第51話 王の休息と不穏な足音
初秋の高く澄んだ青空が、幾重にも連なる東京のビル群を鮮やかに縁取っていた。窓枠に切り取られた景色は、どこまでも透明で、一切の澱みがない。
神宮寺グループ本社の最上階に位置する代表取締役社長室。かつてこの場所を支配していた陰謀と保身、そして重苦しく淀んだ空気は、今や完全に過去のものとなっていた。無駄な装飾が取り払われた広大な空間には、新たにこの帝国を率いることになった者の冷徹な実用主義と、静謐でクリアな静寂だけが満ちている。
厚いペルシャ絨毯が足音を吸い込む社長室のさらに奥。分厚い防音扉で仕切られた一角に、特命担当室の専用スペースが設けられていた。
フローリングが敷かれたその一角で、菊地凛が床に膝をつき、小さな白い陶器の小皿を手にしていた。彼女のもう片方の手には、細長いスティック状の猫用おやつが握られている。
凛がパッケージの端を指先で丁寧に切り取った瞬間、濃厚な魚と出汁の香りがふわりと漂った。
ソファの隅に置かれた専用のクッションで丸くなっていた茶トラの子猫、レオが、その魅惑の匂いに反応してピクリと顔を上げる。
「ミャウッ!」
短く、しかしはっきりとした要求の声を上げると、レオはクッションから転がり出るようにしてフローリングに着地した。爪が床を擦る微かな音を立てながら、一直線に凛の膝元へと駆け寄ってくる。
おやつを小皿に少しずつ絞り出すと、レオは待っていましたとばかりにお皿に顔を寄せた。耳をピタリと後ろに伏せられ、ピンク色の小さな鼻をヒクヒクとさせながら、せわしなく舌を動かす。小皿の表面に広がるペーストをペロペロと美味しそうに舐め取るその愛らしい姿を、凛は目を細めて見つめていた。
「ふふっ、急がなくてもなくなりませんよ。ゆっくり食べてくださいね」
凛が優しく背中を撫けると、レオの喉の奥からはゴロゴロという重低音が絶え間なく鳴り響いた。
革張りのソファに深く腰掛け、タブレットで海外市場の動向を確認していた佐野真二は、その様子を横目で確認し、微かに口角を上げた。
「保護した時は手のひらに収まるほどだったが、ずいぶんと猫らしい体格になってきたな」
「はい。……それにしても、レオちゃん、本当に大きくなりましたね。抱っこすると、ずっしり重いです」
凛は空になった小皿から顔を上げたレオの口元を、手元の柔らかいティッシュでそっと拭き取ってやりながら、純粋な笑顔を向けた。警戒心の塊のようだった不器用な少女が、今やこの特命室の中で誰よりも柔らかな空気を生み出している。
真二はタブレットをローテーブルに置き、ソファの背もたれに深く体重を預けた。視界の端では、おやつに満足したレオがフローリングの上でゴロンと仰向けになり、前足を曲げてリラックスしている。
かつて真二の胸を四六時中焼いていた、どす黒い焦燥感はもうない。自ら築き上げた足場の強固さを確かめるように、真二は静かにコーヒーカップを手に取り、香り高い黒い液体を口に含んだ。
「室長」
部屋の奥に設えられたデスクから、大西明日香の抑揚のない声が響いた。
3台の大型モニターを前に、目にも止まらぬ速さで刻まれていた彼女のタイピング音が、ピタリと止まる。
「武藤の息がかかっていた残党に対する、一連の出向および転籍の手続きが、システム上でもすべて完了しました。関連子会社への配置転換、対象者のアカウント権限の完全移行を確認。これをもって、神宮寺グループ中枢からの旧体制のパージは完全に終了です」
「ご苦労。これでようやく、社内政治の泥かきではなく、本業の立て直しにリソースを集中できる」
真二はカップをソーサーに戻し、短く労いの言葉を返した。
不意に、社長室の奥にあるプライベートエリアの扉が開き、エレノア・スペンサーが姿を現した。
仕立ての美しいネイビーのスーツに身を包んだ彼女の姿は、以前の孤立無援だった頃の「氷の令嬢」とは違う。数万人を束ねるトップとしての絶対的な威厳と、揺るぎない覚悟を纏っている。
しかし、特命室のスペースに歩み寄り、真二たちの顔を見ると、彼女のブルーグレーの瞳から鋭い光がわずかに和らいだ。
「……少し、休憩にしてもいいでしょうか」
エレノアはそう言うと、真二の対面のソファに静かな動作で腰を下ろした。すかさず凛が立ち上がり、給湯室から温かいダージリンの紅茶を淹れて運んでくる。
ティーカップを受け取ったエレノアは、ふと足元で気持ちよさそうに伸びをしているレオを見て、目元をふわりと緩ませた。
「午前中の取締役会、お疲れ様でした。役員たちからの反対意見は出なかったようですね」
