第12話 裏社会からの招待状
特命担当室の分厚い防音扉が、外部の喧騒を完全に遮断している。室内に響くのは、空調の低い唸り声と、大西明日香が叩き出す精緻なタイピング音だけだ。
「室長。佐々木主任の直近1ヶ月の経費精算データと、社用スマートフォンのGPSログの照合が完了しました」
明日香は3台のモニターから一切目を離すことなく、機械のように正確で抑揚のない声で報告した。
「ご苦労。不一致はどれくらいある?」
真二は革張りのソファに深く腰を沈め、ブラックコーヒーを一口飲んでから問うた。
「明確な虚偽申請が4件。特に注目すべきは、先週水曜の夜です。稟議書上は『アルカディア』の営業担当者との会食となっていますが、GPSログの最終位置は赤坂の高級料亭付近。さらに、その日の深夜に決済されたタクシーの降車履歴は、港区の高級タワーマンション群を示しています」
明日香の指がキーボードを滑り、該当のデータが真二の手元のタブレットに瞬時に転送される。画面には、佐々木の移動経路と経費申請のタイムラインが克明に表示されていた。
「アルカディアの担当者は、その日終日大阪に出張していました。つまり、佐々木主任は社外の別の人間と密会し、それをアルカディアとの接待だと偽って経費で落としている。さらに、深夜にタクシーで向かったタワーマンションは、佐々木主任の自宅でも、結城麻衣の自宅でもありません」
「別の女か、あるいは……裏の繋がりの相手か」
真二はタブレットの画面を静かにスクロールさせた。
佐々木が、己の見栄のために会社の経費を私的流用していることなど、前世の記憶から分かりきっていたことだ。彼が少しばかりの権力と交際費の枠を手にした途端、調子に乗って羽目を外すのは目に見えていた。前世の彼は、このような細かな不正を積み重ねた末に、プロジェクトの資金繰りに行き詰まった際、大規模な横領にまで手を染めた。
だが、今の段階で問題となるのは彼が「誰と繋がっているか」だ。武藤常務の派閥のさらに奥、彼らに便宜を図る外部のブローカーや、キックバックを流し込むための隠し口座。それを特定しなければ、ただの社内規定違反による軽い懲戒処分で終わってしまう。彼を完全に社会的に抹殺し、二度と立ち上がれない地獄へと突き落とすためには、言い逃れのできない金銭的な繋がりと、裏帳簿の存在を暴き出す必要がある。
「社内のサーバーや端末から引き出せる情報はここまでです。佐々木主任は社用端末での私的なやり取りを極力避けている形跡があります。これ以上、個人の通信履歴や個人の口座情報を探るとなると、警察の令状か、あるいは……」
明日香はそこで言葉を区切り、キーボードから手を離して真二を見た。涼しげな切れ長の目が、真二の真意を測るように真っ直ぐに向けられている。
「非合法な領域に踏み込むしかない」
真二が言葉を引き継ぐと、明日香は無言で頷いた。
「ええ。ですが、私のスキルではそこまでの痕跡を完全に消し去ることは保証できません。神宮寺グループの強固なセキュリティ監視網に引っかかるリスクが高すぎます。私が動けば、エレノア役員にも累が及ぶ可能性があります」
「分かっている。お前は社内の実務とフェイルセーフの構築に専念しろ。表の網を張るのがお前の仕事だ」
真二はタブレットをテーブルに置き、ゆっくりと立ち上がった。
「その先の泥水に手を突っ込む専門家には、今夜会う手筈になっている」
真二の言葉に、明日香の切れ長な目がわずかに細められた。彼女はそれ以上何も問わず、ただ「承知いたしました」とだけ短く答え、再びモニターへと向き直った。そのプロフェッショナルな態度は、真二にとって非常に心地の良いものだった。
そこへ、給湯室から菊地凛がトレイを持って小走りで現れた。
「あっ、佐野室長、大西さん! 差し入れです。下のコンビニで、新しい味のチロルチョコ見つけちゃいました。きなこもち味と、期間限定のピスタチオです。頭を使う時は糖分が必要ですよね」
凛の底抜けに純粋な笑顔と、テーブルに置かれた色とりどりの小さなチョコレート。先ほどまでの、人を陥れるための罠を構築していた冷たく殺伐とした空気が、彼女の存在だけで一瞬にして中和される。彼女は、この薄暗い復讐の計画の全貌を知らない。ただ純粋に、自分を必要としてくれた真二と明日香のために、健気に立ち回っているだけだ。その無垢さは、時として真二の胸の奥に鈍い痛みを引き起こすが、同時に、彼が完全に人間性を失うことを防ぐための細い命綱のようでもあった。
