第53話 見えない侵略
月曜日の早朝。
都心のサービスアパートメントは、厚い遮音ガラスによって外部の喧騒から完全に切り離されている。薄暗い朝の光が差し込むキッチンで、佐野真二は人工大理石のワークトップの前に立ち、静かに朝食の支度を整えていた。
小鍋から立ち上る湯気の微かな音と、規則正しく刻まれる包丁の音が、密室の空気を心地よく満たしている。
土鍋の蓋の穴から、勢いよく白い蒸気が噴き出している。米が最も甘い香りを放つ瞬間を見極め、真二はコンロの火を極小に落としてタイマーをセットした。
隣の魚焼きグリルでは、厚く切り出された紅鮭がチリチリと脂を落としながら香ばしく焼かれている。遠火の強火で皮目をパリッとさせ、身にはしっとりとした水分を残す。焼き上がった鮭をまな板に移し、熱いうちに薄刃の包丁で丁寧に骨を取り除き、箸で大ぶりにほぐしていく。ほぐれた身から湯気とともに立ち昇る香ばしい匂いが、食欲を強く刺激する。
小鉢には、数日前に仕込んでおいた自家製のイカの塩辛を用意する。新鮮なスルメイカの身を細切りにし、濃厚な肝と少量の粗塩、隠し味の三河みりんで和え、冷蔵庫で寝かせておいたものだ。仕上げに、青柚子の皮をほんの少しだけすり下ろして散らす。濃厚な肝の旨味に、柑橘の爽やかな香りが鮮やかな輪郭を与えていた。
もう一つの小皿には、紀州南高梅の梅干し。薄い皮の奥にたっぷりと詰まった果肉が、見るからに柔らかく艶を帯びている。
タイマーが鳴り、土鍋の火を止める。
十数分の蒸らし時間を経て重い蓋を開けると、艶やかに光る米粒が、一粒一粒しっかりと立ち上がっていた。
真二は木製の飯台に米を移し、手水で軽く両手を濡らす。指先に粗塩をほんの少し馴染ませ、熱々のご飯を掬い取った。
一つは、ほぐした紅鮭をたっぷりと中心に詰める。もう一つは、上質なちりめんじゃこと実山椒を酒と薄口醤油でふっくらと炊き上げた、自家製のちりめん山椒を全体に混ぜ込んでから手にとる。ピリッとした山椒の香りが、温かいご飯の熱でふわりと立ち上がった。
米粒を決して潰さないよう、両手の中にふんわりとした空洞を作り、三回だけ、優しく回転させるようにして形を整える。有明産の海苔をパリッと巻きつければ、完璧なバランスを持ったお握りが完成した。
最後に、昆布と煮干しで引いた出汁が入った小鍋を火にかける。沸騰する直前に、手で無造作にちぎったキャベツを放り込む。葉と芯の甘みがじんわりと溶け出し、鮮やかな緑色が少しだけ透き通った瞬間に火を止め、信州の白味噌と八丁味噌を独自の配合でブレンドしたものを静かに溶き入れる。
「……おはようございます」
換気扇の低い音に混じって、寝ぼけ眼の菊地凛がパーテーションの奥から姿を現した。大きめのルームウェアの袖から指先だけを出し、目をこすっている。
「顔を洗ってこい。すぐに食べるぞ」
真二が手元から視線を外さずに告げると、凛はキッチンに並んだ和食の数々にパッと目を輝かせた。
「お握り……! キャベツのおみそ汁も、すごくいい匂いがします」
数分後、ダイニングテーブルに向かい合って座り、凛は鮭のお握りを両手で持ち上げた。一口かじると、サクッとした海苔の食感の直後に、ふんわりと空気を含んだ米が口の中でほどけ、香ばしい鮭の脂と絶妙な塩気が一気に広がる。
「美味しい……。お米が一粒一粒生きてるみたいです。それにこのおみそ汁、キャベツがすごく甘くて……」
「キャベツは火を通しすぎると食感が死ぬ。余熱で十分だ」
真二はちりめん山椒のお握りを口に運びながら、淡々と答えた。ピリッとした実山椒の刺激が、朝のまどろみを鋭く覚醒させていく。塩辛を少しだけ箸で摘み、その濃厚な旨味を味わう。
食事の間、真二の目は手元のタブレットに向けられていた。
平穏な朝食の風景とは裏腹に、画面に表示されたロンドン市場の動向と暗号資産のチャートは、不気味なほどの静けさを保っていた。
