第2話 冷徹なる決意
モニターに映るエクセルの表と企画書のドキュメント。D地区の大型商業施設開発コンペの資料が、青白い光を放って佐野真二の顔を照らしていた。
翔太が作った初稿は、何度見返しても酷い出来だった。
売上予測は都合の良い希望的観測のみで構成され、今後確実に発生する人件費と建築資材の高騰リスクが全く織り込まれていない。現場のコスト感を完全に無視した、典型的な机上の空論だ。前世の自分はこれを見た瞬間に頭を抱え、文字通り身を粉にして徹夜で現実的な数字に組み直した。
だが、今は違う。
真二はキーボードに指を這わせる。数字を正しくするのではなく、極めて「美しく」修正していくのだ。
コンペの審査員である神宮寺グループの役員たちが好むのは、耳障りの良い言葉と、右肩上がりの綺麗なグラフだ。彼らは現場の泥臭い現実よりも、短期的な利益と見栄えを重視する。真二はその心理を的確に突き、見た目だけは完璧な企画書を作り上げつつ、根本には致命的な欠陥を仕込んでいく。
例えば、施設の中核となるテナント。翔太は大手アパレルブランドの『アルカディア』を誘致する前提で数字を組んでいる。2021年現在、彼らは飛ぶ鳥を落とす勢いで出店を拡大しているが、真二は知っている。来年の秋、彼らが大規模な粉飾決算を引き起こし、連鎖倒産に近い形で国内市場から姿を消すことを。
真二は、アルカディアの誘致が成功した場合の利益率を、さらに魅力的な数字に上方修正した。役員たちが思わず身を乗り出すようなバラ色の予測だ。そして、万が一の撤退リスクに関するヘッジ条項や違約金の設定を、長大な規約の別の項目に巧妙に紛れ込ませ、実質的に企業側が責任を負わない形へと書き換えた。
建設資材の調達ルートも同様だ。半年後に起きる世界的サプライチェーンの混乱による価格高騰。前世では真二が各所を走り回り、血を吐くような思いで別のルートを確保して事なきを得た。だが今回は、翔太が提案した単一の輸入ルートに完全に依存する形を強調し、それをコストダウンの最大の目玉としてハイライトを当てた。
「……よし」
これでコンペは確実に通る。役員たちはこの見栄えの良い数字に飛びつき、翔太を称賛するだろう。
そして翔太は意気揚々とリーダーとしてプロジェクトを牽引し、半年後、身動きが取れなくなり、莫大な損失を抱えて完全に自滅する。その時、この完璧に見える書類は、翔太の「見通しの甘さと独断」を証明する決定的な凶器へと姿を変える。
保存ボタンを押す。画面の端に反射して映る自分の顔は、驚くほど無表情で、凪いだ水面のように静かだった。
★★★★★★★★★★★
12時半。昼休みを知らせるチャイムが鳴り終わるのとほぼ同時に、デスクの上に伏せて置いていたスマートフォンが短く震えた。
画面には「麻衣」の文字。
夕方か夜に連絡を入れるつもりだったが、向こうから来たのなら都合がいい。真二はあえて三度目のコールまで待ち、ゆっくりと通話ボタンを押した。
「もしもし」
『ちょっと真二! なんでLINEの既読つかないのよ!』
耳をつんざくような甲高い声が響く。周囲の視線を避けるため、真二は立ち上がり、静かな非常階段の踊り場へと向かった。
『今、美容室が終わったところなんだけど。今日の夜の恵比寿のフレンチ、何時に予約してくれたの? 私、新しいワンピース着ていくって言ったでしょ?』
以前の真二なら、ここで慌てふためき、「ごめん、どうしても外せない仕事が入って。代わりに週末、もっといい店に行くから」と平謝りしていただろう。彼女の機嫌を損ねるのが怖かったからだ。
「悪いが、行けない。予約もしていない」
真二は冷たいコンクリートの壁に寄りかかり、感情の乗らない声で答えた。
『はあ!? だから、なんで!? 翔太くんのプロジェクトのキックオフ祝いでしょう!? 私、今日のためにわざわざ有給取ったんだよ!?』
「そのプロジェクトの企画書に致命的なミスが見つかった。お前も知っての通り、俺がその尻拭いをしているところだ。祝賀会なんかやっている状況じゃない」
『何それ。翔太くんは完璧だって言ってたけど。真二の仕事が遅いだけじゃないの? いつも翔太くんの足引っ張ってさ!』
苛立ちを隠そうともしない声。かつては、この声を聞くたびに胸が締め付けられ、必死に自分の無能さを詫びていた。
今となっては、ただの耳障りなノイズでしかない。
「遅いも早いもない。俺が修正しなければ、明日翔太は役員会で大恥をかくことになる。それとも、お前が代わりに数字を計算するか?」
『……っ、私にそんなことできるわけないでしょ!』
「なら黙ってろ」
電話越しに、息を呑む気配が伝わってきた。交際してからの3年間、真二がこんなに冷たく、突き放すような口調で反論したことは一度もなかったからだ。
『な、なにその言い方……。ひどい。私、すっごく楽しみにしてたのに』
少し涙声を作っている。自分が被害者ぶることで相手の罪悪感を煽る、彼女の常套手段だ。
「すまないな。だが、仕事だ」
真二はそれ以上言葉を重ねず、一切の起伏を見せずに言い放った。
