第50話 2度目の人生は
京都の夜は、東京の人工的な明るさと喧騒とは全く異なる、底の知れない深い静寂と歴史の重みを持っていた。
老舗旅館の離れ。手入れの行き届いた枯山水の日本庭園を打つ鹿威しの高い音が、夏の終わりの湿気を帯びた微風に乗って、遠くから静かに、そして規則正しく響いてくる。関西地区のグループ企業再編に向けた、1泊2日の視察。それは単なる業務報告の場ではなく、旧体制の残党が巧妙に隠し持っていた簿外債務や、不透明な下請け企業との癒着構造を完全に一掃し、エレノア・スペンサーを頂点とする新体制を文字通り盤石なものにするための、極めて重要な地固めの儀式だった。
昼間の冷徹な交渉と決裁の連続。古参の幹部たちは、若き外国人役員であるエレノアを侮っていたが、彼女の背後に立つ佐野真二が淡々と、しかし容赦なく提示する「逃げ道のない証拠」の数々を前に、1人、また1人と顔を土気色に染めさせ、震える手で退任合意書にサインをしていった。彼らのプライドや長年の社内政治の産物は、真二が用意した緻密なデータの前では紙切れと同義だった。
すべての予定を想定以上の精度とスピードで終わらせた真二は、上質なリネンの浴衣に着替え、縁側に近い座椅子に深く腰を下ろしていた。開け放たれた窓からは庭園の微かな土の匂いが漂ってくる。手元には、薄いタブレット端末があった。
「……また見ているのですか」
背後から、静かで落ち着いた声がした。
振り返ると、エレノアが湯上がりの少し上気した顔で立っていた。彼女もまた、普段の隙のないダークスーツではなく、紺地に白抜きの桔梗が描かれた浴衣を身に纏っている。艶やかなダークブラウンの髪が肩のあたりでしっとりと濡れ、微かな高級石鹸の香りを漂わせていた。かつて「氷の令嬢」と呼ばれ、周囲すべてを警戒して生きていた彼女の顔に、もうあの痛々しいほどの緊張感はない。
「気になってな」
真二はタブレットの画面をエレノアの方へ向けた。
画面に映し出されているのは、東京にあるエレノアのタワーマンションの広々としたリビングだ。部屋の照明は落とされ、暗視モードに切り替わったモノクロの映像の中で、小さな丸い影が動いている。
茶トラの子猫、レオだ。
今回は日帰りが不可能な日程だったため、特命担当室に連れて行くこともできず、初めての「1泊2日の留守番」をさせていた。自動給餌器と自動給水器、それに空調の温度管理は完璧にセットしてきたが、真二もエレノアも、会議の合間や新幹線での移動中など、数時間おきにこうしてペットカメラの映像を確認せずにはいられなかった。
画面の中のレオは、誰もいない広いリビングの中央で、ぽつんと座っていた。
ピンと尖った耳を小刻みに動かし、時折、玄関の方をじっと見つめている。自身の背丈よりもはるかに高いドアノブを健気に見上げるその後ろ姿には、隠しきれない寂しさが滲んでいた。
『ミャーゥ……』
カメラのマイクが、細く心細い鳴き声を拾った。
真二の目尻が、無意識のうちに下がる。彼は画面の隅にあるマイクボタンをタップし、低く、穏やかな声で呼びかけた。
「レオ」
マンションのリビングに設置されたカメラのスピーカーから、真二の声が流れる。
その瞬間、レオの体がビクッと跳ねた。丸い目を限界まで見開き、短い尻尾をピンと立てて、声のしたカメラの方へと一直線に走ってくる。フローリングを小さな爪がシャカシャカと掻く音が響く。
画面いっぱいに、レオの鼻ドアップが映り込んだ。ピンク色の小さな鼻が、レンズに向かってヒクヒクと動いている。前足でカメラをチョイチョイと叩き、そこに真二の姿がないと分かると、レオは少ししょんぼりとした様子で画面の枠外へと消えた。
数秒後、カメラの画角の端にあるソファの上で、レオが丸くなるのが見えた。そこには、真二が出発前にわざと脱ぎ捨てておいた、彼の匂いが染み付いたルームウェアがある。レオはその柔らかい生地に顔を深く埋め、安心したように喉をゴロゴロと鳴らし始めた。