嵐の前の静けさ。
エレノアの叔父、アーサー・スペンサーが放った刺客が、間もなくこの東京に降り立つ。真二は、冷たい麦茶で喉を潤し、静かに戦闘の準備を整えていた。
★★★★★★★★★★★
午前10時。
神宮寺グループ本社、特命担当室。
分厚い防音扉に守られた密室の空気は、物理的に温度が下がったかのように冷え切っていた。空調の低い駆動音さえも、張り詰めた緊張感の中に吸い込まれている。
「室長」
メインモニターを凝視していた大西明日香から、いつもと変わらぬ、しかし冷徹な報告が上がった。だが、その声の奥には、彼女らしからぬ微かな緊迫感が滲んでいる。絶え間なく続いていた精緻なタイピング音が、今は不規則に途切れていた。
「東都ロジスティクス、および神宮寺マテリアルの株式に、異常な買い注文が集中しています。市場が開いた直後から、一切の押し目を作らずに一直線に買い上げられています。現在、両社ともストップ高で張り付きました。この数分間で動いた資金量だけで、我が社の一部門の時価総額に匹敵します」
真二は革張りのソファから身を起こすと、静かな足取りで明日香のデスクへと近づき、その肩越しにモニターの画面を覗き込んだ。画面には、垂直に立ち上がる異常なチャートの線が赤々と表示されている。市場のセオリーを完全に無視した、暴力的なまでの買いだ。
「買いの主体は」
「複数の海外ファンドを経由していますが、最終的な資金の出所は完全に暗号化されています。しかし、この資金規模と手口……。通常の投資ファンドのアルゴリズムではありません」
その時、真二のスマートフォンの画面が点灯した。ルシアからの着信だ。
「俺だ」
『真二、これ狂ってるわ』
電話の向こうのルシアの声は、いつもの気怠げな余裕が完全に消え去っていた。タイピングの乾いた音が、彼女の焦燥を裏付けるように激しく響いている。
『市場外での相対取引のログを追ってるんだけど、既存の大株主たちが次々と持ち株を手放してる。相場より3割も高いプレミアムをつけて、現金一括で買い取ってるのよ。損益分岐点なんて全く無視。ただ圧倒的な資金力で、市場のルールごと殴りつけてる』
「神宮寺本体の持ち株比率を上回るまで、どれくらいだ」
『このペースなら、明日の昼には過半数を取られる。……真二、相手は企業を『買う』んじゃないわ。物理的に『制圧』しにきてるのよ』
真二は通話を切り、冷たい目を向けた。
武藤のような社内の権力闘争や、これまでのファンドの動きとは明らかに次元が違う。これほど冷酷で、これほど理不尽な買収劇は、真二の記憶のどこを探しても見当たらなかった。世界を牛耳る『オメガ・インベストメント』という規格外の怪物が、ついに日本にその牙を剥き、神宮寺を丸ごと蹂躙しにきたのだ。
その時、特命担当室の重厚な扉が、ノックもなしに静かに開いた。
入ってきたのは、エレノア・スペンサーだった。彼女の表情は、かつての氷のような冷徹さを保とうとしていたが、ブルーグレーの瞳の奥には、隠しきれない焦燥が揺らいでいた。
「佐野。彼が来ました」
エレノアの声とほぼ同時に、彼女の背後から一人の男が音もなく姿を現した。
寸分の乱れもないミディアムグレーのスリーピースを、まるで鎧のように完璧に着こなしている。年齢は40代前半だろうか。整った顔立ちをしているが、その顔には表情筋が存在しないのではないかと思わせるほど、完璧な無表情が貼り付いていた。獲物を見定める猛禽類を思わせる彼の灰色の瞳は、まるでガラス玉のように冷ややかに、一切の光を反射せずにこちらを見据えている。
「初めまして、エレノアお嬢様。そして、佐野室長」
ヴィクター。
アーサーの懐刀であり、オメガ・インベストメントの冷酷な執行人。
