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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第54話 新たなる盤面、未知なる敵

 特命担当室を包む張り詰めた静寂の中、大西明日香の打鍵音が不規則に響いていた。メインモニターの青白い光に照らされた彼女の横顔には、普段の冷静さを欠いた焦りの色が滲んでいる。


「……室長」


 3台の大型モニターから視線を外さず、明日香が声を上げた。


「東都ロジスティクス、および神宮寺マテリアル。両社の取締役会メンバー計14名のうち、過半数を占める8名の個人口座に対する、オフショアからの巨額送金ログを確認しました。資金の出処は巧妙にロンダリングされていますが、経路の暗号化方式が昨日ルシアが特定したものと完全に一致します。……ヴィクターの言葉通りです。彼らはすでに『買われ』ています」


 革張りのソファに深く身を沈めた佐野真二は、手元のタブレットに表示されたリストに視線を落としたまま、小さく息を吐いた。


 送金が行われたのは、昨晩の深夜から未明にかけてのわずか数時間。事前の接触記録も、社内システムを通じた怪しい通信ログも一切残されていない。金融庁の監視網やSWIFTの国際送金ネットワークを巧みにすり抜ける分散送金と、ルシアのハッキング技術をもってしても追跡に手間取るほどの軍事レベルの暗号化。さらに、日本の会社法における利益供与の抜け穴を完璧に突いた、コンプライアンス上の隙を与えない精緻なスキームだ。


 神宮寺の旧体制の人間たちを脅したり、酒食で懐柔したりするような、泥臭い日本の社内政治とは根本的に次元が違う。役員たちの口座へ振り込まれた金額は、彼らが神宮寺グループで一生涯かけて得られる役員報酬の総額を遥かに凌駕していただろう。忠誠心や愛社精神などという曖昧な概念は、絶対的な数字の暴力の前では紙屑も同然だ。完全に外部のプロフェッショナルなルートのみを使って、一夜にして中核企業の意思決定機関を文字通り札束で殴り、乗っ取ったのだ。圧倒的な、そして無慈悲な資本の暴力だった。


 真二は目を閉じ、自身の脳内にある『前世の記憶』を急速に検索した。


 2021年の秋。前世の神宮寺グループは、武藤常務をはじめとする旧体制の派閥が依然として実権を握り、ゆっくりと腐敗を深めていた時期だ。海外の巨大資本による敵対的買収など起きていないし、アーサー・スペンサーという男が日本市場にこれほど直接的かつ暴力的な介入をしてきた事実も存在しない。


 記憶という名の設計図には、今のこの状況はどこにも描かれていなかった。


(……俺が、変えたのか)


 真二はゆっくりと目を開けた。


 佐々木翔太を社会的に抹殺し、武藤常務を追放し、エレノア・スペンサーを神宮寺のトップに据えた。それは、腐敗した古い家屋を自らの手で解体し、新しく強固な基礎を打ち直すための必然だった。しかし、旧体制という防風林を根こそぎ切り倒したことで、本来なら数年先まで届くはずのなかった「オメガ・インベストメント」という巨大な暴風雨が、前倒しで、しかも直接的に吹き込んでくる結果を招いたのだ。


 歴史の分岐点。


 これから先の未来は、前世の記憶という「答え合わせ」が一切通用しない、完全な未知の領域だ。前世で組織の歯車として搾取され続け、ただ疲労と絶望の中で死んでいった彼にとって、「先の見えない未来」は恐怖以外の何物でもなかったはずだ。だが、今の真二の胸の奥底にあるのは、不思議なほどの静寂だった。失われたアドバンテージを惜しむような未練もなく、あるのは極めて研ぎ澄まされた冷徹な思考と、自らの手で運命を切り拓くという生の実感だけだった。


