第11話 天真爛漫な闖入者
数日後。
佐野真二は、エレノア・スペンサーのマンションの広々としたキッチンに立っていた。
手元にあるのは、ドラッグストアで急遽買い求めた人間用の小さなシリンジと、ペット用品店で手に入れた猫用ミルクの粉末だ。
きっかけは数時間前。会社からエレノアのマンションへ向かう道中、突然の激しい雷雨に降られた真二は、薄暗い路地裏の軒下でずぶ濡れになって鳴いている毛玉を見つけた。
生後1ヶ月にも満たないであろう、茶トラの子猫だった。
周囲に親猫の姿はなく、ふやけた段ボールの切れ端に身を寄せて必死に細い鳴き声を上げている。冷たい雨が容赦なく体温を奪っていく中、その小さな命の灯火は今にも消えそうだった。
本来なら、自らの復讐に心を削り、盤面をコントロールすることだけに集中すべき今の真二が、余計な荷物を背負い込むべきではない。
だが、雨に打たれて震える小さな命を前に、前世から根底に残る「面倒見の良さ」が、理屈よりも先に体を動かしていた。気がつけば、真二は着ていた上質なジャケットを脱ぎ、迷うことなくその泥まみれの毛玉を包み込んでいた。
エレノアは最初、ずぶ濡れの状態で子猫を抱えて現れた真二を見て絶句した。
「……佐野。それは、なんですか」
「見ての通り、猫だ。少し体を拭いて、ミルクを飲ませたら里親を探す。数日だけここで預かってくれないか」
冷徹な「氷の令嬢」であるエレノアが、不衛生な野良猫を嫌がることは予想できた。高級な調度品で統一されたこの無機質な部屋に、泥だらけの生き物はあまりにも不釣り合いだ。
しかし、エレノアはタオルに包まれた小さな茶トラを見ると、わずかに目を丸くし、そっと手を伸ばした。
「……こんなに小さいのに、生きているのですね」
彼女の透き通るような白い指先が、恐る恐る子猫の濡れた背中に触れる。その瞬間、彼女の表情から普段の張り詰めた緊張感がふっと抜け落ちていた。
現在。
ミルクの温度を人肌に調整し、真二はリビングのソファに戻った。
ソファの上では、エレノアが膝掛けの上に子猫を乗せ、恐る恐る指先でその小さな頭を撫でていた。
子猫は「ミュー、ミュー」と細く高い声で鳴きながら、よちよちと頼りない足取りでエレノアの指にすり寄っている。
「佐野、この子、すごく震えています」
「まだ体温調節がうまくできないんだ。これを」
真二はシリンジを子猫の口元に運んだ。子猫は匂いを感じ取ると、前足でシリンジにしがみつき、必死にミルクを吸い始めた。小さな喉がゴクゴクと鳴る。
手の中にすっぽりと収まるサイズの、不器用で必死な命の鼓動。
「……可愛い」
エレノアの口から、ポツリとそんな言葉が漏れた。普段の彼女からは想像もつかない、無防備で柔らかな声だった。
ブルーグレーの瞳が、慈しむように子猫を見つめている。彼女が本来持っている、愛情深く繊細な一面が垣間見えた瞬間だった。
「里親を探すと言いましたが、すぐに見つかるものなのですか?」
「いや、このサイズだと数時間おきの授乳が必要だ。俺が家に連れ帰るのが筋だが、今の俺のアパートはペット不可でね。……もし迷惑なら、明日なんとか別の場所を」
「……私が、面倒を見ます」
エレノアは子猫から視線を外さずに言った。
「仕事中は、少し工夫が必要ですが……特命室なら、奥のソファにケージを置いても誰にも見られません。大西や菊地なら、文句は言わないでしょう」
真二は少し驚いたようにエレノアを見た。
「いいのか。手がかかるぞ」
「契約の一環です」
エレノアはわざとらしく凛とした声を作った。
「あなたが拾ってきたトラブルは、私が権力でカバーする。そういう約束でしょう?」
理屈は無茶苦茶だったが、その手は優しく子猫の背中を撫で続けている。真二は小さく息を吐き、口角を上げた。
「なら、名前をつけないとな」
「名前……」
エレノアは少し考え込んだ後、真剣な顔で言った。
「アーサー。あるいは、ランスロットというのはどうでしょう」
「……円卓の騎士か。少し重すぎないか、このサイズの茶トラには」
「では、レオ。強いライオンのように育つように」
「レオ」
真二が呼ぶと、ミルクを飲み終えた子猫が「ミャオ」と短く鳴いた。
「決まりだな」
エレノアの冷たいマンションの部屋に、微かな温もりが灯った瞬間だった。
