第14話 共犯者の夜
週末の午後。
初夏の強い日差しが降り注ぐ銀座の並木通りは、世界中から集まった富裕層や週末の買い物を楽しむ人々で華やいでいた。綺麗に手入れされた街路樹の鮮やかな緑が陽光を弾き、ショーウィンドウに反射している。通りを歩く人々の表情は一様に明るく、満ち足りた週末特有の空気を漂わせていた。
佐野真二は、有名ハイブランドのブティックの最奥に設けられたVIPルームで、静かに冷たいペリエのグラスを傾けていた。重厚なベルベットのソファに深く身を沈め、クリスタルガラスのローテーブルに置かれた色とりどりのマカロンには目もくれず、目の前で次々とドレスを着替える少女に視線を送っている。
「どう、真二? このピスタチオグリーンのシルク。私には少し大人っぽすぎるかしら」
クロエ・ルルーシュが、試着室の重いカーテンを開けてふわりとターンをした。美しいドレープが彼女のしなやかな体のラインに沿って流れ、太陽の光をたっぷり浴びたようなブロンドヘアと鮮やかなコントラストを描いている。17歳という年齢特有のあどけなさと、生まれ持った洗練された色香が同居する彼女の姿に、専属で付いている数人のスタッフたちが感嘆の溜息を漏らした。
「悪くない。だが、君の健康的な肌のトーンなら、先ほど着ていたアプリコットのホルターネックの方が映える。そのグリーンは少し顔色を沈ませるし、今季のこのブランドの『海辺のバカンス』というコンセプトからはわずかにズレている」
真二が一切の淀みなく、淡々と、しかし的確な批評を返すと、クロエのヘーゼル色の瞳が驚きに丸くなった。
「……あなた、本当にただのサラリーマン?」
クロエは大きな三面鏡の前で自分の姿を様々な角度から確認し、感心したように真二に向き直った。
「パパの取り巻きの男たちや、私をエスコートしたがる御曹司たちは、私が何を着てもただ『素晴らしい』『お似合いです』って馬鹿みたいに繰り返すだけよ。私が試着室から出るたびに、まるで機械みたいに同じ言葉を吐くの。日本のサラリーマンが、どうしてそんなにハイブランドの知識と女性のドレスの見立てに詳しいの?」
「昔、少しばかり苦労した時期があってね」
真二は表情を変えずにグラスを置いた。
前世で、麻衣の際限のない虚栄心を満たすため、休日のたびにこうして表参道や銀座のブティックに付き合わされていた。彼女が「どっちがいいと思う?」と聞いた時、適当な返事をすれば激怒され、的外れな意見を言えば「センスがない」「私のことを全然見ていない」と数日間無視された。自分の給料が底をつきかけていることにも気づかず、彼女は次々と新作のバッグやドレスを欲しがった。そして、少しでも気に入らないことがあれば、ヒステリックに真二を責め立てた。
その泥沼のような日々を生き抜くため、真二は睡眠時間を削ってファッション誌を読み漁り、ハイブランドのトレンドやカラーコーディネートの知識を頭に叩き込んだのだ。各ブランドのシーズンごとのコンセプトや、肌のトーンに合わせた色彩理論まで、まるで難解な業務資料を暗記するように自分に詰め込んでいた。
かつて自分の心をすり減らしただけの無駄な努力が、今こうして本物のセレブリティの令嬢をエスコートし、彼女の信頼を得るためのスキルとして機能しているのは、ひどく皮肉なことだった。
「ふーん。やっぱりお姉様が選んだだけあって、ただの『偽物』じゃないわね」
クロエは楽しそうに微笑み、スタッフにアプリコットのドレスを包むように指示を出した。
