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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第7話 お人好しと純真

 エレノアが本社ビルの一角に用意した「特命担当室」は、元々役員専用の応接室として使われていた場所だ。厚い絨毯は足音を完全に吸い込み、重厚な防音扉を閉じれば、外部の喧騒は一切届かない。この完全な密室は、神宮寺グループという巨大な組織に巣食う寄生虫たちを駆除するための、真二の司令塔として機能し始めていた。


 真二は革張りのソファに深く腰を沈め、手元のタブレットに表示されたリストに目を通していた。


「佐野室長。藤井主任が過去1年間に主導したプロジェクトの予算消化状況と、協力会社への発注履歴の抽出、第1フェーズの処理が完了しました」


 部屋の奥に設えられたデスクから、抑揚のない声が響いた。

 大西明日香は、3枚の大型モニターを囲むように座り、そこから一切視線を外すことなく流れるような手つきでキーボードを叩き続けている。カタカタという一定のリズムを刻む打鍵音だけが、静謐な空間に響いている。彼女がこの特命室に合流してまだ3日しか経っていないが、その処理能力は真二の予想を遥かに上回っていた。膨大な社内データの中から必要な情報だけを正確に抽出し、整理していくその姿は、冷徹な機械を思わせた。


「早いな。異常な支出の傾向は?」

「特定の資材供給会社への不自然な発注の偏りが3件確認できます。いずれも相見積もりの形跡が形式的であり、市場価格より10%から15%高い単価で契約が結ばれていました。さらに、稟議書に記載された接待相手のスケジュールと照合したところ、疑わしい経費の申請が数件見つかりました。接待相手が海外出張中であるにも関わらず、都内の高級飲食店での決済が行われています」


 画面から一切目を離さず、明日香は淡々と報告する。


「ただ」


 彼女はタイピングの手を止めずに続けた。


「書類上の決裁プロセスは社内規定を巧妙にすり抜けており、これ以上の意図的な不正を立証するには、社内システム以外の外部データ、あるいは個人的な資金の流れそのものを追跡する必要があります」

「上出来だ。やはり社内の記録だけではしっぽを掴ませないように工作しているか」


 真二はタブレットをテーブルに置き、立ち上がった。


「決定的な証拠を得るには、裏から叩く必要があるな。その準備はこちらで進める。……大西」


 明日香の手が初めて止まり、真二の方を向いた。


「その処理速度を維持するには、お前が雑務まで抱え込むのは非効率だ。他部署との折衝や書類のやり取り、備品の管理といった周辺業務を捌く専任のアシスタントが必要だな」

「人員の追加ですか。しかし、私たちの業務内容は極秘事項が多く含まれます。中途半端な人間を入れるのは情報漏洩のリスクが高すぎます」

「わかっている。だからこそ、絶対に裏切らない、そして他人のために動くことに疑問を持たない人間が必要だ」


 真二はジャケットを羽織り、腕時計に目を落とした。時刻は午後8時を回ろうとしていた。


「目星はついている。少し、迎えに行ってくる」


★★★★★★★★★★★


 営業サポート部のフロアは、すでに大半の社員が退社し、まばらな照明だけが薄暗く空間を照らしていた。空調の低い唸り声だけが響く中、フロアの隅にある1つのデスクだけが煌々と青白い光を放っている。


 菊地凛は、山のように積まれた経費精算書の束と、手入力用のエクセル画面を交互に見つめ、細い指をキーボードの上で迷うように動かしていた。


「菊地さーん、ごめんね。明日までにこの会議資料、50部コピーしてホチキス留めしておいてくれる? あと、こっちの領収書の入力もお願い。私、今日どうしても外せない予定があってさ」


 先輩社員の甲高い声が静かなフロアに響く。彼女はすでに帰り支度を完璧に終え、肩からブランド物のバッグを下げていた。


「あ……はい。わかりました」


 凛は力なく返事をした。


「助かるー! 菊地さんって本当にお願いしやすいから大好き。じゃあ、お先に!」


 先輩社員は悪びれる様子もなく、軽い足取りでフロアを出ていく。エレベーターの到着音が鳴り、その姿が完全に見えなくなると、フロアは再び重苦しい静寂に包まれた。


 残された凛は、自分のデスクの横にさらに積み上げられたファイルを見て、小さく、誰にも聞こえないようなため息をついた。


 モニターの青白い光に照らされた彼女の横顔には、明らかな疲労の色が滲んでいる。付箋がベタベタと貼られた領収書の束は日付も金額もバラバラで、1件ずつ確認するだけでも膨大な時間を要する。華奢な肩を丸め、途方に暮れたように視線を泳がせている。


 重い瞼を擦り、再びキーボードに手を伸ばそうとした時だった。


「……効率の悪いやり方だな」


 突然、背後から低く落ち着いた声が降ってきた。


 凛が肩をビクッと跳ねさせて振り返ると、そこには見知らぬ長身の男が立っていた。仕立ての良いスーツを隙なく着こなし、冷ややかに澄んだ目で凛のデスクを見下ろしている。


「あ、あの……」

「その経費精算、1枚ずつ手入力しているのか。基幹システムからCSVで書き出してマクロを組めば、5分で終わる作業だ」


 男――佐野真二は、凛のモニターを一瞥して言った。


「えっと……私、マクロとかよくわからなくて。先輩からは、1件ずつ目視で確認して手入力するように言われていて……」


 凛は申し訳なさそうに視線を落とした。真二は彼女のデスクに積まれた資料を無造作に手に取った。


「これは営業一部の会議資料じゃないか。なぜサポート部の新人がやっている?」

「それは……先輩が、忙しいから手伝ってほしいって」

「手伝いじゃない。ただの丸投げだ」


 真二の冷たい声に、凛は言葉を詰まらせた。


 彼女を取り巻く状況は明白だった。周囲の人間は彼女の人の良さを「都合の良さ」として消費している。断る術を持たず、ただ黙々と他人の仕事を被る人間は、組織の中で最も安上がりな緩衝材として際限なくすり潰されていく。彼らは凛の優しさに甘え、罪悪感すら抱いていない。


