉をひそめる。
「ええ。アルカディア側から、今月末までの契約締結を条件に、出店料の初期費用を割り引くという提案があったようです。藤井主任はそれを自身の手柄にするため、焦っています。例の合意書ドラフトですが、指示通り、先方の撤退リスクを実質的に免責する条項のまま進行しています」
「愚かな。そんな契約、後で問題になった時にプロジェクトの責任者である私の首を絞めるだけじゃないですか」
エレノアの声に、冷たい怒りが滲む。
「ご安心を」
真二が低く落ち着いた声で口を挟んだ。
「大西。フェイルセーフの状況は?」
「完了しています」
明日香の指がエンターキーを強く叩いた。画面に承認完了の緑色の文字が浮かび上がる。
「藤井主任が作成している合意書のメタデータに細工を施しました。本社側の基幹システムには、武藤常務の派閥がアクセスできない別階層の承認ルートが立ち上がっています。藤井主任がこの合意書に電子サインをした瞬間、プロジェクトの全体予算からはこの契約のリスク分が自動的に切り離され、彼個人の『独断の決済枠』として記録されるように設定しました。システム上、プロジェクトとエレノア役員には一切の責任が及びません」
エレノアは目を見開いた。
日本の大企業の複雑怪奇なシステムと法務の抜け穴を、ここまで完全にコントロールし、書き換えてしまう実務能力。それを週末の間に、一切の痕跡を残さずやってのけたというのか。
「……見事ね」
エレノアは感嘆の溜息を吐き、真二を見つめた。
「これで、翔太は自ら進んで時限爆弾のスイッチを押すことになる。来年の秋、アルカディアが倒産した時、その爆発の被害はすべて彼と、彼を推薦した武藤常務だけを吹き飛ばす」
真二はソファの背もたれに体重を預け、薄く、氷のような笑みを浮かべた。
「ええ。彼は今、自らの手で自分の退路を断っているところです。止める理由はありません」
特命担当室に、再び明日香のタイピング音が響き始める。
社内のデータを自在に操る明日香と、組織の圧力を跳ね返す権力を持つエレノア。そして、この乾いた空間に温かい茶を運ぶ凛。それぞれが与えられた役割を淀みなくこなし、チームは静かに、だが確実に動き出している。
真二は誰に聞こえるでもなく小さく息を吐き、手元のスマートフォンを取り出した。
社内での布石は打った。次の一手は、外からの揺さぶりだ。翔太たちを逃げ場のない状況に追い込むには、表のルールに縛られない存在が必要になる。
暗号化されたメッセンジャーアプリを開き、すでに用意してある連絡先をタップする。画面の向こう側には、手に入れた資金で呼び寄せた新たな手駒が待機しているはずだった。真二は迷うことなく、短いメッセージを打ち込んだ。




