第52話 英国からの黒船
秋の気配がようやく深まり始めた、火曜日の午前10時。
神宮寺グループ本社の最上階に位置する社長室の奥。分厚い防音扉に守られた特命担当室には、外部の焦燥と喧騒から完全に切り離された、穏やかで静謐な時間が流れていた。
エレノア・スペンサーが正式に社長に就任して数日。武藤常務をはじめとする旧体制派閥が一掃された社内は、まだ巨大な嵐が過ぎ去った直後の混乱と再編の只中にある。しかし、その中枢であるこの部屋だけは、空調の低く一定な駆動音に混じって、今日は不規則で軽やかな金属音が微かに響くのみだった。
「チリッ……チリン」
フローリングが敷かれたスペースの中央で、生後3ヶ月を迎えた茶トラの子猫、レオがピタリと動きを止めていた。
丸く黒目がちな瞳は驚きに見開かれ、ピンと尖った耳が忙しなく前後左右に動いている。彼の首には、先ほど菊地凛がそっと装着したばかりの、深いネイビーブルーの革製カラーが巻かれていた。
上質な柔らかい革の中央には、これまでつけていた布製カラーから付け替えられた、小さな銀色のネームタグと鈴が光っている。
布とは違う、革独特の少し硬い感触が首回りに触れるのがむず痒いのか、レオは短い後ろ足を器用に持ち上げ、カリカリとカラーを掻き落とそうとした。しかし、ふっくらとし始めた首回りの毛と絶妙なサイズ感に阻まれ、短い足はむなしく空を切る。バランスを崩したレオは、そのままコロンと仰向けにフローリングへ転がった。
「ああっ、ごめんなさい、レオちゃん。革の硬さが嫌だったかな……」
膝をついていた凛が、心配そうに眉を下げて手を伸ばそうとする。
しかし、その拍子にレオの首元で「チリチリ」とお馴染みの鈴の音が響いた。聞き慣れたその音に安心したのか、あるいは単に飽きたのか、レオは首回りの違和感など一瞬で忘れたように、バネのような勢いで跳ね起きた。そして、凛のカーディガンのポケットから半分はみ出していた羽つきの猫じゃらしに向かって一直線に飛びかかった。
「わっ! レオちゃん、こら、今は遊ぶ時間じゃないですよ!」
凛にじゃれつくレオの首元で、銀色の鈴が楽しげに鳴り続ける。
その無防備で愛らしい光景に、革張りのソファに座っていたエレノアの口角がわずかに緩んだ。仕立ての良いグレーのパンツスーツに身を包んだ彼女のブルーグレーの瞳には、かつてこの部屋で常に纏っていた、周囲を拒絶するような氷の緊張感はない。日本での熾烈な権力闘争を生き抜き、自らの手で玉座を掴み取った彼女は、今や真のリーダーとしての落ち着きを放っていた。
「……似合っていますね。ネイビーの革が、茶トラの毛色によく映えています」
エレノアが静かにこぼすと、対面に深く腰を下ろしていた佐野真二はブラックコーヒーのマグカップをテーブルに置き、手元のタブレットから視線を上げた。
「大西が見立てたそうだ。耐久性と軽さを計算して選んだらしいが」
真二の言葉に、部屋の奥で3台の大型モニターに向かっていた大西明日香が、タイピングの手を止めることなく淡々と答えた。
「はい。イタリア製のカーフレザーです。重量わずか6グラム。猫の頸椎への負担を最小限に抑えつつ、十分な強度を保持しています。鈴の音量も、聴覚へのストレスを考慮して内部の金属球をミリ単位で調整しました」
「……相変わらず、無駄にオーバースペックだな」
真二が短く息を吐き、再びマグカップに手を伸ばそうとした、その直後だった。
カタカタと一定のリズムで響いていた明日香の打鍵音が、不意にピタリと止まった。
特命担当室に、ピンと張り詰めたような沈黙が落ちる。
「……室長」
