第4話 契約結婚の提案
指定された場所は、本社ビルから歩いて数分の距離にある外資系ラグジュアリーホテルのラウンジだった。
高い天井には豪奢なシャンデリアが下がり、床には足音を完全に吸い込む厚い絨毯が敷き詰められている。平日の昼間ということもあり、静寂に包まれた空間には、密やかな商談を行うエグゼクティブたちの姿がまばらに見えるだけだ。前世の自分であれば、このような場所に足を踏み入れるだけで萎縮していただろう。だが今の真二は、案内するボーイの後ろを、一切の気負いなく静かな足取りで歩いていた。
真二が奥のプライベートルームに通されたのは、約束の時間である午後0時半のちょうど3分前。重厚なマホガニーのドアをボーイが開けると、外部の喧騒が完全に遮断された静謐な空間の中に、エレノア・スペンサーが一人で座っていた。
午前中のダークネイビーのジャケットは外され、とろみのあるシルクのブラウスが、彼女の透き通るような白い肌と華奢な肩のラインを際立たせている。しかし、その纏う空気は相変わらず氷のように冷たく、不用意に近づく者を拒絶するような強い緊張感を保っていた。広いテーブルの上に置かれたタブレット端末と数枚の書類だけが、彼女の意識がまだ完全に仕事の領域にあることを示している。
真二は無言で一礼し、対面の席に腰を下ろす。
「大同マテリアルの件ですが」
ボーイがミネラルウォーターの入ったグラスを二つの前に置き、一礼して部屋を退室する。ドアが完全に閉まり、かすかなロック音が響いた数秒後、エレノアが静かに口を開いた。
「あなたが作成した解釈案の通りに動きました。法務部を通さず、私の権限で直接大同の担当役員に通知したところ、先ほど向こうから『製造ラインの不具合による納期遅延の恐れ』を理由に、契約辞退の申し出がありました」
「それは重畳です」
真二はグラスに手を伸ばし、一口だけ水を含んでから淡々と返した。
「武藤常務は激怒しているでしょうね。自分のメンツを潰された上に、自ら推していた企業に泥を塗られたわけですから。ですが、大同側から辞退を申し出た以上、あなたに直接的な責任を問うことはできません。プロジェクトの遅延リスクを未然に防いだという事実だけが残ります」
「ええ。おかげで首の皮一枚繋がりました。……代替の3社については、今日の午後から極秘裏に見積もりの精査に入ります」
エレノアはそこまで言うと、ふっと微かに息を吐いた。午前中のピンと張り詰めていた糸が、ほんの少しだけ緩んだように見えた。異国の地で孤軍奮闘してきた彼女にとって、自分の足元に仕掛けられた致命的な罠を、誰かの手によって未然に防がれたという経験はおそらく初めてだったはずだ。周囲のすべてが敵に見えるこの組織の中で、確かな実利をもたらす存在が現れたことに対する、わずかな安堵の表れだった。
「それで、本題ですが」
真二は声のトーンを一つ落とし、エレノアの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなたの個人的な問題について、でしたね」
エレノアはテーブルの上で組んでいた指先を少しだけきつく握り合わせ、僅かな沈黙の後に口を開いた。
「私の本国、スペンサー家からの要求です。現在、私は神宮寺グループ本社の神宮寺専務の次男との縁談を強引に進められています」
真二の脳裏に、前世の記憶が蘇る。神宮寺専務の次男。海外の大学を遊び歩いて卒業し、現在はグループの関連会社で役員の肩書きだけを与えられている、絵に描いたような無能な男だ。前世において、エレノアは今日防いだ大同マテリアルのデータ偽装問題の責任を重く問われる形で社内での発言権を失い、最終的にその男との政略結婚を受け入れざるを得ない状況にまで追い込まれた。その後の彼女がどれほど屈辱的な扱いを受け、飼い殺しのような状態に置かれたか、末端の社員だった真二でさえ耳にするほどだった。
