第5話 無能な寄生虫たち
金曜の午後。
窓から差し込む初夏の日差しが、埃の舞う単身用アパートのフローリングを四角く切り取っていた。外からは遠くを走る電車の低い走行音と、近所の子供たちがはしゃぐ声が微かに聞こえてくる。
佐野真二は自室の小さなデスクに座り、ノートPCの画面を静かに見つめていた。表示されているのは、海外の暗号資産取引所の無機質なチャート画面だ。数日前に全貯金を投じて仕込んでおいた特定の銘柄が、昨晩から急激な上昇カーブを描き、現在そのピークに達しようとしていた。
画面右端で明滅する現在価格の緑色の数字を追いながら、真二は躊躇いなく「全額売却」のボタンをクリックした。
短いロード時間の後、画面が切り替わり、確定した口座残高が表示される。数日前まで数十万しかなかった数字が、一瞬にして桁を2つ増やしていた。前世の記憶通りに起きた、アメリカのテック企業の予期せぬ決算発表と、それに連動した投機マネーの流入。その波頭を正確に捉え、最も高い位置で売り抜けた結果だった。
「……まずは、こんなところか」
真二はマウスから手を離し、小さく息を吐いた。凝り固まっていた肩の力を抜く。
これで、最初の「弾薬」は揃った。神宮寺グループという巨大な組織を内側から崩し、復讐を成し遂げるためには、エレノア・スペンサーという強力な表の「盾」だけでなく、彼女の目が届かない非合法スレスレの領域で動ける手足が必要だ。この資金は、いずれ必要になる裏の人間を雇い入れるための着手金となる。
デスクの傍らに置いていたスマートフォンが、短い振動音を立てた。
画面に目をやると、LINEの通知が表示されている。送信者は「麻衣」。
『今日の夜、会えない? 前にキャンセルされたフレンチの埋め合わせ、してほしいな。最近、真二冷たいし。私、ちょっと怒ってるんだからね』
メッセージの後に、不機嫌そうに腕を組むウサギのキャラクターのスタンプが添えられている。
真二は、画面を冷ややかな目で見下ろしたまま、表情筋一つ動かさなかった。
数日前の夜、彼女は翔太と都内の高級ホテルに消えていった。おそらく今も、二人の関係は続いているはずだ。別の男と体を重ねながら、自分には平然と「埋め合わせ」として高級な食事やプレゼントを要求してくる。彼女にとって自分は、都合の良い財布であり、自尊心を満たすためのサンドバッグに過ぎない。
真二はゆっくりと画面をタップし、短い返信を打ち込んだ。
『わかった。19時に表参道のA5出口で』
スマートフォンをデスクに伏せて置く。彼女の虚栄心と欲望を、今はまだ満たしてやる必要がある。それも、以前よりもさらに過剰に。彼女自身が二度と元の生活水準に戻れないレベルまで、金銭感覚を完全に狂わせてやるために。
★★★★★★★★★★★
19時過ぎの表参道は、週末を前にした高揚感と華やかな空気に包まれていた。行き交う人々の話し声や、通り沿いのブランドショップから漏れる柔らかな照明が、初夏の夕暮れを彩っている。
真二が地下鉄の出口の壁際に立って待っていると、ほどなくして麻衣が人波を掻き分けて姿を現した。先日彼女が「翔太のプロジェクトの祝賀会に着ていく」と言っていた、淡いブルーの新しいワンピース。手には、真二のクレジットカードで買わせた10万円を超えるブランドの小さなバッグが握られている。
「遅い。5分も待たされたんだけど」
麻衣は真二の顔を見るなり、ツンと顎を上げて不満を口にした。
「すまない。少し野暮用が長引いてね」
真二は感情を殺した声で短く謝罪し、歩き出した。麻衣は少し怪訝そうな顔をして、真二の横顔を窺った。
「……ねえ、急に有給なんて取って、何してるの? 翔太くんはコンペ通して大活躍してるのに、真二だけ休んでて平気なの?」
隣を歩きながら、探るような声を出してくる。
「少し、今後のキャリアについて考える時間をもらってね。それに、投資の勉強も兼ねている」
「投資? 真二が? 何それ、怪しいことしてないよね?」
「怪しいことではないさ。……着いたよ」
真二が立ち止まったのは、大通りから一本入った路地にある、予約困難で知られる高級イタリアンレストランの前だった。麻衣が以前から「一度でいいから行ってみたい」と雑誌の切り抜きを見せていた店だ。重厚な木製のドアと、控えめに照らされた真鍮の看板が、周囲の喧騒を遠ざけている。
「えっ……ここ、予約取れたの?」
麻衣の目が驚きに見開かれる。
「ああ。キャンセル枠がたまたま空いていたから」
本当は、手に入れたばかりの資金を使い、コンシェルジュサービス経由で強引に席を確保させたものだ。
店内に案内され、奥のゆったりとしたソファ席に着く。薄暗い照明と洗練されたインテリア。周囲のテーブルには、いかにも裕福そうなカップルやエグゼクティブたちが座り、静かにグラスを傾けている。麻衣はその空気に気圧されつつも、明らかに気分を高揚させていた。
ギャルソンがうやうやしくメニューを差し出す。麻衣はそれを受け取り、ページを開いた瞬間に小さく息を呑んだ。
「すごい……メニューに値段が書いてない」
「気にするな。今日は俺がすべて出す。好きなものを頼むといい」
真二はソムリエを呼び止め、迷うことなく数万円のシャンパンをボトルでオーダーした。麻衣の視線が、信じられないものを見るように真二に突き刺さる。
「真二、どうしたの? いつもはこんな高いお店、絶対に来ないじゃない」
