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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第1話 搾取の果て、そして回帰

 胸の中央を、太く錆びた杭で打ち抜かれたような激痛だった。


 深夜2時のオフィス。フロアの照明はすでに落とされ、佐野真二のデスクにあるPCモニターの青白い光だけが、墓標のように闇の中に浮かんでいた。

 呼吸が浅い。空気が肺に入ってこない。キーボードを叩いていた両手は鉛のように重く、指先から徐々に感覚が失われていく。

 心臓が、異常な速度で痙攣していた。限界はとうに超えていた。ここ数ヶ月、まともな睡眠を取っていない。親友であり同期の翔太から押し付けられた、D地区の大型商業施設開発コンペの企画書の大幅な修正。翔太が作った初稿は現場のコスト感を完全に無視した机上の空論であり、真二はそれを一から組み直し、緻密な収支シミュレーションを徹夜で作成していた。

 それに加え、妻である麻衣のクレジットカードの支払いに充てるための、深夜のデータ入力のアルバイト。限定のブランドバッグに、月々の高額なエステ代。真二の給料だけでは到底賄いきれなくなっていた。

 32歳。身体は悲鳴を上げていたが、立ち止まることは許されなかった。自分が頑張れば、いつか報われる。麻衣も笑ってくれる。翔太も認めてくれる。そう信じて、大量のカフェイン錠剤を水で流し込み、ただひたすらに身を粉にしてきた。


 視界の端が黒く欠け始める中、デスクの脇に置いていたスマートフォンが短く震えた。

 霞む目を凝らし、ロック画面に浮かび上がった通知を見る。


『真二、ごめん。今日友達の家に泊まることになったから帰らない。あと、来月のカードの引き落とし、ちょっと多いかも。よろしくね』


 麻衣からのLINEだった。

 そして、その直後にもう一通。


『悪い真二、明日の役員会議の資料、俺の名前で作っておいてくれたよな? 今回は俺が表に出るから、お前は裏方でしっかり支えてくれ。頼りにしてるぞ』


 翔太からのメッセージ。

 それらの文字列が、薄れゆく真二の意識の中で、ひどく冷たく、無機質なものとして処理されていく。

 入社したての頃、「二人でトップを取ろうぜ」と肩を組んだ翔太。手作りの弁当を持たせてくれた麻衣。いつから彼らは、真二をただの踏み台やATMとしてしか見なくなったのだろうか。


 数日前、取引先への謝罪の帰りに偶然見てしまった光景が脳裏にフラッシュバックした。都内の高級ホテルのエントランス。腕を絡ませ、親しげに笑い合いながら奥のラウンジへと消えていく男女。

 それは間違いなく、麻衣と翔太だった。

 いつもは仕事の愚痴ばかりこぼす翔太が、その時だけは勝者のような余裕のある笑顔を浮かべていた。そして麻衣も、真二には決して見せないような、甘えた女の顔をしていた。

 問い詰める気力すら、その時の真二には残っていなかった。ただ、足元から世界が崩れ落ちていくような虚無感だけがあった。

 自分が身を削って稼いだ金は、麻衣が翔太と着飾って会うための服やバッグに消えていた。自分が徹夜で仕上げた企画書は、翔太の手柄として会社の役員たちに評価されていた。


 ただの、都合の良い養分。搾取されるためだけの存在。

 底抜けのお人好し。

 馬鹿な男。


 激痛が胸から全身へと弾け飛んだ。

 椅子から崩れ落ち、オフィスの冷たいカーペットに頬を打ち付ける。

 呼吸が止まる。

 最後に感じたのは、底なしの徒労感と、自分自身に対する激しい怒りだった。

 もし、もう一度。

 もし、やり直せるのなら。

 二度と、誰にも……。


 意識は、そこで完全に途切れた。


★★★★★★★★★★★



 肺に大量の空気が流れ込み、真二は弾かれたように上体を起こした。


「……っ!」


 全身が汗だくだった。荒い息を吐きながら、無意識に胸を強く掴む。痛みはない。心臓は、規則正しく力強い鼓動を刻んでいる。

 視界のピントが徐々に合い始めた。

 薄暗い部屋。見慣れた単身用アパートの天井。窓の隙間から差し込む、白み始めた朝の光。壁掛け時計の秒針が、静かな部屋の中で単調な音を刻んでいる。テーブルの上には、昨夜飲み残したぬるいコーヒーと、やりかけの仕事の資料が無造作に積まれていた。