「実質的な経営統合の担保、といったところですか」
「そんな立派なものではありません。私からプロジェクトの決定権を奪い、神宮寺側のコントロール下に置くための、ただの首輪です」
エレノアの声には、押し殺したような怒りと屈辱が滲んでいた。若くして役員に抜擢されるほどの優秀な彼女にとって、自分の積み上げてきたキャリアやプライドが、無能な男の飾りとして一方的に消費されることなど耐えがたい屈辱だろう。
「私は、自分のキャリアとこの新規物流センターのプロジェクトを、誰かの飾りにするつもりはありません。ですが、現在の私は社内で孤立しています。武藤常務の派閥だけでなく、本社の専務派閥まで敵に回せば、いかに本国のバックアップがあっても私の役員としての地位は保証されません。彼らは私が自滅するのを待ち構えている」
「なるほど」
真二は深く頷く。
「それで、私に何を求めているのですか」
エレノアは真二から視線を逸らさず、冷徹な声のまま、しかしその瞳の奥にわずかな揺らぎを見せて告げた。
「私と、契約上の結婚をしてください」
その言葉が落ちても、真二の表情は一切動かなかった。
真二はゆっくりと瞬きをし、相手の真意を正確に計るように尋ねた。
「偽装の、ですね」
「ええ。法的な入籍はすぐにはしませんが、周囲にはそう思わせる既成事実が必要です。私がすでに日本で、信頼に足るパートナーを見つけ、将来を誓い合っているという明確な事実が。本国からの圧力を跳ね除け、かつ神宮寺グループ内での私の立場を盤石にするための『ダミーの夫』です」
真二は深く息を吸い、椅子の背もたれにゆっくりと体重を預けた。
「なぜ、私を選んだのですか」
「あなたは今朝、私に自分の圧倒的な実務能力と、社内政治を読む力を証明しました。武藤常務の派閥にも属さず、私に恩を売るという形で自分の価値を提示した」
エレノアはテーブルの上の書類に視線を落とし、静かに続ける。
「この会社で、私の目論見を理解し、かつ私を裏切らずに立ち回れる人間はあなたしかいません。そして何より……あなたは『正当な評価と権限』を欲していると言った。私たちの利害は完全に一致しています」
真二の脳内で、これからの数ヶ月のロードマップが急速に組み上がっていく。
自分を使い捨ての駒として消費した翔太と麻衣を徹底的に破滅させ、この神宮寺グループという巨大な組織で誰にも搾取されない頂点に立つ。そのためには、一介の営業部員という立場はあまりにも弱すぎる。どれほど緻密な罠を仕掛けても、権力の一声で揉み消されてしまえば意味がない。自分を不当な人事や理不尽な圧力から守るための、強固な「盾」が必要だった。
エレノア・スペンサーの「事実上の夫」であり「右腕」。
これ以上ない、完璧な足場だった。
「条件があります」
真二は静寂を破り、低く落ち着いた声で切り出した。
「言いなさい」
「1つ。私はあなたのダミーの夫として完璧に振る舞い、あなたの業務上の障害となる古参役員たちのサボタージュをすべて排除します。このプロジェクトは確実に成功させる。その代わり、私の個人的な人事と裁量には一切の介入をしないこと」
真二の目が、微かに細められる。
「私が誰を潰し、誰を引き上げようと、あなたは黙認する。そして必要であれば、あなたの『最年少役員』としての権力をフルに行使して、私を無条件で庇護していただきます」
「……随分と物騒な条件ですね。まるで、社内で大規模な粛清でも企てているような口ぶりです」
エレノアは怪訝そうに眉をひそめた。
「単なる大掃除です」
真二は薄く笑う。
「腐った建材を放置すれば、いずれビルは倒壊します。私はその腐った部分を、少しばかり荒っぽい手段で取り除くかもしれないと言っているだけです」
「……私に火の粉が降りかからない限りは、あなたの行動を黙認しましょう。もう1つの条件は?」