「……大西」


 真二の低く冷たい声に、明日香のタイピング音がピタリと止まった。


「買収された8名の役員について、法務的な弱点や個人的なスキャンダルの洗い出しは済んでいるか」

「はい。武藤常務の残党調査の際にリストアップ済みです。いつでも金融庁やメディアにリーク可能な状態にパッケージングされていますが……」

「無駄だ。破棄しろ」


 明日香がわずかに眉をひそめた。


「彼らを脅し、寝返らせるためのカードにはならないと?」

「ヴィクターは、彼らに一生遊んで暮らせるだけの退職金を先渡しした。今さら社内での地位や名誉を脅かしたところで、痛くも痒くもない。むしろ、中途半端な告発はオメガ側にこちらの情報網の手口を晒すだけだ。切れないカードをちらつかせるのは三流のやることだ」


 真二はタブレットをローテーブルに置いた。手元にある限られた手札と知略だけで、この強大な敵を相手に盤面を支配するしかない。


「ルシアに連絡を取れ。オメガの資金ルートの追跡は一旦打ち切り、ヴィクター本人の物理的な行動履歴の監視にリソースを集中させろ。どんなにシステム上で痕跡を消しても、人間が動く以上、必ずどこかに物理的な『摩擦』が生じる。そこを突く」


 真二の迷いのない指示に、明日香は小さく頷き、再びキーボードに向かった。



★★★★★★★★★★★


 その日の夜。都心の高層ホテルに構えられたプライベートレストランには、生演奏の弦楽四重奏が静かに溶け込んでいた。磨き上げられた巨大なガラス窓の向こうで、東京タワーがオレンジ色の光を放っている。


「ヴィクターが動いたわね」


 対面に座るセレナ・デイヴィスが、シャンパングラスを傾けながら、不敵な笑みを向けてきた。


 今夜の彼女は、大胆に背中が開いた漆黒のシルクドレスを纏っていた。健康的なブロンズ肌がキャンドルの光を浴びて滑らかに艶めき、纏う甘くスパイシーな香水が、運ばれてきたばかりのオードブルの香りを邪魔しない絶妙なラインで真二の鼻腔をくすぐる。


 周囲には、週末の夜を楽しむエグゼクティブたちの控えめな談笑が響いているが、二人のテーブルの周辺だけは、特有のヒリついた空気が支配していた。


「情報が早いな。あなたのファンドも、すでに防衛線を張っている頃か」


 真二は仕立ての良いダークネイビーのスーツ姿のまま、表情一つ変えずに答えた。


「当然よ。ウォール街でも、ヴィクターの名前を聞いただけで顔を青くする連中がいっぱいいるわ。オメガの『死神』。彼が通った後には、ペンペン草一本生えない。でも……」


 セレナは熟成されたピノ・ノワールを一口含み、ゆっくりと飲み込んでから口を開いた。


「彼らが買い集めているのは、神宮寺の中核企業だけじゃない。……狙いは物流網の特許と、あの新素材の開発データね。それ以外の事業や、そこにぶら下がる何万人もの社員なんて、彼らは最初から視界にすら入れていないわ。アーサー・スペンサーにとって、企業は切り刻んでしゃぶるだけの数字の塊に過ぎないもの」


 真二は冷たいペリエのグラスを手に取り、淡々と同意した。


「日本の古い企業風土は、これまで複雑な株式の持ち合いと強固な取引先ネットワークで敵対的買収を防いできた。だが、彼らはそんなしがらみを札束で物理的に殴り壊している。力押しだが、極めて合理的だ。だが、どんなに洗練された力押しでも、強引な手順を踏めば必ずシステムに綻びが出る」

「そうね。でも、だからこそ面白いじゃない?」


 セレナはふっと笑うと、テーブルの下でハイヒールの先を真二の脛へ滑らせ、その隙を窺うように熱い視線を向けた。


 上質な生地越しに、彼女の挑発的な体温と、マネーゲームに対する獰猛な渇望が伝わってくる。


「真二。あのオメガが本気で神宮寺を喰いに来たわ。エレノア・スペンサーの薄っぺらい盾じゃ、あの狂暴な資本力は防げない。……どうする? このままあの泥舟と一緒に沈むつもり? いっそ、私のファンドと手を組んで、ウォール街の力でオメガの喉元を食い破ってみる?」