明日香の声から、日常の温度が完全に消え去っていた。無機質で、しかし極限まで緊張を孕んだ響きが、部屋の空気を一変させる。
真二はマグカップに伸ばしかけた手を止め、ゆっくりと明日香の背中を見据えた。
「どうした」
「社内ネットワークの監視システムが、微弱な異常値を検知しました。ルシア・カルヴァーリョから共有されていた監視対象のダミーファンド群が、極めて不穏な動きを見せています」
真二の瞳から、わずかな温もりが瞬時に消え去り、冷たく暗い海の底のような色が広がった。彼はタブレットの画面をスワイプし、暗号化された通信アプリから転送されてくるログを全画面に展開した。
「状況は」
「神宮寺グループの複数の傘下企業に対して、市場外で不自然な資金の動きが開始されました。現在表面化しているトランザクションは小口の分散処理のみで、全体像は掴めません。ですが、背後にある資金のツリー構造は複雑を極め、暗号化のレイヤーは軍事レベルです。単なる投機目的や、武藤常務の残党などではありません。明確な意図を持って、神宮寺の防壁の綻びを探っているような……薄気味悪い動きです」
明日香のモニターの一つが赤く明滅し、複雑なツリー状の資金フローが滝のように流れ続けている。
「資金の最終的な出処は」
「……ダミーの壁が厚すぎます。ですが、大元はロンドンのサーバーを経由している可能性が極めて高いです」
明日香の報告に、エレノアの顔色が変わった。
ロンドン。その言葉が意味するものを、この部屋にいる全員が理解していた。
その瞬間、エレノアの私用スマートフォンが、テーブルの上で短く、しかしひどく重々しい振動音を立てた。
社長室の直通回線でも、社用端末でもない。彼女が個人的な、極めて限られた人間としか繋げていない端末。画面に表示された発信元の名前を見て、エレノアの透き通るような白い肌からスッと血の気が引いた。
『Arthur Spencer』
エレノアの実の叔父であり、英国の名門スペンサー家の現当主。そして、世界中の市場を飲み込む巨大複合企業『オメガ・インベストメント』のトップ。
エレノアは小さく息を吸い込み、真二と一瞬だけ視線を交わした。真二は無言のまま、わずかに顎を引いた。どんな内容であれ、受け止める準備はできているという意志表示だった。
エレノアは発信ボタンをスワイプし、端末を耳に当てる。
「……エレノアです」
『――見事な手際だった、と言っておこうか』
電話の向こうから響いたのは、ロンドンの分厚い曇り空を思わせる、重く、底冷えのする低い声だった。英語の響きには、相手の感情を一切読み取らせない冷酷な合理性だけが詰まっている。
『旧態依然とした日本の経営陣を内部から崩壊させ、自らトップに座る。我々スペンサー家の血を引く者として、及第点のゲームだ』
「ゲームではありません。私は、神宮寺グループを正しく機能させるために……」
『無駄口を叩くな』
アーサーの声が、エレノアの反論を鋭く断ち切った。静かだが、絶対的な支配者の響きだった。
『お前が手に入れたその箱庭は、巨大な利益を生む。だが、今の神宮寺の心臓部には、我々の預かり知らない「異物」が入り込んでいるようだな』
エレノアの肩が、微かに強張った。アーサーの言う「異物」が、隣に座る佐野真二を指していることは火を見るより明らかだった。
『得体の知れない日本人に実権を握らせ、自由に泳がせておくほど、オメガは寛容ではない。日本での子供じみた泥遊びは終わりだ。古い玩具箱を整理する時間はもうない。来週、お前の元にヴィクターを送る』
ヴィクター。
その名を聞いた瞬間、エレノアの背筋を冷たい悪寒が駆け抜けた。
