第13話 肉食獣の微笑み
午後8時。エレノア・スペンサーの住むタワーマンションの重厚なドアを開けると、微かに、しかし確かな出汁の香りが漂っていた。
「おかえりなさい」
リビングの奥、大理石のアイランドキッチンから落ち着いた声がした。佐野真二はシャツの袖をまくり上げ、手際よく小鉢をテーブルに並べているところだった。広々としたソファの上では、数日前に拾われた子猫のレオが、ブランケットに包まれて気持ちよさそうに丸くなって眠っている。
エレノアはヒールを脱ぎ、張り詰めていた肩の力をわずかに抜いた。外にまとわりつくような日本の猛暑と、冷房の効きすぎたオフィスでの終わりのない腹の探り合い。古参役員たちからのねっとりとした敵意を受け流し続ける毎日は、彼女の心身を確実に削っていた。そんな疲労しきった身体に、玄関まで迎えに出てきたその温かな香りは、思いのほか心地よく響いた。
「驚きました。あなたがキッチンに立っているとは」
「外食が続いていると聞いたからな。冷蔵庫の余り物と、俺の持ち込みで作らせてもらった」
エレノアがダイニングテーブルに近づくと、そこには普段彼女が口にしないような、純和風の渋い献立が整然と並んでいた。
「これは……」
「冷や奴と、大根おろしとイクラ。それから、味付け海苔だ。左の小鉢は、ひじきとレンコンの煮物。少し多めに作ったから明日も食べられる」
真二は淡々と説明しながら、最後に湯気を立てる漆塗りの椀を二つ、テーブルに置いた。彩りは地味だが、それぞれの小鉢が放つ繊細な香りが、食欲をひどく刺激してくる。
「大使館に勤める友人から、石川県産の蟹の卵の沖漬けをいただいたのですが……どう食べていいか分からず、冷蔵庫の奥に放置していました」
エレノアは、小皿に美しく盛り付けられた濃厚なオレンジ色の珍味を見つめて言った。
「そのまま酒のつまみにしてもいいが、少し塩気が強い。冷や奴に乗せるか、大根おろしと合わせるとちょうどいいはずだ」
促されるままに席に着き、エレノアは箸を取った。言われた通りに、大根おろしと共に蟹の卵の沖漬けを口に運ぶ。ねっとりとした内子の濃厚な旨味と磯の香りが、大根の瑞々しい辛味によって見事に調和し、口の中に広がった。
「……美味しい」
彼女のブルーグレーの瞳が、微かに見開かれる。
「このお椀は?」
「中身汁だ。沖縄の知り合いから良質な豚のモツを送ってもらった。下処理は徹底的にやってあるから臭みはない。鰹出汁とすりおろした生姜で澄ませてある。冷房で冷え切って、疲れた胃には効くはずだ」
エレノアが椀に口をつけると、透き通ったスープから深いコクと鰹の豊かな香りが広がり、生姜の風味が身体の芯をじんわりと温めていった。丁寧に処理されたモツは驚くほど柔らかく、噛むほどに旨味が滲み出す。レンコンの小気味良い歯ごたえと、ひじきの素朴な甘みも、荒れていた胃袋に優しく収まっていった。
「……あなたは、本当に不思議な人ですね」
エレノアは椀を両手で包み込みながら、対面に座る真二を静かに見つめた。
社内での彼は、人の感情を排したような冷徹な知略で敵を追い詰める機械のようだ。しかし、こうして私的な空間で見せる顔には、地に足のついた確かな「生活」の匂いがあった。この無機質で冷たかったマンションの部屋が、彼がキッチンに立ち、食卓を整えるだけで、奇妙なほど安らぐ空間へと変貌している。
「ただの自炊の延長ですよ。昔、金がなくて外食なんて到底できなかった時期に覚えただけの手すさびだ」
真二は冷や奴に箸を伸ばし、短く答えた。その横顔には、かつての過酷な日々で培われた、生き抜くための泥臭い力が刻まれている。エレノアはそれ以上何も聞かず、ただ静かに、味付け海苔のパリッとした食感を味わい続けた。
★★★★★★★★★★★
翌日の昼下がり。
真二は都内のホテルで別件の打ち合わせを終え、初夏の強い日差しが照りつける丸の内の通りを駅に向かって歩いていた。アスファルトからの照り返しが、スーツ越しの肌をじりじりと焦がす。
翔太の足元を崩すための社内のトラップは明日香が完璧に管理し、社外の裏の繋がりはルシアが洗い出している。盤面は静かに、しかし確実に真二の思い描く死地へと翔太を誘導していた。
その時だった。
「佐野真二さん、ね」
不意に、横から流暢な日本語で声をかけられた。
立ち止まって視線を向けると、そこには周囲の空気を一変させるような圧倒的な存在感を放つ女が立っていた。
艶やかで健康的なブロンズ肌。シルクのように滑らかで豊かなダークブラウンの髪。意思の強さを感じさせる切れ長のアーモンドアイが、真二を真っ直ぐに射抜いている。ハイブランドのタイトな白いスーツを完璧に着こなし、そのしなやかなプロポーションは、まるで獲物を狙う美しい肉食獣のようだった。