その時。
玄関のインターホンが、無機質な電子音を響かせた。
時刻は午後8時を回っている。エレノアに来客の予定はないはずだ。
エレノアが怪訝な顔で立ち上がろうとするのを手で制し、真二がモニターを確認する。
画面に映っていたのは、ブロンドヘアを無造作に束ねた、10代後半と思われる白人の少女だった。
太陽の光をたっぷり浴びたような健康的な美貌。少しだけ残るそばかすが、小悪魔的なあどけなさを強調している。彼女はカメラに向かって、満面の笑みで手を振っていた。
「……誰だ?」
「嘘」
モニターを覗き込んだエレノアが、信じられないというように目を見開いた。
「クロエ……? なぜ、彼女が日本に」
「知り合いか」
「知り合いも何も……本国のスペンサー家と関わりの深い、巨大投資ファンドの創業一族の娘です。私の妹分のような存在ですが……まさか、アポもなしに日本に押し掛けてくるなんて」
エレノアがロックを解除すると、数分後、玄関のドアが勢いよく開いた。
「エレノアお姉様! サプライズ!」
フランス語と英語が混ざったような、弾むような声。
クロエ・ルルーシュは、ハイブランドのカジュアルなワンピースをひらりと翻し、躊躇なくリビングに足を踏み入れた。上質なフローラルの香水が、彼女の持つ圧倒的な華やかさと共に部屋の空気を一瞬で塗り替える。
「もう、連絡もなしに結婚しちゃうなんて水臭いじゃない! 私、いてもたってもいられなくて飛んできちゃったわ!」
クロエはエレノアに抱きつこうとして、ふと、ソファの傍らに立つ真二の存在に気づいた。
ヘーゼル色の大きな瞳が、真二を頭の先からつま先まで、値踏みするように素早く動く。
「……あなたが、お姉様の『旦那様』?」
「初めまして。佐野真二です」
真二は感情を読ませない静かな声で挨拶した。
クロエは真二の顔を見つめたまま、ゆっくりと距離を詰めてきた。
その瞳には、17歳という年齢に似合わない、鋭い観察眼が光っていた。大人たちの嘘や建前を軽々と見透かす、直感に優れた目だ。
クロエの視線が、エレノアの左手にある指輪に一瞬だけ留まる。
「ふーん……。ただの『偽物』にしては、随分と堂々としてるのね」
「クロエ!」
エレノアが鋭い声で窘めた。
「言葉を慎みなさい。彼は私の重要なパートナーです。それに、ここには神宮寺グループの目もある。不用意な発言は控えて」
「わかってるわよ、お姉様。でも、面白そうじゃない」
クロエは無邪気に笑い、真二の顔を至近距離から覗き込んだ。
「ねえ、佐野真二。あなた、ただのサラリーマンじゃないわよね。その目、知ってるわ。欲しいものを手に入れるためなら、どんな手でも使う人間の目」
クロエの小悪魔的な微笑みに、真二は微塵も動揺を見せなかった。
「買い被りですね。俺はしがない営業部員に過ぎませんよ」
「嘘ばっかり」
クロエがさらに一歩踏み込もうとしたその時。
「ミィ」
ソファの上に置かれた毛布の隙間から、レオが小さな顔を覗かせた。
クロエの動きがピタリと止まる。
「……え? なにこれ、子猫!?」
クロエの目が輝き、先ほどまでの大人びた雰囲気は一瞬で吹き飛んだ。
「キャー! 可愛い! なにこのちっちゃい子!」
クロエは真二を放置してソファに飛び込み、レオをそっと両手で持ち上げた。レオは驚いたように短い手足をバタバタさせたが、クロエの指の腹で顎の下を撫でられると、すぐに目を細めてゴロゴロと喉を鳴らし始めた。
「お姉様、この子どうしたの!? お姉様、動物苦手だったじゃない!」
「佐野が、拾ってきたのよ。一時的に保護しているだけです」
エレノアが少しバツが悪そうに視線を逸らす。
「ふーん」
クロエはレオを胸に抱きながら、真二に意味深な視線を向けた。
「冷たい目をしてるのに、雨の日に子猫を拾っちゃうんだ。……ますます面白くなってきたわ」
クロエはソファに座り込み、レオの小さな肉球を指でつついた。
「私、決めた。しばらく日本に滞在するわ」
「……は?」
エレノアが信じられないという顔をした。
「学校はどうするのですか。ご両親は」
「休学手続きは済ませたし、パパのカードも持ってきたから無問題よ。インターナショナルスクールの見学って名目で来てるから」
クロエはレオを膝の上で遊ばせながら、真二を見た。
