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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第55話 ルシアの警告

 週末前夜。午後11時。


 いつもの六本木の地下、重厚なオーク材の扉の向こう側には、相変わらず冷え切った静寂が横たわっていた。だが、今夜ばかりはルシアの持ち込んできた情報が、琥珀色の空気を物理的に重くしているように感じられた。


 壁一面に並ぶ古いヴィンテージボトルが、控えめな間接照明を鈍く反射している。煙草と古い革、そして強いアルコールの匂いが混ざり合った退廃的な空気の中で、佐野真二はカウンターの最も奥まった席に腰を下ろしていた。


 手元にあるのは、ストレートのシングルモルト。氷は入れていない。グラスの表面に微かな水滴がつき、ゆっくりと滑り落ちていくのを、真二はただ無言で見つめていた。


「お待たせ。今回は……流石の私も少し骨が折れたわ」


 隣の空席に、微かにスパイシーな香水を漂わせてルシア・カルヴァーリョが滑り込んだ。彼女のシャープなピクシーカットが、薄暗い照明を受けて艶やかに光る。しかし、いつもの気怠げな余裕は鳴りを潜め、そのハスキーな声には微かな疲労と、研ぎ澄まされた緊張感が混じっていた。彼女はバーテンダーに出されたダークラムのグラスをドン、と少し乱暴な手つきで木製のコースターに置いた。


「ヴィクターの動きは追えたか」


 真二がグラスに視線を落としたまま、低い声で問う。


「ええ。追えたというか、彼らが通った後の巨大な『轍』を確認したって表現の方が正確ね」


 ルシアは真二の目を真っ直ぐに見つめたまま、手元の薄いタブレット端末を自ら開き、画面を真二の目の前へと突きつけた。いつものように酒を一口飲んでから気怠げに滑らせるアクションではない。そこには、彼女自身が感じているこれまでにない警戒感とスリルが、強張った指先や異常に速い瞬きといった無意識の身体の動きとして現れていた。


 真二が視線を向けると、画面には世界地図を背景にした、複雑怪奇な蜘蛛の巣のようなネットワーク図が表示されていた。無数の赤い線が、欧米からアジア、そしてカリブ海の島々を縦横無尽に走り、最終的に東京の一点――神宮寺グループへと収束している。


「オメガ・インベストメント。エレノアの叔父であるアーサー・スペンサーが率いる、巨大資本の本体よ」


 ルシアの声から、遊び半分の響きが完全に消えた。


「真二、笑えないわよ。彼らがこの数日間で日本市場に流し込んだ資金、ざっと見積もって武藤常務が数年かけて溜め込んでいた裏金の100倍は下らないわ。しかも、ケイマン諸島、英領ヴァージン諸島、シンガポール……世界中のタックスヘイブンに設立された数十のダミー法人を経由して、出処を完全にロンダリングしている。日本の金融庁の監視網なんて、彼らにとってはただの目の粗いザルね」


 真二は無言で画面をスクロールした。


 神宮寺の傘下企業である東都ロジスティクスや神宮寺マテリアルの役員たちの個人口座へ、いかにして合法的な『コンサルタント料』や『不動産投資の配当』という名目で巨額の資金が振り込まれたか。その経路が克明にトレースされている。彼らは日本の泥臭い社内政治や根回しなど一切行わない。ただ圧倒的な資金力で、必要な人間の忠誠を物理的に買い取っているのだ。額があまりにも規格外であるため、買収された側の役員たちも、もはや倫理や会社への忠誠心などというチャチな天秤を投げ捨てていることが、ログの迅速さから容易に読み取れた。


「資金力だけじゃないわ」


 ルシアは細身のシガーを取り出し、火を点けた。紫煙が真っ直ぐに立ち昇り、換気扇へと吸い込まれていく。


「私がオメガの末端のサーバーに潜り込んで背筋が凍ったのは、彼らの持つ情報網の異常な解像度よ。神宮寺の役員連中の弱み……ギャンブルの借金、愛人のマンションの契約状況、過去の些細な経費の誤魔化しから、家族の個人的なトラブルまで。ありとあらゆるデータが、軍事レベルの暗号化を施されてファイリングされていた。ヴィクターという男、血の通った人間というより、冷徹なアルゴリズムそのものね」


