第6話 冷徹な右腕の発見
週明けの月曜、午前10時。
営業部のフロアは、週末の停滞を取り戻そうとするかのように、あちこちで交わされる短い指示の声や電話のコール音でざわついていた。複合機が連続して紙を吐き出す音が、単調なリズムを刻んでいる。営業マンたちの熱を帯びた電話の声や、若手社員が走り回る足音。フロアは特有の熱気と焦燥感に包まれていた。
その喧騒の片隅で、佐野真二は自分のデスクの引き出しを静かに整理していた。
今日から表向きは「有給消化」に入る。エレノア・スペンサーの特命担当として正式な辞令が下るまでの数日間、真二は書類上、このフロアに存在しないことになっている。とはいえ、引き継ぎや私物の整理という名目で、こうして席に座っていること自体は誰にも咎められない。私物をまとめるふりをしながら、真二の視線はフロアの斜め前方、翔太のデスク周辺に向けられていた。
「大西。先週頼んでおいたアルカディアの過去コンペ資料の抽出、まだ終わってないのか?」
苛立ちを隠そうともしない翔太の声が響く。周囲の社員がチラリと視線を向けるが、すぐに関わり合いを避けるように自分のモニターへと目を戻した。彼らは皆、翔太が最近、武藤常務の覚えをめでたくして増長していることを知っている。
翔太の前に立っているのは、今年配属されたばかりの新入社員、大西明日香だった。
肩で切り揃えられた黒髪。無駄な脂肪が一切ない、しなやかで細身のシルエット。彼女は涼しげな切れ長の目を伏せることもなく、ただ無表情で翔太を見据えていた。
「ご指示のあった過去5年分の類似案件の抽出と、各条項のリスク比較表ですね。現在8割方完了しております。午後1時には提出可能です」
抑揚のない、機械のような声だった。
「遅せえよ。もっと要領よくやれ。俺はこれから武藤常務のところへ報告に行かなきゃならないんだ。お前がチンタラしてるせいで、俺のスケジュールに影響が出るだろ」
翔太はあからさまに舌打ちをした。
「だいたいお前、少しは愛想よくしろよ。いつも仏頂面でさ。だから他部署からも可愛げがないって言われんだぞ。俺が指導してやってることに感謝しろ」
「……申し訳ありません。以後、気をつけます」
明日香は一切の感情を交えず、ただ深く一礼した。その隙のないお辞儀は、逆に相手を突き放しているようにも見えた。翔太は「チッ」と再度小さく舌打ちをすると、ジャケットを羽織って足早にフロアを出て行った。
残された明日香は、溜息一つ吐くことなく自分のデスクに戻り、すぐにキーボードへ向かった。
真二は、その一連のやり取りを観察しながら、内心で静かに分析していた。
あれだけの分量の専門的な法務確認を、たった1営業日で終わらせようとしている。通常の若手なら1週間はかかる代物だ。
真二は立ち上がり、コーヒーサーバーへ向かうふりをして明日香の背後を通り過ぎた。
歩きながら、一瞬だけ彼女のモニターを視界の端に捉える。
画面上では、複数のエクセルファイルが目まぐるしい速度で切り替わり、彼女自身が組んだと思われる複雑なマクロが、膨大なテキストデータから必要な条項だけを正確に抽出していた。ショートカットキーを叩く指の動きに、一切の迷いがない。マウスをほとんど使わず、キーボードの操作のみでウィンドウを操る様は、まるで熟練のピアニストのようだった。
(……見事だ)
規格外の処理能力。そして、理不尽な要求に対しても感情を波立たせず、ただ淡々と任務の完遂に向かうストイックさ。
前世の真二は、自分のことで手一杯で彼女の存在に深く気を留める余裕がなかった。おそらく、前世の彼女はこのまま翔太に都合の良い手足として搾取され続け、やがてその才能を枯渇させてひっそりと会社を去ったか、あるいは心身を壊したのだろう。
