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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第8話 翔太の驕り、真二の罠

 分厚い防音扉に守られた特命担当室。


 外部の喧騒が一切届かないその静寂な空間に、大西明日香の精緻で淀みのないタイピング音だけが規則正しいリズムを刻んでいた。


「室長。武藤常務の決裁が下りました」


 奥のデスクでPCモニターを睨んでいた明日香が、画面から視線を外すことなく抑揚のない声で報告した。革張りのソファに深く腰を沈め、タブレット端末に目を通していた佐野真二は、ゆっくりと顔を上げる。


「藤井主任の、D地区プロジェクト専任リーダーへの昇格人事。武藤常務の特命という形で人事部に通達され、来月1日付での発令が正式に内定しました」


 真二はタブレットをテーブルに置き、満足げに短く息を吐いた。


「ご苦労。お前が組み上げた緻密な収支予測とリスクヘッジ条項が効いたな。武藤常務はあれを翔太自身の優れた成果だと信じ込み、自分の派閥の若手エースとして完全に神輿に乗せたわけだ」

「はい。法務部のチェックも想定通りに通過しました。アルカディアの撤退リスクに対する違約金条項の抜け穴も、フォーマットの偽装は検知されていません。発覚時の責任所在は、すべて発案者である専任リーダーに帰属します」


 明日香は一切の感情を交えず、淡々と事実だけを述べる。その冷徹な仕事ぶりは、真二の要求を過不足なく満たしていた。


「それが狙いだ。彼は今、自分の思い通りに事が進んでいると錯覚している。そこから先の進行は彼自身に任せておけばいい」


 そこへ、部屋の隅にある給湯室から菊地凛が数枚のファイルと湯呑みをトレイに乗せて戻ってきた。


「あの、佐野室長、大西さん。お茶が入りました。あと、経理部から回ってきた承認書類の整理とファイリング、終わりました」


 トレイをテーブルに置きながら、凛が控えめな声で報告する。


「早いな、菊地」

「いえ、前の部署の理不尽な押し付けに比べたら全然……。やるべきことがはっきりしていて、すごく働きやすいです。あ、そういえば」


 凛は少し思い出したように目を瞬かせた。


「さっき1階のロビーを通った時、藤井主任を見かけました。他の部署の社員さんたちを捕まえて、『俺もいよいよ幹部候補だ』って、すごく自慢げに大きな声で話してましたよ」


 真二の口角がわずかに上がる。


「順調に驕っているな」


 今日の午後、真二自身もエレベーターホールで翔太と出くわしていた。翔太は取り巻きの若手社員を何人も引き連れ、フロアを闊歩していた。真二の姿を認めるなり、彼はわざとらしく大きな声を上げた。


『おう、真二じゃないか。有給明け早々、よくわからない「特命室」なんて窓際部署に異動になったんだってな?』


 翔太の顔には、勝者の優越感と、かつて自分より優秀だった真二を下に見下せる歓喜が醜く張り付いていた。


『窓際ではないさ。新しい役員の直轄部署だ』と淡々と返す真二に、翔太は鼻で笑った。


『強がるなよ。まあ、俺の方は武藤常務の肝煎りで、来月から大型プロジェクトの専任リーダーだ。お前がちまちま作った基礎データを、俺が非の打ち所のない企画書に仕上げてやったおかげでな。これからは住む世界が変わる。お前も今のうちに、俺にすり寄っておいた方がいいんじゃないか?』