 ルシアはシガーを指に挟んだまま、真二の顔を横から覗き込んだ。


「武藤や佐々木翔太なんて、会社の金庫から小銭をくすねて喜んでいたただのコソ泥よ。でも、アーサー卿とヴィクターは違う。彼らは、ターゲットの首に最も効果的に巻き付く鎖の長さを、1ミリの狂いもなく計算して投げ込んでくる。国家予算レベルの資金という絶対的な暴力と、完璧な情報網。……はっきり言って、今の神宮寺グループが束になっても、正面から勝てる相手じゃないわ」


 ルシアの警告は、極めて冷静で客観的な事実だった。彼女の技術をもってしても、この巨大な構造の全容を把握するだけで精一杯だったのだ。明確な脅威として、オメガが目前に迫っている。


 だが、真二の表情に動揺の色は一切浮かばなかった。


 彼はシングルモルトを一口含み、その強いアルコールの刺激を喉の奥で静かに味わってから、グラスを置いた。


「彼らが圧倒的な強者であることは、最初から分かっていたことだ」


 真二の声は、深い海の底のように静かだった。


「強大な資本と情報で、相手を完全にコントロール下に置く。それが彼らの勝ちパターンであり、彼らが最も信頼している『確実な計算式』だ。だが、絶対の力で盤面を支配できると思い込んでいること自体が、彼らのシステムにおける唯一の脆弱性になる」

「……脆弱性?」


 ルシアが目を細める。


「彼らの計算式は、人間を『数字』と『合理性』でしか評価しない。金で買える者と、買えない者は排除する。その二択だ。役員たちの裏金や保身といった打算なら、彼らの資金力で容易に支配できるだろう」


 真二はタブレットの画面に視線を落とした。赤い光の束が、日本の企業を無慈悲に飲み込もうとしている。


「だが、人間は数字の羅列だけで動くわけじゃない。恐怖、執着、見栄、あるいは恩義や献身。非合理な感情で動く人間を、彼らの完璧な計算式の中に放り込んでやる。精緻な機械ほど、想定外の異物が一つ混入するだけで、全体が機能不全を起こすものだ。俺たちはその『異物』になり、内側から奴らのシステムを食い破る」


 真二はタブレットからゆっくりと視線を上げ、ルシアを静かに見据えた。その暗い瞳の奥で微かに瞬いていたのは、巨大なシステムを解体するための致死量のロジックを組み上げる、極めて純度の高い冷徹な知性だった。


 ルシアは数秒間その横顔を見つめ、やがてたまらなく面白そうに喉の奥で笑った。


「あなたって、本当に底が知れないわ。……いいわ、その『異物』がオメガの巨大な歯車をどう狂わせるのか、最前列で観測させてもらうわよ」


★★★★★★★★★★★


 翌日。


 高く澄んだ秋空の下、大通りのにぎわいを背に黒塀の続く細い坂道を上っていく。いつの間にかざわめきは遠ざかり、しっとりとした情緒を湛えた石畳の路地が顔をのぞかせた。秋の冷涼な空気が肌に心地よく、どこからか微かに金木犀の甘い香りが漂ってくる。その静かな小路を、佐野真二と菊地凛は並んで歩いていた。


 凛はマスタードイエローの薄手のカーディガンに、落ち着いたブラウンのチェックスカートという、秋の風情に溶け込むような装いだった。足元には、磨かれたブラウンのローファーが履かれている。


 真二は昨日、凛に「明日は歩きやすい靴で来い」とだけ伝えていた。神楽坂の石畳はヒールでは歩きにくく、疲れやすいことを知っていたからだ。真二自身はネイビーの上質なハイゲージニットに、チャコールグレーのスラックスという出で立ちだ。休日のラフな格好でありながら、その広い肩幅と無駄のない姿勢は、すれ違う人々の視線を自然と集めていた。