「……帰るぞ」


 真二は凛のデスクの横に立ち、PCの電源ボタンを容赦なく長押しした。プツンという音と共に、モニターの画面が真っ黒に落ちる。


「えっ!? ちょ、待ってください! データが……」

「消えても問題ない。そもそもお前がやるべき仕事じゃない。荷物をまとめろ」

「で、でも、明日までに終わらせないと先輩に怒られちゃいます……」


 オロオロと戸惑う凛を、真二は真っ直ぐに見据えた。


「お前が明日、あの先輩に会うことはない」


★★★★★★★★★★★


 真二は半ば強引に凛を連れ出し、12階の特命担当室へと足を踏み入れた。


 防音扉が閉まると、外の空気が完全に遮断される。


「あの、佐野さん……ですよね。私、本当に帰って大丈夫だったんでしょうか……」


 部屋の中央で、凛が不安そうに上目遣いで真二を見る。黒目がちな大きな瞳が、見知らぬ空間に対する緊張で微かに揺れている。


「明日から、お前は俺の直属のアシスタントになる。人事には明日の朝イチで話を通す。あの部署に戻る必要はない」

「アシスタント……? 私が、ですか?」

「そうだ。お前のように、言われたことを疑問も持たずに引き受ける人間が、俺の部署には必要なんだ」


 あえて突き放すような、打算的な言い方をした。これから始まるのは、人を陥れ、社会的地位から引きずり下ろす冷酷な復讐と権力闘争だ。彼女をその渦に巻き込む以上、生半可な優しさや同情は見せるべきではない。


 部屋の奥から、明日香が静かに歩み寄ってきた。


「佐野室長。そちらは?」

「明日からここで働く菊地凛だ。お前のアシスタント兼、この部署の雑務全般を担当させる」


 凛は明日香の放つ冷たく鋭利な空気に萎縮し、ペコリと深く頭を下げた。


「き、菊地凛です。よろしくお願いします……」


 明日香は凛を頭の先から足の先まで冷徹に観察し、短く息を吐いた。


「大西明日香です。……室長、彼女の実務能力は? エクセルや社内システムの習熟度はどの程度ですか」

「ほぼゼロだ。だが、言われたことは確実にこなす。何より、余計な自己主張をしない。お前のスケジュール管理や、他部署との物理的な書類のやり取りには使えるはずだ」


 明日香は無表情のまま頷いた。


「承知しました。明日から実務マニュアルを叩き込みますが、私の足を引っ張るようなら容赦なく切り捨てますよ」


 冷たい宣告に、凛はビクッと肩を震わせ、さらに身を縮めた。


 真二はソファに腰を下ろし、凛に視線を向けた。


「そういうわけだ。ここは結果が全ての部署だ。あの生ぬるいサポート部のように、他人の尻拭いをしている暇はない。俺と大西の指示通りに、手足として動け」


 冷徹な言葉。凛は少し俯いた後、ゆっくりと顔を上げた。


「……あの」

「なんだ」

「私、要領が悪くて、今までどこの部署でもお荷物扱いでした。今日の仕事も、本当は私がトロいから、先輩が見かねて……」

「言い訳はいい。お前が他人に利用されやすい性格だということはわかっている」

「でも」


 凛は両手を胸の前でギュッと握りしめた。


「私を、必要だと言ってくれたのは、佐野さんが初めてです。『都合よく使える』でもいいです。私、少しでも佐野さんの役に立ちたいです。一生懸命頑張りますから……よろしくお願いします!」


 深く、丁寧なお辞儀。


 打算も、自己保身もない。ただ純粋に、目の前の人間の役に立ちたいと願う真っ直ぐな言葉だった。


 真二は少しの間、無言で彼女を見下ろした。


 殺伐としたビジネスの世界において、他者を疑うことを知らないその純粋さは、致命的な弱点でしかない。自分の利益のために他者を踏み台にすることが常態化しているこの会社で、彼女のような存在は異質すぎた。


「……勝手にしろ。ただし、泣き言は聞かないぞ」


 真二は微かに視線を逸らし、短く答えた。


「はい……!」


 凛の顔に、少しだけ安堵の色が浮かんだ。


「どうぞ。給湯室にお茶しかなかったので、淹れてみました」


 しばらくして、凛が湯気の立つ湯呑みをテーブルの上にそっと置いた。


「……ああ。ありがとう」


 真二は湯呑みを受け取り、視線を明日香に向けた。


「大西、彼女に当面の作業を指示してやれ」

「了解しました。菊地さん」


 明日香の冷たい声が飛ぶ。


「はいっ」

「明日の朝までにこのリストにある備品を総務部から調達してきてください。それと、私のデスクのファイリングルールのマニュアルを渡します。今夜中に目を通しておくように」

「わかりました。大西さん、よろしくお願いします」


 凛は渡された分厚いファイルを受け取り、真剣な顔で頷いた。


 真二は湯呑みに口をつける。安いティーバッグの茶だが、ひどく温かく感じられた。カップをテーブルに置き、真二は再びタブレットへと視線を戻す。


 翔太の足元を崩すための社内のデータは、明日香が確実にかき集めるだろう。だが、それを決定的な破滅へと導くためには、やはり社外の領域に踏み込める力が必要だ。真二の頭の中ではすでに、次のジョーカーを引き入れるための算段が静かに始まっていた。

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