 取り巻きたちが一斉に卑屈な愛想笑いを浮かべる中、真二は一切の感情を動かさず、ただ深く澄んだ瞳で翔太を見つめ返した。


『……昇進おめでとう、翔太。お前の実力だ。期待しているよ』


 真二の低く静かすぎる声に、翔太は一瞬だけ背筋を冷たい手で撫でられたように言葉を詰まらせたが、すぐに不愉快そうに舌打ちをして去っていった。


 すべては、真二の描いた盤上の出来事だ。


 真二は壁掛け時計に視線を向けた。時刻は夜の8時を回ろうとしている。


「今日はここまでだ。PCを落とせ。大掃除の第1段階クリアと、この特命室の結成を祝って、今日は俺が奢る」


 真二の言葉に、凛が目を丸くしてオロオロと両手を振った。


「えっ、わ、私なんかがご一緒していいんですか!? その、私、今日あまりお役に立ててないですし……」


 明日香は淡々とショートカットキーを叩き、PCの電源を落とした。


「室長からの業務外命令です。従いましょう、菊地さん」


★★★★★★★★★★★


 六本木の交差点から少し外れた、看板のない重厚な木扉の店。


 オーセンティックなバーの薄暗い店内には、上質なジャズが静かに流れ、カウンターの奥には磨き上げられたボトルが琥珀色の光を反射して並んでいた。


 カウンターに腰を下ろした三人に対し、年配のバーテンダーが静かにメニューを差し出す。


 真二はメニューを開くことなく、低く落ち着いた声で告げた。


「俺はヘネシーを。それから、彼女たちにはモルトウイスキーをいくつか見繕ってやってくれ」


 バーテンダーは恭しく頷き、氷の音を響かせながら手際よくグラスを準備する。


 やがて真二の前に芳醇な香りを放つコニャックが注がれたグラスが置かれ、明日香と凛の前にもそれぞれ異なるモルトウイスキーが提供された。


 明日香はストレートで出された強い酒を躊躇なく口にし、全く表情を変えることなく涼しい顔で味わっている。


「大西、酒には強いのか」


 真二が問うと、明日香はグラスを置き、静かに答えた。


「業務に支障をきたさない程度には。前部署では、藤井主任の酒の席の付き合いを夜遅くまで強要されることもありましたから。酔いつぶれるわけにはいきませんでした」


 その言葉に、真二は目を細め、ヘネシーのグラスを揺らした。


 一方の凛は、グラスに口をつけ、ほんの少しだけ液体を舐めた途端に「うぅっ」と顔をしかめた。


「うわっ、大人の味ですね……喉がカッと熱いです」

「無理して飲む必要はない。甘いカクテルに変えるか?」

「いえ、せっかく佐野さんに連れてきていただいたので、少しずつ飲んでみます。私も、少しは大人にならないと」


 背伸びをしてグラスを両手で包み込む凛の姿に、真二の口角がわずかに緩む。


 グラスを傾けながら、明日香が真二に視線を向けた。


「室長。藤井主任はこれからどう動くと予測しますか」

「彼は必ず、自分の地位を誇示するために、身の丈に合わない大きな契約を独断で決めようとする。武藤常務という強力な後ろ盾を得たことで、面倒な法務チェックや上司への報告も『スピード重視』という名目で怠るようになるだろう。俺たちはそれを黙って見逃し、彼の暴走の痕跡を1つ残らず記録しておくだけでいい」


 真二はコニャックを一口含み、その深い余韻を味わった。


「彼は自分の手柄を急ぐあまり、必ず自ら致命的なミスを犯す。その軌跡を正確に辿れるようにしておくことが、お前の次のタスクになる」

「承知いたしました」


 明日香は静かに頷き、自身のグラスに視線を落とした。


★★★★★★★★★★★


 グラスが空になったところで、真二は立ち上がった。


「さて、酒だけでは腹が減るな。場所を変えよう」


 真二は二人を連れてタクシーを拾い、六本木から銀座へと移動した。


 華やかな表通りから一本裏に入った、古い雑居ビルの地下。そこは知る人ぞ知る、隠れ家的なシガー&ダイニングバーだった。


「ここは飯も美味いんだ。マスター、いつものピザと、酒はアードベッグを頼む」


 真二の注文に、カウンターの奥のマスターは静かに頷いた。


 やがて運ばれてきたグラスからは、強烈なピート香が立ち上る。


「うわあ……なんだか、正露丸みたいな匂いがします……」


 凛が目を白黒させてグラスを覗き込んだ。


「アイラモルト特有の香りだ。最初は驚くが、慣れるとこの強烈なスモーキーさが癖になる」


 真二はアードベッグを一口含み、その個性をゆっくりと楽しむ。明日香も平然とグラスを傾け、香りを確かめている。


 そこへ、大きな木製のプレートに乗せられたピザが運ばれてきた。


 薄焼きのクリスピーな生地に、たっぷりのモッツァレラチーズ。その上には、鮮やかなピンク色の生ハムが惜しげもなく敷き詰められている。熱でわずかに溶け出したチーズと、生ハムの塩気が絶妙な香りを漂わせていた。


「遠慮せずに食え」


 真二に促され、明日香が1切れ手に取り、小さく口に運ぶ。


 サクッとした生地の食感の後に、濃厚なチーズと生ハムの旨味が口いっぱいに広がる。


 その瞬間、明日香の氷のような無表情が唐突に崩れた。


 スッと切れ長だった目尻が下がり、口元がふにゃっと綻ぶ。頬には微かな赤みが差し、無防備で幸せそうな笑顔をこぼした。


「……美味しいです」


 そのあまりのギャップに、隣に座っていた凛が目を丸くする。


「大西さん、笑った! すごく可愛い!」


 凛の素直な言葉にハッとした明日香は、慌てて元の冷徹な無表情に戻ろうと小さく咳払いをした。


「き、菊地さん、あまりジロジロ見ないでください。……ですが室長、これは本当に絶品ですね。アードベッグの強烈な香りと、生ハムの塩気が絶妙に調和しています」


 照れ隠しのように早口で冷静に分析しようとする明日香を見て、真二は静かに声を立てて笑った。


「気に入ったなら何よりだ」


 凛もピザを頬張り、「んー! ほっぺた落ちそうです!」と満面の笑みを浮かべている。


 薄暗い銀座のバーの片隅。


 真二はアードベッグのグラスを傾けながら、目の前で楽しそうにピザをつついている二人を見つめた。


 店内に流れる低いジャズの音色に二人の弾んだ声が混ざり合い、テーブルの上には穏やかな時間が流れている。


 真二はグラスに残ったアードベッグを静かに飲み干した。傾けたグラスの中で、丸く削られた氷がカランと微かな音を立て、琥珀色の照明を冷たく反射していた。

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