「……いただきます」
明日香は少しだけ肩の力を抜き、ピスタチオ味のチョコレートを一つ手に取った。包み紙を開いて口に入れると、彼女の無表情な顔が、ほんの一瞬だけ微かに緩んだ。
「美味しいです、菊地さん」
「本当ですか? よかった!」
明日香の不器用な反応に、凛がぱぁっと顔を輝かせる。真二はその様子を静かに見つめ、小さく息を吐いた。
表の盤面は、この特命室で完全にコントロールできる。だが、佐々木たちを逃げ場のない完全な地獄へと突き落とすための最後のピースは、この温かい部屋の外、暗く淀んだ裏社会の底にある。
★★★★★★★★★★★
深夜23時。
東京の外れ。私鉄沿線の高架下にある、赤提灯のぶら下がった古びたラーメン屋。
終電も近くなり、周囲の人通りはまばらだ。時折、頭上を通過する電車の轟音が、古ぼけた建物をびりびりと震わせている。
ガラリと引き戸を開けると、豚骨と魚介の混ざった独特の匂いが鼻を突いた。油で変色した壁と、丸椅子が並ぶだけの狭いカウンター席。使い込まれた厨房では、大きな寸胴鍋が白い湯気を上げている。
客は一人しかいなかった。
一番奥の席。その人物は、このくたびれた空間にはあまりにも不釣り合いな空気を放っていた。
大胆なベリーショート――ピクシーカットに整えられたダークブロンドの髪。浅黒く滑らかな肌と、長い手足。上質な黒のレザージャケットを羽織ったその後ろ姿からは、まるで休息中の豹のような、しなやかで危険な気配が漂っている。
ルシア・カルヴァーリョ。
裏社会に通じ、企業の暗部や政治家のスキャンダルを幾度も金に変えてきた凄腕の情報ブローカー。
真二は無言で歩み寄り、彼女の隣の丸椅子を引き出して腰を下ろした。
ルシアは横目で真二を一瞥しただけで、すぐに向き直った。彼女の目の前には、黄金色に透き通ったスープの「味玉塩ラーメン」が湯気を立てている。
彼女は割り箸を完璧な所作で割り、細麺を美しくすすり上げた。
「……悪くないわね。こんなガード下の油臭い店で、まともな塩と半熟の味玉が出るとは思わなかったわ」
低く、かすれたようなハスキーな声。流暢な日本語だが、どこか気怠げなラテンのリズムを含んでいる。
「ここは醤油より塩が正解だ。大将、こっちも同じものを」
真二はカウンターの奥にいる初老の店主に短く声をかけた。
「意外ね」
ルシアはレンゲでスープを飲み、唇をナプキンで拭いながら言った。
「神宮寺グループのエリートサラリーマンが、こんな店を指定してくるなんて。もっと小洒落たシガーバーか、ホテルのラウンジでお高くとまっているのかと思ったわ」
「目立つ場所は避けたかった。それに、ここの塩ラーメンは本当に美味い。残業明けによく通っていた時期があってね」
「残業明け、ね」
ルシアは意味ありげに笑い、肘をついて真二の横顔を見つめた。
「連絡をもらった時は何の冗談かと思ったわ。ダークウェブの暗号化掲示板を経由して、私に直接コンタクトを取ってくる『サラリーマン』なんて初めてよ。神宮寺の末端の営業マンが、どうやって私のアクセスキーを手に入れたの?」
「ブラジルのサンパウロで、現地の大手ゼネコンの裏帳簿が流出した事件。あの時、サーバーのファイヤーウォールを突破した手口と同じアルゴリズムが、3年前に日本の某通信会社のインフラ攻撃にも使われていた。その痕跡を辿っただけだ」
真二は淡々と答えた。前世で、神宮寺グループがブラジルの企業と提携する際、彼が膨大なリスク調査の中で偶然見つけ、そして記憶の底に刻み込まれていた情報だった。
ルシアの気怠げだった瞳の奥に、一瞬だけ鋭い刃のような光が走った。
「……随分と物騒な調べ物をしているのね。あなたの会社のセキュリティ部門でも、そこまでは辿り着けないはずだけど。それに、私の足跡は完全に消してあったはずよ」
「俺が個人的に調べたことだ。それに、完璧なハッキングほど、その美しさに書き手の癖が残る。コードの最適化の癖を見れば、同一人物の仕事だと確信できた」