買い物を終え、幾つもの重厚な紙袋を提げた真二とクロエがブティックを出ると、初夏の風がクロエのブロンドヘアを揺らし、甘いフローラルの香水がふわりと漂った。真二はクロエが歩きやすいように自然に車道側を歩き、すれ違う人波をさりげなく避けるようにリードしている。ショーウィンドウのガラス越しに映る2人の姿は、傍目には不釣り合いなほど洗練されたカップルのように見えただろう。すれ違う人々が、クロエの華やかな美貌と、真二の隙のないスーツ姿を何度も振り返っていた。
「ねえ、真二」
クロエが真二の腕に軽く触れた。
「あなたが仕掛けようとしている『舞台』のことだけど。私、あの女……結城麻衣に会ってみたいわ」
無邪気な提案に、真二は歩みを緩めることなく視線を向けた。
「なぜだ」
「あなたがそこまで念入りに地獄に落とそうとしてる女が、どんな顔をしてるのか見てみたいの。それに、私なら彼女の『一番痛いところ』を突いてあげられるかもしれないでしょ?」
クロエの直感の鋭さを、真二はすでに理解している。彼女のような、生まれた時から本物の富と権力に囲まれて育った圧倒的な存在は、麻衣のように背伸びをして虚栄心を満たそうとしている人間にとって、最も目障りで、最も自尊心を破壊される劇薬になる。
「まだ早い」
真二は短く答えた。
「彼女には、もっと高いところまで登ってもらう。自分の足元が盤石だと信じ込み、一番華やかなドレスを着て笑っている瞬間に、君の圧倒的な『本物』をぶつけるんだ。中途半端な高さから落としても、骨折で済んでしまうからな」
その静かで冷酷な言葉に、クロエの足がピタリと止まった。
真二が振り返ると、クロエは少しだけ頬を紅潮させ、ヘーゼル色の瞳をキラキラと輝かせて真二を見つめていた。
「……最高にエキサイティングね。私、決めたわ。日本の滞在、もっと延ばす。真二が作るその舞台、私にも最前列で見せて」
「火の粉が飛んできても知らないぞ」
「火遊びは嫌いじゃないわ。ドレスが焦げたら、また真二に見立ててもらうし」
クロエは小悪魔的な笑みを浮かべ、再び歩き出した。彼女の足取りは、先ほどよりも明らかに弾んでいた。
彼女の天真爛漫な無邪気さは、これから始まる冷酷な復讐劇において、相手の防御を一切許さない強力なジョーカーとなる。真二は彼女の後ろ姿を見つめながら、自身の盤面がさらに強固なものになったことを確信していた。
★★★★★★★★★★★
その日の夜、22時。
真二がタクシーを降りたのは、新宿・歌舞伎町の喧騒から少し外れた、看板のない古い雑居ビルの前だった。ネオンの眩しい光も届かない裏路地には、湿った風とアルコールの饐えた匂い、そして生ゴミの臭いが微かに漂っている。喧騒から切り離されたその場所は、表の世界の倫理が通用しない境界線のようだった。
軋むエレベーターで最上階へ上がる。重い鉄扉を開けると、そこは紫煙の匂いが立ち込める、薄暗い会員制のプールバーだった。
客はまばらで、低いボリュームで古いブルースが流れている。
一番奥のビリヤード台で、鋭い快音と共に色鮮やかな球が次々とポケットに吸い込まれていく。
キューを構えていたのは、黒のレザージャケットを羽織ったルシア・カルヴァーリョだった。彼女のしなやかな体が台に身を乗り出し、ベリーショートのダークブロンドが薄暗い照明を反射している。
最後のエイトボールを鮮やかに沈めると、ルシアは顔を上げ、近づいてくる真二に気怠げな笑みを向けた。彼女の瞳は、退屈を嫌う肉食獣のように妖しく光っている。
「遅いわよ、共犯者さん」
「少し、お姫様の機嫌取りをしていてね」
「へえ、あの氷の役員様がそんなに手がかかるの?」
「別の、厄介なフランス人の小娘だ」
真二がカウンターの丸椅子に腰を下ろすと、ルシアもキューを置いて隣に座った。年配のバーテンダーが、何も言わずに真二の前に琥珀色の液体が入ったグラスと、ルシアの前にダークラムのロックを置く。