「初めまして。少し、時間をいただけるかしら」
女は親しげに、しかし有無を言わせない響きで微笑んだ。すれ違う通行人の多くが、彼女の放つグラマラスな色気とオーラに思わず振り返っている。
「……どちら様でしょうか」
真二は表情を一切変えず、一定の距離を保ったまま問い返した。
「立ち話もなんだから、そこのラウンジでどう?」
彼女は真二の問いには直接答えず、顎で背後にある外資系高級ホテルのエントランスを示した。真二は数秒間彼女の瞳の奥を探り、それが単なるナンパや道案内ではないことを確信すると、無言で歩き出した。
ホテルのラウンジは天井が高く、ピアノの静かな生演奏が流れていた。隣の席との間隔が広く取られた奥の静かなソファ席に腰を下ろすと、女は足を組み、ゆったりと背もたれに体重を預けた。
「セレナ・デイヴィス。ウォール街の投資ファンドでエージェントをしているわ」
ギャルソンが置いたペリエのグラスを指先でなぞりながら、彼女は名乗った。
「投資ファンドのエージェントが、神宮寺グループの一介の営業部員に何の用ですか」
「一介の営業部員、ね」
セレナは喉の奥でくすりと笑った。
「数日前、海外の暗号資産取引所で、特定の銘柄をピンポイントで底値で拾い、ピークで売り抜けて数千万の利益を出した口座があったわ。その資金はすぐにオフショアのウォレットに移動した。見事な手際だったけど、ファンドの情報網を甘く見ないことね」
真二の目が、微かに細められた。ルシアを雇うために作った資金。その流れを捕捉されていたとは。
「それに、神宮寺グループが今進めているD地区のプロジェクト。アルカディアとの契約に絡んで、法務部を迂回する奇妙な承認ルートが立ち上がっている。外から見ればバラ色の計画だけど、少し洗えば、特定の個人にすべての責任が降りかかるように仕組まれた完璧な時限爆弾だとわかる」
セレナは身を乗り出し、テーブル越しに真二の顔を至近距離で覗き込んだ。
「佐々木翔太なんていう底の浅い男の下で、あなたがずっと燻っていたのが不思議だった。でも、やっと腑に落ちたわ。あなたは今、彼の虚栄心を限界まで膨らませてから、すべてを奪い取ろうとしているのね」
すべてを見透かしたような彼女の言葉に、真二は動じなかった。冷たいコーヒーを一口飲み、静かにグラスを置く。
「……それで? 告発でもするつもりですか」
「まさか」
セレナは楽しそうに目を細めた。
「私のターゲットは、神宮寺グループそのものの買収と解体よ。あんな図体ばかり大きくて意思決定の遅い日本の老舗企業、外資の資本で切り刻んで再編すれば、莫大な利益を生む。でも、そのためには内部から組織を瓦解させるキーマンが必要なの」
彼女の切れ長の瞳が、真二を値踏みするように舐め回した。
「あなたのその冷徹な手口、すごく魅力的だわ。ちっぽけな復讐なんてさっさと終わらせて、私と一緒に世界を獲りに行きましょう?」
それは、圧倒的な資本力を背景にした、傲慢で挑発的な勧誘だった。
しかし真二は、彼女の言葉に一切の熱を見せず、ただ一切の感情を排した冷徹な視線を返し続けた。
「断る」
短い一言。セレナの眉がわずかに動いた。
「俺の盤面に、外部の人間を介入させる気はない。神宮寺の買収を企むのは勝手だが、俺の『掃除』の邪魔をするなら、あなたのファンドが狙っている他の案件の情報を、競合に流すことになる」
真二の低い声には、ハッタリではない確かな重量があった。前世の記憶から、彼女のファンドが今水面下で進めている別の大型買収案件を、真二はすでに把握している。
数秒の沈黙。
やがて、セレナの口角がゆっくりと上がり、艶やかな笑みがこぼれた。
「……いい目をしてるわ。本気で私を脅す気ね」
彼女は真二の冷徹な知略と、その奥底に潜む大人の雄としての暴力的な色気に、強烈な興奮を覚えていた。
セレナはバッグから一枚のマットな質感の黒い名刺を取り出し、テーブルの上を滑らせて真二の前に置いた。
「いいわ。あなたの『お掃除』は邪魔しないであげる。でも、あの底の浅い男が頼みにしている外部の取引先や逃げ道を、完全に塞ぐ必要が出てくるかもしれないわね」
セレナは立ち上がり、真二の耳元に顔を近づけた。彼女の纏う、スパイシーで甘い高級な香水がふわりと香る。
「気が向いたら、いつでもこの名刺を使いなさい。ウォール街の資本力がどれだけ圧倒的なのか、教えてあげるから」
含みを持たせた挑発的な言葉を残し、セレナはピンヒールの音を響かせてラウンジを去っていった。
真二は残された名刺を無造作にポケットに突っ込み、グラスの中で溶けかかった氷を見つめた。
圧倒的な資金力を持つ外資のエージェント。彼女の登場は予定外だったが、利用価値は十分すぎるほどある。