 ここは、死んだはずのオフィスではない。

 ベッドの横のサイドテーブルに置かれたスマートフォンに手を伸ばす。画面を点灯させると、眩しい光と共に現在の日時が表示された。


 2021年、6月16日。


 数字を二度、三度と確認する。

 間違いない。今から5年も前の日付だ。

 真二はベッドから降り、よろめく足取りで洗面台へと向かった。鏡を見る。

 そこに映っていたのは、過労で頬がこけ、目の下に濃い隈を作っていた32歳の自分ではない。いくらかの疲労は見え隠れしているものの、まだ肌に張りがあり、生命力を残している27歳の佐野真二だった。


 洗面台の蛇口を捻り、両手で水をすくって顔を洗う。

 冷たい水が、混乱していた思考を急速に冷却していく。

 夢ではない。死の淵で見た幻覚でもない。陶器の感触も、顔を伝う水滴も、すべてが圧倒的な現実味を持っていた。

 自分は、戻ってきたのだ。あの、地獄のような搾取の日々が決定的なものになる、5年前の今日に。


 真二はタオルの端で顔を拭い、洗面台の鏡をじっと見つめた。

 この時期、自分はまだ麻衣と結婚していない。交際3年目で、婚約指輪を渡した直後だ。そして翔太は、真二と同じ部署の平社員。ちょうどこの頃からだ。翔太が巧みに自分の仕事を真二に押し付け始め、要領よく立ち回ることで上層部からの評価を高めていったのは。


 思い出すのは、この先の5年間で味わうことになる泥をすするような屈辱の記憶だ。翔太の致命的なミスをカバーするために取引先で土下座を繰り返した日々。麻衣の際限のない浪費を補うために、睡眠時間を削って働き続けた夜。休日も休むことなく、二人のために自分の時間と労力を搾り出し続けた。

 だが、ただすり減っていたわけではない。その過酷な環境の中で、真二は社内のあらゆるトラブルの火消しを担い、複雑な利害関係を調整し、結果的に役員クラスでなければ把握していないような社内政治の力学や、業界の裏の動向までを実体験として脳に深く刻み込んできた。


 洗面台に置いたスマートフォンが振動した。

 画面には「麻衣」の文字。


『おはよー。今日の夜、翔太くんのプロジェクトのキックオフ祝いだよね? 恵比寿のフレンチ、予約取ってくれた? 私、新しいワンピース着ていくね!』


 メッセージを読み、真二は静かに息を吐いた。

 思い出した。5年前の今日。翔太が初めてリーダーを任されたプロジェクトの祝賀会と称して、なぜか真二が高級レストランの代金を全額支払わされた日だ。

 前世の自分は、「二人が喜んでくれるなら」と、無理をしてクレジットカードを切った。その甘さが、彼らを増長させる始まりだった。


 真二は画面を見つめたまま、スマートフォンを裏返して置いた。

 自分を縛り付けていた愚かな未練や執着は、あの深夜のオフィスで完全に燃え尽きていた。もはや怒りすら湧かない。ただ、彼らがどれだけ浅ましく自分を食い物にしていたかという事実だけが、冷たく澄み切った頭の中に残っている。


