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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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3/3

第3話 氷の令嬢との邂逅

 午前7時30分。始業にはまだ早い時間だが、神宮寺グループ本社の役員フロアは、冷たい静寂に包まれていた。


 厚い絨毯が足音を吸い込む廊下を、佐野真二は静かに歩いていた。目的の場所は第3会議室。前世の記憶が確かならば、今日この日、ある人物が朝から誰にも邪魔されないよう、その部屋にこもっているはずだ。


 歩きながら、真二は現在の状況を脳内で整理した。


 昨晩仕込んだ暗号資産は、深夜のアメリカ市場の動きに連動し、すでに予測通りの上昇カーブを描き始めている。数日後には最初の軍資金として十分な額になるだろう。麻衣や翔太といった自分に寄生していた者たちを物理的、社会的に追い詰めるための包囲網を築くには、金はいくらあっても邪魔にならない。


 だが、金だけでこの巨大な神宮寺グループを内側から崩すことはできない。圧倒的な「権力」を持つ強力な盾が必要だ。


 歩みを止める。重厚なマホガニーの扉の前に立った。


 エレノア・スペンサー。

 英国の提携先企業から出向してきた、26歳の最年少役員。


 彼女が現在責任者を務めている「D地区新規物流センター」の建材選定プロジェクトは、大詰めを迎えていた。しかし、その実態は決して順風満帆ではない。旧態依然とした日本の組織風土において、若き外国人女性が上席に座ることを快く思わない古参幹部は多い。彼らは表立って反抗することはせず、必要な情報の共有を遅らせたり、現場の細かいニュアンスをわざと曖昧に伝えたりすることで、巧妙に彼女の判断を遅らせ、失策を誘発しようと水面下で動いている。


 前世の真二は、彼女がこのプロジェクトで仕掛けられた罠に嵌められ、社内での発言権を大きく失っていく過程を末端の社員として見ていた。


 真二は短く息を吐き、扉を二回ノックした。


「……アポイントメントは入っていないはずですが」


 扉の向こうから、硬質で冷たい声が響いた。流暢だが、抑揚の一切ない日本語。


「営業第二部の佐野真二と申します。5分だけお時間をいただきたい」


 数秒の沈黙の後、「入りなさい」と短い許可が下りた。


 扉を開けると、広大な会議室の長テーブルの端で、エレノアが一人、タブレット端末と書類の山に囲まれて座っていた。


 仕立ての良いダークネイビーのパンツスーツ。波打つダークトーンのロングヘアは一絲の乱れもなく整えられ、アンティークドールのように白い肌が、朝の青白い光に照らされている。彼女のブルーグレーの瞳が、無遠慮に真二を射抜いた。


「営業部の方が私に何の用ですか。もし現場からの予算増額の直訴なら、直属の部長を通してください」

「いえ、予算の件ではありません」


 真二は扉を閉め、ゆっくりと彼女の対面へと歩み寄った。冷ややかな視線を受け止めても、真二の足取りは少しも乱れない。


「あなたが今ご覧になっている、物流センターの建材耐久テストのデータについてです」


 その言葉に、エレノアのタイピングの手がピタリと止まった。


 彼女の瞳の奥に強い警戒の色が浮かぶのを確認し、真二は静かに続けた。


「大同マテリアルから提出された、ロットBの圧縮強度データ。そのまま承認のサインを出せば、あなたは半年後に致命的な責任を負わされることになります」


 エレノアはゆっくりとタブレットから手を離した。表情に変化はなかったが、胸の前で組まれた腕の指先が、血の気が引くほど強く二の腕を掴んでいるのを真二は見逃さなかった。


 数秒の重苦しい静寂の後、彼女は低く硬い声で問うた。


「……面白いことを言いますね。このデータは昨日上がってきたばかりで、まだ担当チームと私しか閲覧権限を持たない機密事項です。なぜ、一介の営業部員であるあなたがその内容を知っているのですか?」

「社内の噂と、各部署への根回しの動き、そして武藤常務の最近の会食相手のリスト。それらの断片を繋ぎ合わせれば、自ずと答えは出ます」


 真二は彼女のパーソナルスペースを侵さない絶妙な距離感を保ちながら、淡々と告げた。


「あのデータは、偽装されています」


 エレノアの鋭い視線が真二の顔に突き刺さる。


「根拠は?」

「ロットB-4からB-9までの数値のバラツキです。標準偏差が不自然に小さすぎる。現場の測定機器の誤差を最大限考慮しても、これほど均一な数値が連続して出る確率は統計学的にほぼゼロに近い」


 前世で、この問題が発覚した後に徹夜で膨大なデータを洗い直した真二にとって、その数字の違和感は手にとるようにわかっていた。


「意図的に閾値を下回る不良品のデータを弾き、都合の良い数値だけを抽出して平滑化している。いわゆるチェリー・ピッキングです。元データをたどれば、基準値以下の粗悪品が3割は混ざっているはずだ」