 石畳のわずかな段差や、狭い路地で前から人が来るたびに、真二は無意識のうちに歩幅を調整し、さりげなく自分が外側に出ることで彼女を人混みから守っている。それらの行動に、気負いや恩着せがましさは一切ない。呼吸をするように自然な配慮だった。


 やがて二人は、黒塀に囲まれた古い日本家屋を改装した、隠れ家的な和カフェに入った。手入れの行き届いた中庭が見える窓際の席に座る。店内には微かにほうじ茶の香ばしい匂いが漂い、静かな琴のBGMが外部の喧騒を完全に忘れさせてくれた。


 運ばれてきた温かい抹茶と、季節の栗きんとんを見つめ、凛は嬉しそうに目を輝かせた。


「わあ……素敵な場所ですね。以前来た時は初夏の練り切りでしたけど、秋の栗きんとんも美味しいですね」

「ここの栗きんとんは、砂糖を極力抑えて栗本来の甘みだけで作られている。お前の口に合うかは分からないが」

「いただきます」


 凛は小さな黒文字で栗きんとんを切り分け、口に運んだ。その瞬間、ぱぁっと顔が明るくなる。


「すっごく美味しいです! 栗そのものを食べているみたいで……抹茶の苦味とぴったり合います」


 心底美味しそうに笑う凛の顔を見つめながら、真二は静かに自分の温かいほうじ茶を口に含んだ。


 オメガ・インベストメントという、未知の巨大な敵。エレノアを守り、神宮寺を掌握するための戦いは、これから過去にないほどの苛烈さを極めるだろう。ルシアの報告を受けた昨晩から、真二の脳内では休むことなく次の盤面を構築するための思考が高速で回り続けていた。


 だが今、目の前で嬉しそうに和菓子を頬張るこの純粋な少女の姿が、真二の張り詰めた神経を不思議なほど穏やかに解きほぐしていた。琴の音色と、甘い栗の香り。外界の脅威から切り離されたこの空間で、彼はようやく深く静かな呼吸を取り戻していく。


 ふと、凛が抹茶の茶碗を置き、真二の目を真っ直ぐに見つめてきた。


「……室長」


 その純粋で黒目がちな瞳は、オメガというかつてない強敵を前にして、真二から発せられる微かな緊張感を確かに感じ取っていた。かつては常に他人の顔色を窺って怯えていた少女が、今は真っ直ぐに真二の顔を見つめ、言葉を紡ごうとしている。


「私、大西さんみたいに実務で室長の背中を支えることは、逆立ちしてもできないかもしれません」


 凛は少しだけ視線を落とし、膝の上で両手をぎゅっと握りしめた。しかし、すぐに顔を上げた彼女の表情は晴れやかで、その声には確かな芯が通っていた。


「……でも、もし室長が疲れた時は、せめてこうして……一緒に温かいお茶を飲んで、少しでも休める場所を作りたいです。それが、私が特命室でできる、私だけの仕事だと思っています」


 凛は揺るぎない眼差しで真二を捉えた。


「以前、ここで私が言ったこと、覚えていますか? 室長がどんな敵と戦っていても、私の隣にいる時は、ただの佐野さんでいられるように、私はお茶を淹れ続けます」


 凛は微かに微笑み、テーブルの上の小さな湯呑みにそっと視線を落とした。


 真二は無言のまま、彼女の真っ直ぐな視線を受け止めた。外部のあらゆるノイズが完全に遮断され、目の前にいる彼女の穏やかな呼吸の音だけが、静かに鼓膜を打つ。


「ああ。お前がここにいる限り、俺の足元が揺らぐことはない」


 真二は静かにそう返し、再び湯呑みを手に取った。


 その短い言葉に、凛の目がわずかに見開かれ、やがてその白い頬がほんのりと桜色に染まった。彼女は弾かれたように俯き、「はい」と小さく、しかし嬉しそうに頷いた。


 窓の外では、秋の陽光が中庭の木々を優しく照らし、時折吹き込む風が木の葉を静かに揺らしている。


 嵐の前の静けさの中で、真二は目前に迫る巨大な敵の影を完全に思考の隅へと追いやり、今はただ、目の前の少女が守ろうとしてくれる穏やかな時間を深く味わうことにした。

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