かつての自分と同じだ。
有能であるがゆえに、無能な寄生虫にすり潰される運命。
(だが、もったいないな)
真二はサーバーから紙コップにコーヒーを注ぎながら、口角をわずかに上げた。
あれほど鋭利な刃を、あんな安っぽい見栄のために使わせる必要はない。
エレノアという強大な「盾」を手に入れた真二には今、自分の手足となって正確無比に動く実務担当が必要だった。今後の「大掃除」では、社内のシステムに深く潜り込み、物理的な証拠を集め、翔太たちを逃げ場のない罠にハメるための作業が山のように発生する。
裏で動かす予定のジョーカーに呼応できる、表の実働部隊。
真二は自席に戻り、引き出しの鍵を閉めた。ターゲットは決まった。
★★★★★★★★★★★
その日の夕方。
真二は一度会社を出た後、19時を回った頃に再び社内へと戻ってきた。有給中とはいえ社員証のセキュリティは生きている。
向かったのは、地下2階にある旧契約書の保管庫だった。
現在はほとんどのデータが電子化されているが、過去の特殊な案件の原本や、電子化前の付帯資料などはまだここに眠っている。天井の蛍光灯は半分ほどが切れかかり、ジージーと耳障りな音を立てていた。カビと古い紙の匂い、そして空調の低い唸り声だけが響く薄暗い空間。
整然と並ぶスチール棚の奥から、紙をめくる微かな音が聞こえた。
真二が足音を殺して近づくと、通路の床に直接座り込み、山積みにされたキングファイルとノートPCを睨みつけている明日香の姿があった。
昼間の張り詰めた空気はわずかに緩み、彼女の端正な横顔には明らかな疲労の色が滲んでいた。しかし、その指先は依然として正確にキーボードを叩き続けている。
「……翔太の指示か」
静寂を破る真二の低い声に、明日香の肩がビクッと跳ねた。
彼女は素早く立ち上がり、警戒するような鋭い視線を真二に向けた。
「佐野先輩。有給に入られたのでは」
「少し忘れ物を取りにね」
真二は歩み寄り、手に持っていた未開封の缶のカフェオレを、彼女の横の空いたスチール棚の上に置いた。
「過去の付帯資料の原本確認。電子データに反映されていない手書きの特記事項を探しているんだろう。アルカディアの誘致において、少しでも翔太の有利になる材料を見つけるために」
明日香は何も答えず、ただ無表情のまま真二を見つめ返した。その沈黙は、肯定と同じだった。
「お前が昼に仕上げたあの比較表、見事だったよ。マクロの組み方も、データのソートも、営業部の誰よりも無駄がない」
真二は彼女のパーソナルスペースには踏み込まず、一定の距離を保ったまま淡々と告げた。
「ですが、藤井主任からは『見づらい』と突き返されました。フォーマットの修正と、この原本確認を追加で命じられています」
「だろうな。彼にはあのデータの真価が理解できない。ただ、自分が優位に立つための粗探しをしているだけだ」
真二はスチール棚に軽く寄りかかり、腕を組んだ。
「お前は優秀だ。だが、致命的に世渡りが下手だ。自分が理不尽な扱いを受けているとわかっていながら、反論するよりも作業を終わらせる方が合理的だと考えて、すべてを抱え込んでいる」
図星を突かれ、明日香の切れ長な目がわずかに見開かれた。
「……私が反論したところで、誰も信じません。なら、黙って処理した方が早い。それだけです」
「それが搾取される側の典型的な思考だということに、気づいていないのか」
静かな重量を持った真二の言葉が、地下室の空気を震わせた。
「お前が正確に仕事をこなせばこなすほど、それはすべて翔太の優れた指導力という手柄にすり替わる。そして万が一ミスが起きれば、すべてお前の経験不足として責任を押し付けられる。お前自身も、薄々気づいているはずだ。お前のそのストイックさは、ただ自分をすり減らすだけの呪いであり、彼らを増長させる餌でしかないと」