「……予約は、キャンセルだな」


 誰に聞かせるわけでもなく呟き、シャワーを浴びる。無精髭を丁寧に剃り落とし、クローゼットを開けた。

 前世では「もったいないから」とほとんど袖を通さなかった、仕立ての良いネイビーの上質なスーツを取り出す。

 シャツに腕を通し、ネクタイを締める。

 再び鏡の前に立つ。

 猫背気味だった姿勢を正すと、180センチを超える長身が強調された。前世の過労で濁っていた瞳は、今は静かな光を宿し、一切の迷いを感じさせない。

 身だしなみを整え終え、真二は自室を後にした。


 初夏の風が心地よかった。通り抜ける風が、火照った頭をすっきりとさせてくれる。

 駅へ向かう道すがら、すれ違う人々の服装や、街角の広告ボードに書かれた年号を見て、5年前の世界であることを改めて実感する。手元のスマートフォンでニュースサイトを開けば、前世で記憶している通りの政治スキャンダルや株価の動きがトップ記事として並んでいた。自分の記憶が、未来を知る強力な武器になることを確信した瞬間だった。

 駅の階段を降りる足取りは、昨日までの自分とは別人のように軽く、そして力強かった。


★★★★★★★★★★★



 神宮寺グループ傘下、中核企業のオフィス。

 始業10分前。真二が自席に鞄を置いた直後、背後から軽い足音が近づいてきた。


「おはよう、真二。早いな」


 翔太だった。

 仕立てのいいスーツを着崩し、自信に満ちた笑みを浮かべている。人当たりの良さそうなその顔の裏に、どれほどの狡猾さと傲慢さが隠されているかを、今の真二は知っている。


「おはよう、翔太」


 真二はゆっくりと振り返り、翔太の目を見据えた。

 声のトーンを落とし、静かに返す。

 その瞬間、翔太の口元の笑みが微かに引きつった。いつもの、少しおどおどした愛想笑いを浮かべる真二とは違う。射抜くような視線に、翔太は無意識に瞬きを増やし、一歩後ずさった。


「あ、ああ……。例の会議の資料だけど、悪い、最終チェックはお前に任せていいか? 俺、このあと部長に呼ばれててさ。夜の店の手配もよろしく頼むわ」


 翔太はペースを取り戻そうと、いつものように自分の仕事を押し付けてくる。

 真二はただ静かに翔太を見下ろした。

 前世なら、「わかった、やっておくよ」と二つ返事で引き受けていた場面だ。


「資料のチェックはやっておく。ただ、夜の店はキャンセルした」

「……は? キャンセル? なんで?」


 翔太の目が丸くなる。


「急用が入ったんだ。それに、祝賀会をやるにはまだ早い。あの企画書、収支計画のところにいくつか粗があったからな」


 淡々と告げる。

 翔太は口をわずかに開けたまま、数秒硬直した。


「粗って……お前、俺の作った数字に文句つけんのかよ」

「文句じゃない。コンペを通すための事実だ。修正はしておく」

「……お前、今日なんか変だぞ」


 翔太は居心地が悪そうに視線を泳がせ、「じゃ、じゃあ頼んだぞ」と早口で言い残すと、逃げるように自席へと戻っていった。


 真二はゆっくりと椅子に座り、PCを立ち上げた。

 彼らが積み上げてきた虚栄心と社内での地位。それを根本から叩き壊すには、感情任せに怒鳴り散らしても意味がない。彼ら自身に高い塔を登らせ、最も見晴らしの良い場所から、自分たちの足場が砂上の楼閣であったことに気づかせるのだ。


 デスクトップ画面が表示されるのを待ちながら、引き出しから手帳を取り出す。

 翔太が提出しようとしている企画書は、3日後の役員会議にかけられる。前世では真二が徹夜で完璧なものに修正し、翔太の手柄となった。

 今回は、修正はする。ただし、役員たちの目には留まらない巧妙な欠陥を残したまま、かつ翔太自身がその欠陥に気づけないレベルの、見た目だけは完璧な資料に仕上げてやるつもりだ。


 ペンを走らせ、今日やるべきタスクをリストアップしていく。

 麻衣への連絡は後回しだ。彼女が高級レストランでの食事を自慢げにSNSにアップする準備をしているなら、直前にキャンセルの連絡を入れる方がいい。


 周囲で同僚たちが出社し始め、フロアが徐々に騒がしくなっていく。

 真二は手帳を閉じ、真っ直ぐにモニターを見据えてキーボードに指を置いた。

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