その声は、驚くほど滑らかな日本語だった。しかし、声のトーンが一定すぎて、まるで精巧なAIが合成した音声を聞いているような不気味さがあった。彼の存在そのものが、この部屋の温度をさらに数度下げたように感じられる。
「アポイントメントもなしに社長室の奥まで入り込むとは、オメガの社員は随分と礼儀をわきまえているようですね」
エレノアが冷たく言い放つが、ヴィクターは微かに首を傾げただけだった。
「ご無礼をお許しください。ですが、もはやアポイントは不要かと判断いたしました。ここは間もなく、我々の『自室』になりますので」
「……何?」
「アーサー卿からの決定事項をお伝えします。東都ロジスティクス、および神宮寺マテリアルは、今週末をもってオメガ傘下の別企業へ事業譲渡されます。神宮寺グループ本体は、不要な部門を解体した後、オメガのアジア拠点として再編します。お嬢様には、その移行プロセスのサインのみをお願いすることになります」
一切の感情を交えない、ただの業務連絡。
だが、それは神宮寺グループという巨大企業の完全なる解体と、エレノアからすべての権限を剥奪するという残酷な宣告だった。長年かけて築き上げられた企業風土も、社員の生活も、彼らにとっては帳簿上の数字の羅列に過ぎない。
「ふざけないで。私は神宮寺の代表取締役です。取締役会の承認もなしに、中核企業の切り売りなど不可能です」
エレノアの反論は正論だった。しかし、ヴィクターの揺るぎない態度の前では、それがひどく無力な響きを持っていた。
「取締役の過半数は、すでにこちらの提案に『同意』しております」
ヴィクターが、エレノアの言葉を静かに遮った。
「今朝方、彼らの個人口座に、今後の人生を豊かに過ごすための十分な退職金が振り込まれました。資本とは、そういうものです。抵抗は、無駄な時間とコストを消費するだけです。サインを拒まれても、我々は別の手段で権限を移行させるだけの手はずを整えております」
ヴィクターの冷たい視線が、エレノアから真二へと移った。
「佐野室長。あなたがこれまで行ってきた社内の『お掃除』は、非常に有益でした。おかげで、神宮寺を解体する手間が省けました。アーサー卿も、あなたの実務能力を高く評価しておられます。大人しく手を引くのであれば、オメガでの然るべきポジションをご用意します」
それは、降伏勧告ですらなかった。靴の裏についた泥を払う前に、一応声をかけてやったという程度の、絶対的な力を持つ者特有の傲慢さ。
真二は、ポケットに手を入れたまま、ヴィクターのガラス玉のような目を真っ直ぐに見据えた。
恐怖も、怒りもない。ただ、底なしの暗い海のような静けさだけがそこにあった。
「丁寧な提案、感謝します」
真二の低く落ち着いた声が、部屋の冷たい空気に波紋を広げた。
「だが、手続きに瑕疵のある決議は無効だ。それに、彼らが株を手放す前に、こちらにも打つ手はある」
ヴィクターの無表情の奥で、ほんのわずかに、眼球が動いた。
「……無駄な抵抗はお勧めしません。すべてを失うことになりますよ」
「それは、市場が開いてからのお楽しみだ」
ヴィクターはそれ以上何も言わず、機械的な動作で一礼し、足音も立てずに特命担当室を後にした。
扉が静かに閉まり、張り詰めた静寂が戻る。
「佐野……」
エレノアが、微かに震える声で真二を見た。圧倒的な資本という暴力の前に、彼女の矜持すらも押し潰されそうになっているのがわかる。
真二はテーブルの上のタブレットを手に取り、画面の向こう側に広がる見えない戦場を見据えた。
「大西。関連ファンドのトラフィックをすべて洗い直せ。ルシアにも、オメガのフロント企業のサーバーへのハッキングを継続させろ」
真二の瞳の奥に、底知れない暗い深淵が広がっていく。前世の知識というチートは失われた。だが、それゆえに、彼の冷徹な知性はかつてないほど鋭く研ぎ澄まされようとしていた。
「買収が完了する前に、こちらの『毒』を飲ませる」