明日香は薄い唇を強く引き結んだ。反論の言葉を探しているようだったが、何も出てこない。真二の言葉が、彼女自身が心の奥底で感じていた絶望を正確に言語化していたからだ。
「……私に、どうしろと?」
絞り出すような声だった。
真二は腕を解き、真っ直ぐに明日香の瞳を見据えた。
「俺のために働け」
簡潔な一言だった。明日香がわずかに眉をひそめる。
「俺は来週から、エレノア・スペンサー役員直轄の特命担当になる。部署の垣根を越え、彼女のプロジェクトを成功させるためのあらゆる障害を排除する実働部隊だ。俺には、感情に流されず、淀みなく実務をこなす右腕が必要だ」
真二は1歩だけ、明日香に近づいた。
「翔太の下で、他人の見栄を飾るための養分として腐っていくか。それとも、俺のところで正当な評価と、それに相応しい激務を引き受けるか。選べ」
明日香は息を呑んだ。
目の前に立つ男から発せられる気配は、これまで彼女が知っていた「お人好しで冴えない佐野先輩」のものとは全く違っていた。
底知れず、しかし不思議なほどの絶対的な自信と余裕に満ちている。彼が見据えているのは、単なる業務の効率化などではない。もっと深い、この会社の暗部そのものを見透かしているような視線。
「……特命担当として、具体的に何をさせるおつもりですか」
「大掃除だ」
真二は凄みのある眼差しで彼女を見下ろした。
「お前を不当に扱った連中や、見栄と虚栄心だけでこの会社に寄生している連中が、自分たちの足元が崩れていくことに気づかないまま、最も高い場所から転落していく。俺はそのための舞台を構築する。お前には、その舞台の裏で、逃げ場をなくすための物理的な証拠集めと、実務的なトラップの構築を頼みたい」
それは明確な、社内政治における粛清の誘いだった。
一歩間違えれば自分もろとも破滅する危険な道。しかし、明日香の胸の奥で、冷え切っていた何かが熱く脈打つのがわかった。
理不尽に耐え続けるだけの日々が終わる。自分の能力が、誰かの虚栄心のためではなく、明確な目的と報復のために使われる。そして何より、目の前のこの男は、自分の能力を正確に測り、その価値を認めている。
明日香はゆっくりと深呼吸をした。
そして、乱れていたスカートの皺を伸ばし、真二に向かって深く、正確な角度でお辞儀をした。
「……了解いたしました。佐野室長」
顔を上げた彼女の目は、先ほどまでの沈んだ色を払拭し、鋭い光を取り戻していた。
真二は短く鼻で笑った。
「まだ室長じゃない。だが、そう遠くない未来にそうなるだろうな」
「明日、人事部への異動願いと、エレノア役員からの引き抜き要請のフォーマットを準備しておきます。藤井主任には、私が引継ぎ資料をすべて残した上で、物理的に干渉できない状態を作り出します」
「頼もしいな。期待している」
真二はそう言うと、踵を返して出口へと向かった。
「ああ、そうだ。そのカフェオレ、飲んでおけ。疲れた頭には糖分が必要だからな」
背を向けたままそれだけを言い残し、真二は地下室を後にした。
一人残された明日香は、スチール棚の上に置かれた缶のカフェオレを手に取った。プルタブを開けて一口飲む。
口の中に広がる濃厚な甘さに、明日香の無表情だった顔が、ほんの一瞬だけ、無自覚にふにゃりと緩んだ。
「……甘すぎます」
誰に言うともなく小さく呟き、彼女はすぐに元の鋭い表情に戻ると、ノートPCの前に座り直した。画面の青白い光が彼女の顔を照らし出す。キーボードを叩くタイピング音が、再び静かな地下室に響き始めた。その指先の動きに、もう迷いはなかった。