どんぶりが真二の前に置かれる。真二は割り箸を手に取り、一切の躊躇なく麺をすすった。前世で数え切れないほど食べた、疲労した身体に染み渡る塩分と旨味。だが今の真二は、ただ栄養を摂取する機械のように、感情を交えずにそれを胃に流し込んでいく。
「で? 私に何をさせたいの」
ルシアはレザージャケットのポケットから細身のシガーを取り出そうとしたが、壁に貼られた「店内禁煙」の札を見て、小さく肩をすくめて手を止めた。
「人探し? それとも、ライバル企業のサーバーを燃やしてほしいのかしら。あなたの見立て通り、私なら大抵のことはできるわよ」
「特定個人の完全なプロファイリングと、隠し資産の特定だ」
真二はどんぶりから顔を上げず、箸を動かしたまま告げた。
「ターゲットは、うちの会社の営業主任、佐々木翔太。彼が社用端末以外で使用している全てのデバイスの通信履歴、プライベートの交友関係、そして、下請け企業から受け取っているであろうキックバックの口座を洗い出してほしい」
ルシアは小さく吹き出した。
「一介の営業主任? 役員クラスならともかく、そんな小物の身辺調査なんて、その辺の三流探偵にでも頼めばいいじゃない。私の単価、知っててコンタクトを取ってきたんでしょう? こんな地味な仕事で、私のスキルを無駄遣いする気?」
「ただの浮気調査じゃない。彼を完全に、社会的に抹殺するための『確証』がいる。彼は今、武藤常務という役員の庇護下にある。生半可な証拠では、上層部の力で揉み消されるか、末端のトカゲの尻尾切りとして処理されて終わる。言い逃れが一切できない、武藤常務にも延焼するような金の流れを示す裏帳簿が必要だ」
「なるほどね」
ルシアは顎に手を当て、楽しそうに目を細めた。
「社内の派閥争いか。でも、それにしてはあなたの熱量が異質ね。その男、佐々木翔太に親でも殺されたの?」
「俺から、全てを搾取した」
真二は箸を置き、初めてルシアの瞳を真っ直ぐに見据えた。
その瞬間、ルシアの背筋を微かな悪寒が駆け抜けた。
目の前に座る男の瞳は、激しい怒りでも、狂気でもなかった。ただ、絶対零度の静寂があるだけだ。一切の感情を削ぎ落とし、ただ相手を確実に破滅させることだけを目的に組み上げられた、恐ろしく澄み切った虚無。
ルシアは裏社会で数多の殺し屋や犯罪者を見てきたが、ここまで「人間らしさ」を捨て去り、冷徹に自己をコントロールしている人間を見たことがなかった。
(……この男、表の世界で生きるには少し暗すぎるわね)
ルシアは口角を上げ、妖艶に微笑んだ。
「いいわ。退屈しのぎにはなりそうね。佐々木翔太の裏の顔、一滴残らず絞り出してあげる。……でも、報酬は高いわよ。私は義理と金以外では動かない」
真二は懐からスマートフォンを取り出し、画面をルシアに向けた。
表示されているのは、海外の暗号資産取引所のオフショアウォレットの残高画面だった。
ルシアは画面を一瞥し、軽く口笛を吹いた。
「あら、意外と溜め込んでるじゃない。これなら、着手金としては十分すぎるわ。サラリーマンの給料でどうやって作ったのかは聞かないでおくけど」
「必要なら追加も用意できる。期間は1週間。まずは彼が今進めている『アルカディア』というアパレルブランドの裏交渉の痕跡を追え」
「1週間? 舐めないで。そんな小物のガードなんて、3日あれば丸裸にしてあげるわ」
ルシアはグラスの水を一気に飲み干し、立ち上がった。
レザージャケットが擦れる音が、深夜の静かなラーメン屋に響く。
「佐野真二、だったわね」
ルシアは真二を見下ろし、細い指先で彼の肩を軽く叩いた。
「契約成立よ。ルシア・カルヴァーリョ。よろしく、共犯者さん」
「期待している」
真二が短く答えると、ルシアはふわりとヒールの音を響かせて店を出て行った。
引き戸が閉まり、再び店内には換気扇の回る音と、頭上を過ぎる電車の音だけが残された。
真二は残ったラーメンのスープを飲み干し、どんぶりをカウンターの上に上げた。
「ごちそうさま。釣りはいい」
カウンターに紙幣を置き、真二も店を出る。
初夏の夜風が生ぬるく頬を撫でた。
真二は暗い夜道を歩きながら、次の手札へと向けて思考を切り替えた。
「さて……次は、麻衣だな」