「ねえ、真二。あなた、この会社で何か『面白いこと』を企んでるんでしょ?」
真二の目が、わずかに細められた。
「……何のことでしょうか」
「隠しても無駄よ。私、こういう匂いには敏感なの。お姉様がわざわざ日本のサラリーマンと『契約結婚』なんて面倒なことをする理由。そして、あなたがそれに乗った理由。……誰かを、地獄に落とそうとしてるんでしょ?」
クロエの直感力は、真二の想像を超えていた。
彼女は、創業一族という特殊な環境で育ち、大人たちの権力闘争と欲望を幼い頃から見せられてきたのだろう。
真二はエレノアを一瞥した。エレノアもまた、クロエの鋭さに舌を巻いているようだった。
「……もしそうだとして、あなたに何の関係があるんですか」
真二は低く静かな声で問い返した。
「関係ないわよ」
クロエはあっけらかんと笑った。
「でも、退屈なの。私、刺激的なことが大好きなのよ。ねえ、私にも一口乗らせて。パパのコネクションも、資金も、何でも使えるわよ」
クロエ・ルルーシュ。
エレノアを慕い、海外の強力なバックボーンを持つ、完全なるイレギュラー。
本来なら、復讐劇に無関係な人間を巻き込むべきではない。しかし、彼女の持つ天真爛漫さと、相手の懐に一切の警戒心を抱かせずに飛び込む能力は、盤面をかき乱す強力なジョーカーになり得る。
特に、虚栄心の塊である翔太や麻衣に対しては、彼女のような「本物の権力と美貌」を持つ存在は、強烈な毒として作用するだろう。
真二の脳内で、新たな戦略のピースがカチリと音を立ててはまった。
「……クロエ、と言いましたね」
真二はソファの対面に腰を下ろし、真っ直ぐに彼女の瞳を見据えた。
「面白半分で首を突っ込むには、少しばかり泥臭い舞台になりますよ。それでも構わないと?」
「泥遊びくらい、ドレスを汚しても平気よ。パパに新しいのを買わせるから」
クロエはレオの背中を撫でながら、挑戦的に微笑み返した。
「いいでしょう。ただし、ルールは俺が決めます」
「佐野! 正気ですか」
エレノアが止めに入ろうとしたが、真二は手でそれを制した。
「彼女の家柄と、神宮寺グループの海外戦略を考えれば、翔太のような野心家は必ず彼女に食いつきます。彼の野心と虚栄心を限界まで煽り、完全に逃げ場をなくすために、彼女の『無邪気さ』は使える」
真二の冷徹な言葉に、クロエは満足げに目を細めた。
「交渉成立ね。よろしく、真二。私のことはクロエって呼んでいいわよ」
「わかりました、クロエ」
嵐のように現れた闖入者は、あっという間に特等席を確保してしまった。
クロエは膝の上のレオを見下ろした。
「ねえ、この子の名前は?」
「レオだ。さっき決まった」
「レオ……。いいじゃない。強そう」
クロエはレオの鼻先を指でツンとつついた。レオは「ミャッ」と鳴いて、クロエの指に噛み付くふりをした。
「明日から、私も『特命室』に遊びに行っていい? レオの面倒も見たいし、真二の部下たちにも会ってみたいわ」
「会社は遊び場ではありませんよ、クロエ」
エレノアが頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。
「大丈夫よ、お姉様。見学の留学生ってことで潜り込むから」
真二は、無邪気にレオをあやすクロエと、それに頭を抱えるエレノアの姿を静かに観察していた。
社内における「表」の盤面は、明日香の冷徹な実務とエレノアの権力によって完全に制圧しつつある。そして今、翔太の驕りをさらに肥大化させるための強力なイレギュラーが、向こうからこの陣営に飛び込んできた。
だが、これだけでは足りない。
翔太を社会的に抹殺し、二度と這い上がれない地獄へと突き落とすためには、彼の不正を決定づける「裏」の証拠が必要だ。彼が社外で結んでいる怪しげな繋がりや、隠し口座の存在。それらを暴き出すには、表のルールに縛られない非合法の領域に踏み込める専門家が不可欠となる。
すでに潤沢な資金は手元にある。真二は、以前から目星をつけていた海外の裏社会に通じる情報ブローカーへの接触を、今夜にでも開始するつもりだった。
「レオ、ミルクの時間はあと何時間後?」
クロエの無邪気な声がリビングに響く。
真二は窓の外の煌びやかな夜景に視線を向け、氷のような微笑みを微かに深めた。