『……わかった。もういい! 今日の夜は翔太くんと二人で残念会するから! 真二なんか一生残業してればいいのよ!』
当てつけのようにそう叫び、麻衣は一方的に通話を切った。
耳元で鳴るツー、ツーという電子音を聞きながら、真二は小さく息を吐いた。
どうぞご勝手に。
二人がこれからどうやって自分を出し抜き、嘲笑いながら酒を飲むか、手に取るようにわかる。せいぜい、自分たちが勝者であるかのように振る舞い、安っぽい優越感に浸っていればいい。その足場が砂上の楼閣であることに気づくのは、すべてが手遅れになってからだ。
スマートフォンをポケットにしまい、執務室へ戻る。真二の足取りに重さは欠片もなかった。
★★★★★★★★★★★
午後のフロアは慌ただしい。
真二は自席に戻り、自分の本来の業務である営業部門のデータ集計と次期予算案のベース作成に没頭していた。
指先がキーボードの上を滑る。かつては残業の温床だったこれらの業務も、5年間の泥臭い実務経験と効率化のノウハウが脳に刻み込まれている今の自分にとっては、単なる単純作業に過ぎなかった。
無駄なマクロを組み直し、不要な承認プロセスを迂回する書類の書き方を駆使して、本来なら3日かかる作業をわずか数時間で終わらせていく。
作業を進めながら、真二の脳内は別の思考を走らせていた。
復讐のロードマップだ。
翔太と麻衣への罠は仕掛けた。だが、彼らを破滅させるだけでは足りない。彼らを踏み台にし、二度と誰にも搾取されない絶対的な地位と力を手に入れること。それがこの二度目の人生の目的だ。
力とは何か。
一つは「金」。
そしてもう一つは、この会社を動かす「権力」。
まずは資金が必要だ。真二はブラウザのシークレットウィンドウを開き、現在の仮想通貨のチャートを確認した。2021年6月。現在低迷している特定の暗号資産が、年末に向けて数倍に跳ね上がることを記憶している。来月発表されるアメリカのIT企業の決算や、国内の新興企業の株価の乱高下も正確に把握している。
給与口座にあるなけなしの貯金をすべて、数日後に急騰する銘柄に突っ込む。それが最初の軍資金になる。
キーボードを叩く手が止まる。
「金」の算段はついた。次は「権力」へのアプローチだ。
現在の自分は、一介の平社員に過ぎない。翔太の不正や無能さを暴いたところで、上層部にもみ消されるか、組織の和を乱したという適当な理由をつけて左遷されるのがオチだ。神宮寺グループという巨大な組織の中で、自分を庇護し、同時に利用価値のある強大な「盾」が必要だ。
エレノア・スペンサー。
英国の提携先から送り込まれてきた若き役員。
彼女は優秀だが、日本の旧態依然とした企業文化の中で完全に孤立している。彼女を疎ましく思う古参の役員たちは、水面下で巧妙なサボタージュを行い、彼女の権力を削ぎ落とそうと画策しているはずだ。
前世の記憶が正しければ、来月、彼女が主導する新規プロジェクトで下請け企業による大規模なデータ偽装問題が発覚する。前世ではそれが致命傷となり、彼女は社内での発言権を大きく失った。
今の彼女が喉から手が出るほど欲しているのは、この会社の内部事情と複雑な力学に精通し、実務を取り仕切り、かつ自分を裏切らない手駒だ。
もし自分がそのデータ偽装問題を未然に防ぎ、逆に彼女の評価を高める形で解決に導くことができれば、彼女は自分という存在を無視できなくなる。
(接触するタイミングは、近いな)
真二は内心でそう結論づけ、作業中のファイルを閉じた。
★★★★★★★★★★★
18時。終業のチャイムが鳴る。
真二はPCをシャットダウンし、手際よく鞄に荷物をまとめた。立ち上がり、周囲に短く声をかける。
「お疲れ様でした」
隣の席の同僚が、目を丸くして真二を見上げた。
「え? 佐野、もう帰るのか? 翔太のコンペの件、大丈夫なのかよ」
「ああ。俺の担当分はすべて終わっている。あとは彼自身の仕事だ」
短く返し、真二は振り返ることなくフロアを後にした。背後で「あの佐野が定時で帰ったぞ」というざわめきが起きているのがわかったが、歩みを止める理由はなかった。
エレベーターに乗り込み、1階のロビーへと降りる。自動ドアを抜けると、まだ明るさの残る夕暮れの空が広がっていた。生ぬるい風が頬を撫でる。
前世では、この時間に会社を出たことなど数えるほどしかなかった。いつも窓の外は真っ暗で、疲労で泥のようになった体を這わせるようにして帰路についていた。自分をすり減らした対価は、すべて他人の虚栄心を満たすために消えていった。
駅へ向かう人波に紛れながら、真二は大きく息を吸い込んだ。
麻衣と翔太は今頃、恵比寿のレストランかどこかで、自分を出し抜いた気になって酒を飲んでいるだろう。自分たちの未来が約束されていると信じ切って。
彼らには、これからゆっくりと時間をかけて、最も高い場所まで登ってもらう。そして、一番輝かしい瞬間に、その足場を崩してやる。
そのためには、まず明日、エレノアの抱える爆弾の導火線を断ち切りに行く必要がある。
駅の改札を抜ける真二の足取りは淀みなく、ただ次の一手だけを見据えて前へと進んでいた。