 エレノアは視線をタブレットに戻し、画面を素早くスワイプして真二が指摘した箇所を表示させた。数秒間、その目が猛烈なスピードで数字の羅列を追う。


 やがて、彼女は小さく息を呑んだ。


「……確かに。部分的な分散値が、他のロットと比較して異常に均一化されています。単なる優良な結果の範囲を超えている」


 エレノアは顔を上げ、再び真二を見据えた。先ほどの見下すような視線ではなく、底知れない相手の真意を測りかねるような、鋭い観察の目に変わっていた。


「大同マテリアルは、武藤常務の強い推薦でリスト入りした業者です。彼らが私の推進するプロジェクトで、あからさまな偽装を行うと?」

「武藤常務の推薦だからこそです」


 真二は躊躇なく断言した。


「大同の経営状態が悪化しているのはご存知ですか? 帝国データバンクを叩けばすぐに出る情報ですが、彼らはこの大型案件を逃せば数ヶ月で資金繰りがショートする。武藤常務はそれを知った上で、彼らに恩を売るために推薦した」

「だとしても、偽装が発覚すれば彼ら自身も破滅します」

「焦った下請けが、目先のノルマを達成するために不正に手を染めるのはよくある話です。重要なのは、もしこのまま建材が採用され、竣工後に強度不足が発覚した場合、責任を問われるのは誰かということです」


 真二の問いかけに、エレノアは沈黙した。


「……現場の最終決定権者である、私ですね」

「ええ。武藤常務は『下請けの選定にアドバイスはしたが、最終的なデータチェックと決裁を行ったのはエレノア役員だ』と主張するでしょう。彼らは下請けの偽装を積極的に指示したわけではない。ただ、見逃しただけだ。すべては、あなたの『日本の現場に対する見通しの甘さ』として処理される」


 異国の地で、誰も信じられず、孤独に戦い続けていた彼女の足元に仕掛けられた地雷。その導火線に今まさに火が点こうとしている。


「……なぜ、それを私に教えるのですか」


 エレノアの声には、微かな疲労の色が混じっていた。


「あなたもこの会社の社員なら、波風を立てず、古参役員たちのやり方に黙って従っている方が賢明でしょう。私に恩を売ったところで、私にあなたを引き上げるだけの力が残らなければ無意味です」

「私が求めているのは、正当な評価と……少しばかりの権限です」


 真二はそう言うと、手に持っていた革張りのバインダーを開き、一枚のクリアファイルをエレノアの前に差し出した。


「これは?」

「大同マテリアルとの契約を、違約金なしで即刻凍結するためのコンプライアンス条項の解釈案です。彼らが提出したテストデータに『合理的な疑義』が生じた時点で、発注側は第三者機関による再テストが完了するまで契約を一時停止できる。偽装が事実なら、再テストを恐れて向こうから手を引きます」


 エレノアはファイルに目を通した。神宮寺グループの膨大で難解な規約の隙間を縫い、重箱の隅をつつくような法務部の審査すらも撥ね退ける、緻密な論理武装がそこには構築されていた。


「そして、次のページには、大同と同等のスペックを持ち、かつ即座に製造ラインを確保できる独立系メーカー三社のリストと仮見積もりが入っています。いずれも武藤常務の派閥が入り込んでいない、優良な企業です」


 エレノアの目が、驚愕に見開かれた。


 単なる内部告発ではない。法務的なリスクヘッジから、プロジェクトを遅延させないための代替案の確保まで。一介の営業部員が一人で、これほど精緻に立ち回れるものなのか。これを準備するのにどれほどの実務能力と社内政治への精通が必要か、彼女には痛いほど理解できた。


「……佐野真二」


 彼女は初めて、真二の名前をフルネームで呼んだ。その声には、明らかな熱が帯びていた。


「あなたは、一体何者ですか。なぜ、ここまで盤石な準備をして、私に接触してきたのですか」

「先ほども申し上げた通り、ただの営業部員です」


 真二は、感情を読み取らせない薄い微笑みを浮かべた。


「ただ、今の私の直属の上司は、他人の手柄を横取りすることしか能のない男でしてね。このままでは私のキャリアが腐ってしまう。自分の実務能力を正当に評価し、相応の権限を与えてくれる聡明な上司を探していたところです」


 真二はバインダーを閉じ、一歩後ろへ下がって深く一礼した。


「武藤常務を黙らせるためのカードは揃えました。あとは、あなたがどう切るかです。ご検討ください。……では、私はこれで」


 真二は背を向け、迷いのない足取りで会議室の扉へと向かった。


 扉のノブに手をかけた瞬間、背後から声が引き留めた。


「待ちなさい」


 振り返ると、エレノアが立ち上がっていた。先ほどまでの氷のような表情は消え去り、そこには獲物を見つけた狩人のような、あるいは窮地を救う一筋の光を見出したような、強い意志の宿った瞳があった。


「あなたの能力は理解しました。佐野。……今日の昼、時間が取れますか」

「ええ。スケジュールは空けてあります」

「少し、込み入った話をしましょう。この会社のことだけではなく……私個人の問題についても」


 エレノアの言葉に、真二は内心で小さく口角を上げた。


 本国の親族から押し付けられようとしている政略結婚。彼女が今、最も頭を悩ませているもう一つの問題だ。その解決策として、彼女が自分に何を求めてくるか、前世の記憶を持つ真二には痛いほどわかっていた。


「承知いたしました。お待ちしております」


 静かに一礼し、真二は会議室を後にした。


 廊下に出ると、始業時間を迎え、フロアには社員たちの足音とざわめきが響き始めていた。


 真二は時計を一瞥し、自席へと向けて歩き出す。翔太の致命傷となる企画書を提出させ、麻衣の虚栄心を煽るための次の準備に取り掛かる時間だった。

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