かつて本国で彼女が一度だけ目撃した、アーサーの懐刀。寸分の乱れもないスリーピースを鎧のように着こなし、獲物を見定める猛禽類のような灰色の瞳をした、感情の起伏が一切失われた男。彼が通り過ぎた交渉の場には、文字通り何も残らない。対象となる企業を合法・非合法問わずに完膚なきまでに解体し、有用な特許や資産だけをオメガに吸収しては、残りの抜け殻を冷酷に捨て去ってきた。凍りつくような冷気だけが残ると噂される、オメガの絶対的な執行人だ。
彼が動くということは、神宮寺グループという組織そのものを根こそぎ解体し、オメガの完全にコントロール下に置くことを意味している。
『神宮寺の再編と解体は、今後オメガ・インベストメントが直接主導する。お前はただ、ヴィクターの指示通りに動く美しい飾り人形であればいい。……分かったな、エレノア』
反論の余地など一切与えない通告。通話は、一方的に切断された。
「ツー、ツー」
無機質な電子音が、静まり返った特命担当室に微かに響く。
エレノアはスマートフォンをゆっくりとテーブルに置き、伏せていたブルーグレーの瞳を上げた。その目には、再び孤独な戦いを強いられる者特有の、強烈な緊張感が走っていた。彼女の両手が、膝の上で微かに震えている。
「……叔父からです。来週、本国からエージェントが来日します。神宮寺グループの経営権を、実質的にオメガの支配下に置くために」
エレノアの言葉に、部屋の空気はさらに数度下がった。
真二は無言のまま、窓の外に広がる東京のビル群に視線を向けた。
正体不明の巨大資本の影、そして来週来日する凄腕の執行人。武藤常務のような保身と見栄で動く相手とは根本的に次元が違う、文字通りの『黒船』だ。
前世の記憶に、こんな事態は存在しなかった。武藤常務が権力を握り続けた神宮寺グループは、ゆっくりと沈みゆく泥船であり、オメガのような巨大資本が直接牙を剥く対象ではなかったはずだ。自分が歴史を変え、不純物を一掃して価値を高めたことで、図らずも本国の欲望を強く刺激してしまったのだろうか。
彼らが持つ圧倒的な資本と情報網の前に、自分たちが築き上げたばかりのこの城は、どれほどの防衛力を持っているのか。
真二は、ゆっくりと視線をエレノアに戻した。
その瞳の奥には、恐怖も焦燥もない。ただ、次なる巨大な標的を定めた肉食獣のような、冷たく暗い炎だけが静かに燃え上がっていた。
「相手が世界の市場を牛耳る資本であろうと、関係ない」
真二の声は、どこまでも低く、そして絶対的な力強さを持っていた。
「この会社をどうするか決めるのは、俺たちだ。俺たちが血を流して手に入れた城を、1円たりとも他人に渡す気はない」
真二の淀みない言葉に、エレノアの瞳に宿っていた微かな揺らぎがスッと消え去り、かつて真二と共に旧体制を切り崩した時の、氷のような覚悟が戻った。彼女は小さく息を吐き、居住まいを正す。
「ええ。徹底的に抗戦します。……大西」
「はい」
「現在進行中のオメガ関連ファンドの買い集めに対する、防衛策のシミュレーションを構築してください。同時に、ルシア・カルヴァーリョにコンタクトを取り、ヴィクターという男の直近の動向と裏の繋がりをすべて洗い出させなさい」
「承知いたしました。直ちに実行します」
明日香の指がキーボードに触れ、特命担当室に再び淀みない打鍵音が響き始めた。流れるようなそのリズムは、迷いを完全に捨て去った反撃の狼煙だった。
足元では、新調されたカラーの鈴をチリチリと鳴らしながら、レオが真二の革靴のつま先に無邪気に飛びかかっていた。
真二は視線を落とさず、ネクタイの結び目をゆっくりと締め直した。青白く光るモニターを凝視する彼の瞳の奥で、冷たく、静かな炎が再び燃え上がっていた。