「私の直属の特命チームを作ること。メンバーはこちらで選定します。もちろん、あなたのプロジェクトを成功させるための実働部隊としても機能させます。私が自由に動かす手駒が必要です」
社内には、かつての自分と同じように、理不尽な環境で才能をすり潰されかけている優秀な人間が幾人かいる。上司の手柄の養分として利用され続けている者や、お人好しゆえに雑用を押し付けられている者たち。彼らを正規のルートで引き抜き、自分の手足として機能させるためには、役員クラスの強権が必要不可欠だった。
エレノアは数秒間、目を閉じて思考を巡らせた。
真二の要求は、彼に強大なフリーハンドを与えることを意味する。下手をすれば彼女自身の立場をも揺るがしかねない危険な賭けだ。しかし、目前に迫る政略結婚のタイムリミットと、武藤常務からの容赦ない攻撃を防ぐためには、目の前に座るこの男の底知れない能力がどうしても必要だった。
目を開けたエレノアの瞳に、迷いはなかった。
「承知しました。その条件で、契約を結びましょう」
「ありがとうございます。エレノア役員」
「今日からは、エレノアと呼びなさい。少なくとも、二人きりの時や周囲の目がある場所では。婚約者を役職名で呼ぶ男はいません」
「わかりました、エレノア」
真二は立ち上がり、テーブル越しに右手を差し出した。
エレノアも立ち上がり、少し躊躇うような素振りを見せた後、その手を取った。
透き通るように白い彼女の手は、驚くほど冷たかった。真二は彼女の細い指先を、痛めない程度の力強さでしっかりと包み込む。
「……っ」
真二の手の大きさと、そこから伝わる確かな熱に、エレノアは微かに肩を揺らした。常に自分を律し、他人に触れることを極端に避けてきた彼女にとって、それはひどく暴力的な温度に感じられたのかもしれない。その瞳が僅かに見開かれ、真二の顔を至近距離で見つめ返す。
真二は何も言わず、ただ静かに、大人の余裕を感じさせる穏やかな視線を彼女に向けた。
「まずは、私をあなたの直轄の特命担当として異動させる手筈を整えてください」
真二はゆっくりと手を離し、ビジネスのトーンに戻って告げた。
「今週いっぱい、私は営業部の有給消化という名目で表舞台から姿を消します。その間に、私の『大掃除』のための裏の準備と、あなたとの関係を社内に少しずつ匂わせるための筋書きを完成させます」
「有給ですか。初日から随分と余裕ですね」
エレノアは自分の右手を無意識にもう片方の手で包み込みながら、少しだけ皮肉げに言った。
「準備がすべてです。勝敗は、実際に動き出す前にどれだけリスクを排除できたかで決まるものですから」
真二は一礼し、部屋のドアへと向かう。
「金曜の夜、あなたのマンションへ伺います。今後の具体的なスケジュールのすり合わせと……ダミーとはいえ、夫婦になるのです。互いの個人的な情報も、少しは共有しておくべきでしょう」
ドアノブに手をかけた真二の背中に、エレノアの硬い声が飛んだ。
「……私は、仕事のパートナーとしてのあなたを評価しただけです。勘違いしないでください」
「ええ、理解しています。あくまで契約上の、冷徹な関係だ」
真二は振り返ることなく答え、静かに部屋を後にした。
ラウンジを抜け、初夏の眩しい日差しが照りつける通りへと出る。
これで、最大の「盾」は手に入った。神宮寺グループの役員という権力は、今後の復讐において絶大な威力を発揮するだろう。
手元のスマートフォンが震えた。
画面を確認すると、証券口座からの通知だった。昨晩仕込んでおいた暗号資産が、予想通りに急騰のサインを見せ始めている。あと数日もすれば、裏社会の情報網にアクセスし、専門家を雇い入れるための十分な「資金」へと化けるはずだ。盤石な盾と、切れ味の鋭い矛。前世の記憶という設計図の上に、必要なピースが一つずつ組み上がっていく。
真二は画面を消し、冷たい笑みを浮かべた。誰にも聞こえない声で短く呟き、真っ直ぐに前を見据えて歩き出した。