「言っただろう。投資の成果が少し出たんだ。今まで君には、俺の甲斐性がないせいで我慢させてばかりだったからね」
ギャルソンが手際よくシャンパンを注ぎ、微細な泡がグラスの底から立ち上る。真二はグラスを軽く持ち上げ、麻衣に微笑みかけた。それは、かつてのようなおどおどした優しさではなく、大人の余裕を感じさせる、計算され尽くした冷たい微笑みだった。
「これからは、もっと君に相応しい生活をさせてやれると思う。……例えば、君が欲しがっていたあの限定のバッグ。明日、一緒に見に行こうか」
「え……っ、本当!?」
麻衣の声が上ずる。周囲の客がわずかに視線を向けたことに気づき、彼女は慌てて口元を手で覆ったが、その目ははっきりと見開かれていた。あのバッグは、真二の現在の月給を軽く超える額だ。
「ああ。君に似合うはずだ」
麻衣の頬が紅潮し、その瞳にははっきりとした強い欲望の光が宿った。彼女の視線が少し泳ぎ、手元の小さなバッグと真二の顔を交互に見る。
「真二……ありがとう。私、すっごく嬉しい」
麻衣は身を乗り出し、甘えた声を出して真二の手の甲にそっと触れた。
その手には、翔太と同じ香水の微かな残り香が染み付いていた。真二は内心の嫌悪を完全に隠し通し、ただ静かに彼女の細い指先を見つめた。
運ばれてきた色鮮やかな前菜の皿を前に、麻衣は嬉しそうにスマートフォンのカメラを向けている。真二はシャンパンを口に含み、目の前の彼女を観察対象の昆虫を見るような冷ややかな目で見つめ続けた。
★★★★★★★★★★★
21時。
店を出て、麻衣をタクシーに乗せて見送った後、真二は一人、夜の街を歩いていた。
これから、エレノアのマンションへ向かう。彼女の「ダミーの夫」としての具体的な打ち合わせと、来週からの特命担当としての動きのすり合わせを行うためだ。
歩道橋の階段を上っている途中、ポケットのスマートフォンが着信を知らせた。
画面には「翔太」の文字。
真二は足を止め、眼下を流れる車のヘッドライトの帯を見下ろしながら、通話ボタンを押した。
「……もしもし」
『真二! お前、今どこだよ!』
耳をつんざくような、興奮しきった翔太の声。電話の奥からは、グラスがぶつかる音や大勢の笑い声が聞こえてくる。どこかの居酒屋かバーで飲んでいるようだ。
「外だ。どうした」
『どうしたじゃねえよ! 今日の午後の役員会、お前が休んでる間に俺の企画書が大絶賛だったんだよ! 武藤常務なんて「近年稀に見る素晴らしい収支計画だ」って手放しで褒めてくれてさ!』
翔太の言葉に、真二は口角をわずかに上げた。
当然だ。役員たちが食いつくように、彼らの好むバラ色の数字と右肩上がりのグラフを完璧に作り上げたのは真二なのだから。
「それはおめでとう。お前の企画力と、事前の根回しの賜物だ」
真二は一切の感情を交えず、淡々と称賛の言葉を口にした。
『おう! これで俺もいよいよ幹部候補の仲間入りだ。……でさ、早速次のフェーズなんだけど』
翔太の声が、少しだけトーンダウンし、媚びるような響きを帯びた。
『アルカディアの誘致の件、お前も知っての通り、あそこは今他社からも引く手あまただ。早く基本合意を結びたいんだけど、細かい契約の調整とか、数字の詰めとか、またお前に裏でサポート頼めないか? お前、有給中とはいえ暇だろ?』
「ああ、構わない。俺の有給は表向きのものだからな。裏で数字の精査はしておく」
『マジか! 助かるわー、やっぱお前は最高の裏方だよ!』
「ただ、1つアドバイスだ。アルカディアとの交渉はスピードが命になる。細かい規約の調整は後回しにして、まずはトップ同士の握手を優先した方がいい。お前が直接先方の役員に会い、熱意で押し切れ。それができるのは、このプロジェクトの顔であるお前だけだ」
真二の低く落ち着いた声は、不思議な説得力を持って翔太の耳に届いたはずだ。
『……なるほど。確かにそうだな。よし、来週早々にアポを取って俺が直接行ってくる! サンキュー真二、また後で連絡するわ!』
通話が切れる。
真二はスマートフォンを耳から離し、暗い画面を見つめた。
これで、翔太は自ら進んで引鉄に指をかけたことになる。彼が熱意と独断で推し進めた杜撰な契約は、やがて彼自身の首を絞める決定的な凶器となる。
虚栄心に駆られた無能は、自分の足元が崩れかけていることに気づかず、ただ高いところを目指して登り続ける。今はただ、彼が限界まで登り詰めるのを待てばいい。
夜風が、真二の前髪を冷たく揺らした。
真二は歩道橋を降り、大通りでタクシーを拾った。
「港区の、白金高輪まで」
運転手に告げ、後部座席に深く身を沈める。窓の外を、東京の眩しい夜景が後方へと流れていく。
まずは、エレノア・スペンサーという盤石な「盾」を、完璧に自分のものにする。
真二はポケットから再びスマートフォンを取り出し、暗号化されたメッセンジャーアプリを立ち上げた。神宮寺グループという巨大な組織を内側から崩し、翔太たちを逃げ場のない底なし沼へと引きずり込むためには、表の権力だけでなく、非合法スレスレの領域で動ける裏の手足が必要不可欠だ。
手に入れたばかりの潤沢な資金を使い、裏の情報を操る「ジョーカー」に接触するための、最初のメッセージを打ち込む。
タクシーの車内を満たす微かなエンジン音の中、画面の明かりが、真二の感情のない横顔を青白く照らし出していた。