 魅惑的な、そして極めて好戦的な提案。セレナの瞳は、オメガの強大さを認めつつも、彼女自身がこの未曾有のマネーゲームに参入して一儲けしようとする、肉食獣としての狩猟本能にギラギラと輝いていた。真二の頭脳を自分の手駒として組み込めれば、勝機は十分にあると踏んでいるのだ。


 真二は足元の感触と彼女の提案を冷静に受け止めながら、フォークを手にして鴨のローストを口に運んだ。


 厚みのある肉の断面は美しいロゼ色に染まり、完璧な火入れによる鴨の甘みと、ベリーのソースの酸味が舌の上で交わる。それをゆっくりと味わってから、真二はそっとナイフとフォークを置いた。


「魅力的な提案だが、お断りだ」


 絶対零度の声だった。


「俺は、誰の飼い犬にもならない。それに、俺の盾はまだ砕けちゃいない」

「……本気で、あのアーサー卿とヴィクターを相手に、今の神宮寺の持ち札だけで盤面をひっくり返すつもり?」


 セレナが興味深そうに目を細める。


 真二の瞳の奥に、底知れない静かな光が宿った。


「ひっくり返すのではない。新しい盤面を用意する。彼らが、そこでしか踊れないような精緻な舞台をな」


 数秒の沈黙の後。

 セレナは「はぁ」と大げさな溜息を吐き、そして、たまらなく嬉しそうに喉の奥で笑った。


「あなたって、本当にどうしようもない男ね。底が見えないにも程があるわ」


 彼女は真二の脛からゆっくりと足を離し、艶やかな唇を舐めてワイングラスを持ち上げた。


「いいわ。今日のところはそういうことにしておいてあげる。でも、私がオメガの資金力に寝返らないとは限らないわよ? 投資家は、常に勝ち馬に乗るものだから」

「その時は、あなたも一緒に盤上から引きずり下ろすだけだ」


 真二の容赦のない言葉に、セレナの笑みはさらに深くなった。


「楽しみにしてるわ。あなたのその冷たい顔が、絶望に歪むのか、それとも……あの死神に一泡吹かせるのか」



★★★★★★★★★★★


 深夜。都心のサービスアパートメントの分厚い扉を開けると、ほのかな出汁の香りが漂ってきた。


 昆布と鰹節が丁寧に引かれた、柔らかく優しい匂い。エントランスの冷たい無機質な空気とは対照的な、生活の温もりを感じさせる匂いだった。真二が以前作ったレシピを、不器用なりに忠実に再現しようとした形跡がそこにある。夜遅くまで帰らない自分を待って、何度も味見を繰り返しながら作ってくれたのだろう。


「……お帰りなさい、室長」


 キッチンから顔を出したのは、菊地凛だった。エプロン姿の彼女の小さな手には、菜箸が握られている。


「なぜここにいる」


 真二が靴を脱ぎ、腕時計を外しながら尋ねると、凛は申し訳なさそうに視線を泳がせながらも、逃げずにその場に立っていた。


「あ、あの、大西さんから、室長が最近あまり食事を摂られていないと聞いて……。勝手に上がり込んで、すみません。でも、夜食のおうどん、用意してあります」


 彼女の足元では、茶トラのレオが「ミャウ」と鳴きながら、真二の革靴のつま先にすり寄ってくる。真二は屈み込んで、その小さな頭を一度だけ撫でた。


 前世の記憶にはない、未知の強大な敵。計算外の事態。だが、キッチンで湯気を立ち上らせる不器用な少女も、足元で靴を甘噛みする小さな毛玉も、かつての無惨な死の記憶には存在しない。


 彼が自らの手で書き換えた、現実の温もりだった。


「……うどんは、あつあつで頼む」


 真二が短く告げると、凛の顔にふにゃりとした安堵の笑みが広がった。


「はいっ!」


 給湯室へと戻る彼女の背中を見送りながら、真二はネクタイをゆっくりと緩めた。冷徹な決意を胸に、彼は次のピースの配置を脳内で静かに描き始めていた。

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