ルシアはレザージャケットの内ポケットから、細かい傷のついた黒い金属製のUSBメモリを取り出し、カウンターのコースターの上に無造作に放った。
「お待ちかねの泥水よ。佐々木翔太の裏の顔、絞り出せるだけ絞り出してやったわ」
真二はUSBメモリを手に取り、指の腹でその冷たい感触を確かめた。
「3日と言っていたが、本当に仕上げてくるとはな」
「舐めないで。あんな小物のセキュリティなんて、紙切れみたいなものよ。彼の個人用スマホのクラウド同期から、暗号化されたメッセンジャーのやり取りを引っこ抜いておいたわ」
ルシアはダークラムを一口飲み、面白そうに目を細めた。
「彼、ただの営業マンのくせにいっちょ前に『中抜き』の真似事をやってるわよ。不審な海外送金の痕跡と、ペーパーカンパニーらしきダミー法人とのやり取りの端緒だけは掴んだわ。完全な裏口座の特定と全容解明には、もう少し深く潜る必要があるけどね」
「それで十分だ」
真二はコニャックのグラスを傾けた。
「おそらく、武藤常務の派閥の裏金作りの末端を担わされているうちに、自分でも甘い汁を吸う方法を覚えたんだろう。大西が社内システムから抽出した不自然な発注記録と、お前が掴んだこの端緒。これらを突き合わせれば、パズルのピースの輪郭は見えてくる」
「でもね」
ルシアはカウンターに肘をつき、真二の顔を下から覗き込んだ。
「今の段階じゃ、あの武藤って常務の首までは取れないわよ。佐々木翔太が勝手にやったことだと切り捨てられて、末端のトカゲの尻尾切りで終わる。あなた、それで満足なの?」
「まさか」
真二の低い声に、一切の迷いはなかった。
「これはまだ、彼の足場をグラつかせるためのボディーブローに過ぎない。彼には、武藤常務すら庇いきれないほどの、より巨大な爆弾を自ら抱えさせる。そのための土台は、すでに大西に組ませてある」
「えげつないわね。自分が死ぬと分からずに踊らされるなんて、惨めなものだわ」
ルシアは喉の奥で笑い、タバコを1本取り出して火をつけた。紫煙がゆっくりと天井のファンに向かって吸い込まれていく。
「それに、もう一つ面白いおまけがあったわよ」
ルシアは煙を吐き出しながら言った。
「彼の怪しい出金履歴の中に、女性向けのハイブランドのオンライン購入や、高級ホテルの決済記録がいくつも混ざってる。宛先は……『結城麻衣』。あなたの、今の彼女よね?」
真二の表情は、ピクリとも動かなかった。麻衣に対する憎しみや怒りといった熱のある感情はとうに冷め切り、今はただ、底なしの欲望に溺れていく実験動物の滑稽な動きを観察するような、絶対的な冷徹さしか残っていない。
「ああ。彼女の虚栄心を満たすために、会社の経費や裏金にまで手をつけているというわけだ」
「随分と余裕ね。自分の女が、親友の金で着飾っているのを知っていて平気なの?」
「むしろ、都合がいい」
真二はグラスの氷をカラリと鳴らした。
「俺は今、わざと麻衣に身の丈に合わない贅沢をさせている。彼女の虚栄心と生活水準を極限まで膨張させてからすべてを奪えば、自尊心の崩壊に耐えきれず完全に自滅するからな」
ルシアはタバコを持つ手を止め、真二の暗い瞳の奥をじっと覗き込んだ。そして口角を上げ、妖艶に微笑んだ。
「私、色んなクズを見てきたけど。あなたみたいに、綺麗に澄んだ目をしたクズは初めてよ。……褒めてるのよ」
「光栄だな」
真二は薄く笑い、自身のグラスを持ち上げた。
「俺の盤面は、君の集めた泥水がなければ完成しない。引き継ぎ、全容解明を頼むぞ」
「高いわよ、私の泥水は」
ルシアは真二のグラスに自分のグラスを軽くぶつけた。
澄んだガラスの音が、ジャズの流れる薄暗いバーに静かに響く。
強いラム酒を喉に流し込むルシアの横顔を横目に、真二はUSBメモリをポケットの奥深くへと滑り込ませた。