「ええ。あなたが事前に用意してくれた、各事業部の無駄な経費のリストと、それを再分配する完璧なシミュレーションのおかげです。古参の役員たちも、あの一切の隙がない数字を前にしては、完全に口を噤むしかありませんでした」
エレノアは紅茶の香りを静かに嗅ぎ、一口飲んでから真二を真っ直ぐに見据えた。
「佐野。あなたが私の右腕としてここにいてくれる限り、この神宮寺グループは盤石です。本国のスペンサー家も、私のこの短期間での実績を認めざるを得ないでしょう」
絶対的な信頼の眼差し。
それに対して真二は、言葉の代わりにただ静かに頷きを返した。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
秋の冷たい雨が、東京のアスファルトを黒く濡らしていた。
雨粒が車のヘッドライトを乱反射させ、街全体がぼんやりとした水底に沈んでいるかのような錯覚を覚えさせる。
「今日呼んだのは、退屈しのぎの世間話をするためじゃないわ」
外部の喧騒から隔離された六本木の地下深く、いつもの薄暗いバーの最奥。
ルシア・カルヴァーリョは手元のグラスを置くと、真二の前にタブレットを滑らせた。画面に映し出された複雑な資金のツリー図を見つめる彼女の気怠げな瞳の奥には、いつものような遊び半分の余裕は消え去っていた。
「真二、あなたの会社、かなりきな臭いことになってる」
カウンターに落ちるキャンドルの微かな火が、真二の傾けるグラスの琥珀色を曖昧に照らし出している。真二はグラスをテーブルに置き、視線をタブレットの画面に落とした。
そこに表示されていたのは、複雑な階層構造を持った不気味な資金の流れだった。幾重にもダミーのペーパーカンパニーを経由し、複数のタックスヘイブンを通過して念入りに洗浄された莫大な資金。それが、神宮寺グループの傘下にある優良な中核企業――主に物流、不動産、先端素材を扱う数社の株式を、市場外で断続的に、かつ極めて巧妙な分散手法で買い集めているログだった。
単なる投資目的ではない。明確な意思を持って、神宮寺の急所を的確に狙い撃ちしている。
「武藤の隠し資産の残党か」
「違うわ」
ルシアはダークラムを一口飲み、小さく首を振った。
「武藤みたいな小物の小遣い稼ぎとは、桁が2つは違う。私の情報網とハッキング技術をもってしても、この資金の実質的なオーナーの特定に手こずってる。ダミーの壁が厚すぎる上に、暗号化のレイヤーが軍事レベルなのよ。……これ、国家予算レベルの『巨大資本』の匂いがするわ」
真二の目が、微かに細められた。
前世の記憶を脳内で急速に検索する。2021年の秋。神宮寺グループがこれほど大規模な外資の標的になった事実はない。前世では、武藤が実権を握り続け、旧態依然とした体制のまま数年かけてゆっくりと腐敗し、衰退していったはずだった。
「セレナのファンドの動きは」
「彼女たちじゃない。むしろ、セレナ本人もこの見えない『鯨』の異常な動きに警戒を強めてる。彼女のバックにあるウォール街の資本ですら、全容を掴みきれていないって言っていたわ」
ルシアはグラスの縁を指先でなぞりながら、真二の横顔をじっと見つめた。
「面白いわね、真二。あなたはこれまで、まるで未来を見てきたかのように、全ての盤面を完璧にコントロールしてきた。でも、ここから先は……あなたにも見えない『暗闇』なんじゃない?」
ルシアの指摘は的を射ていた。
自分が強引に歴史を書き換え、武藤らを早期に排除し、エレノアをトップに据えた。その結果、神宮寺グループは浄化され、「魅力的な優良企業」として海外の巨大資本の目に留まってしまったのか。
あるいは、エレノアの想定以上の台頭に焦りを募らせた、日本の旧体制の残党が最後の勝負に出たのか。それとも、まだ見ぬ未知の捕食者が牙を剥いたのか。
真二はあらゆる可能性を脳内で冷徹に天秤にかけ、思考を巡らせた。
いずれにせよ、前世の記憶という強力なアドバンテージは、もう通用しない。ここから先は、彼自身の知識には存在しない、完全に未知の領域だ。
雨音が微かに壁越しに響く中、沈黙が落ちる。
しかし、真二の心臓の鼓動は、少しも速くなっていなかった。グラスに残った琥珀色の液体を飲み干し、静かにテーブルに置く。
「……構わない」
真二の声は、氷のように冷たく、そして鋼のように硬かった。
「相手が誰であれ、やることは変わらない。盤面が変わったのなら、新たなルールで打ち負かし、全てを奪い取るだけだ」
前世で搾取され尽くした男は、もうこの盤上にはいない。
守るべき日常と、彼を信じる者たちが、今の彼にはある。
見えない敵の足音は、確実に近づいていた。
真二は闇を見つめるように視線を落とし、その深い瞳の奥に、かつてないほど冷徹で静かな闘志を宿した。