「……愛されていますね、佐野」
エレノアが真二の隣に腰を下ろし、画面を見つめながら柔らかく微笑んだ。
「明日の午前中で切り上げて、午後の新幹線に乗る。予定より2時間早く帰れるはずだ」
「ええ。そうしましょう。あの子をこれ以上待たせるのは、私の精神衛生上もよくありません。胸が締め付けられるようです」
エレノアはそっと、真二の左腕に自身の腕を絡ませた。温かな体温が、浴衣越しにじんわりと伝わってくる。
真二はタブレットを閉じ、縁側の外、暗闇に沈む庭園に視線を向けた。
過労死という絶望の底から蘇った、2度目の人生。
かつての自分は、親友と妻へのどす黒い憎悪だけを燃料にして動く、冷徹な機械だった。彼らを社会的に抹殺し、すべてを奪い取るためだけに、己の感情を殺してあらゆる手段を利用した。
だが、その過程で拾い上げた小さな命と、不器用ながらも自分を慕ってくれる人間たちが、真二の胸の奥にあった暗く冷たい空洞を、いつの間にか確かな熱で満たしていた。
★★★★★★★★★★★
数日後。
神宮寺グループ本社、特命担当室。
分厚い防音扉の奥には、以前のような殺伐とした緊張感はない。しかし、大西明日香の正確無比なタイピング音は、相変わらず冷徹で淀みのないリズムを刻んでいた。
「室長。関西支社の統廃合に関する第3フェーズ、指示通りに関係各所への根回しとシステム上の決裁ルートの構築を完了しました。旧派閥の横槍が入る余地は、物理的にもデータ上も、すでに1ミリも存在しません」
3台の大型モニターから視線を外さず、明日香が抑揚のない声で報告する。
真二は革張りのソファから立ち上がり、彼女のデスクの横に小さな紙袋を置いた。
「ご苦労。……出張の土産だ。京都の老舗の和三盆と、抹茶のテリーヌだ。好きだろう」
明日香のタイピングの手が、ピタリと止まった。
彼女はゆっくりと視線を落とし、紙袋の中を覗き込む。無表情だった顔の筋肉が、わずかに、しかし確実に緩むのが分かった。
「……ありがとうございます。休憩時間に、適切に摂取します」
「今食え。糖分が足りていない顔をしている」
真二が言うと、明日香は小さく頷き、箱を開けた。手際よく切り分けられた抹茶のテリーヌを口に運んだ瞬間、彼女の涼しげな目元がふにゃりと下がり、誰にも見せない無防備で幸せそうな笑みがこぼれた。真二はそれを見て、短く息を吐く。
「室長、お茶が入りました」
給湯室から、菊地凛がお盆に乗せた急須と湯呑みを運んできた。
相変わらず華奢で、少しおどおどした歩き方だが、その黒目がちな瞳には、かつて彼女を縛っていた怯えや自己卑下はない。真二という絶対的な庇護者のもとで、彼女は彼女自身のペースで、確実に実務能力を開花させつつあった。
「ありがとう、菊地」
真二が湯呑みを受け取ると、凛はパッと顔を輝かせた。
「あの、先週ご指導いただいたデータ入力のフォーマット、あっちゃんにも確認していただいて、完璧だって言われました。私、少しは役に立てるようになってきましたか?」
「ああ。十分すぎるほどだ。お前が細かい事務処理を正確にこなしてくれるおかげで、大西が本来の業務に集中できている。自信を持て」
真二の言葉に、凛は嬉しそうに両手をお腹の前でギュッと握りしめた。
「ミャウ!」
その時、ソファの陰からレオが飛び出し、真二の革靴によじ登ろうと短い前足で爪を立てた。1泊2日の留守番を経験して以来、レオは以前にも増して真二にべったりになっていた。
「おい、スーツが傷む」
「あっ、レオちゃんダメですよ!」
凛が慌ててレオを抱き上げようとした瞬間、特命室の重厚な扉が、ノックもなしに勢いよく開け放たれた。
「ボンジュール、真二! みんな!」
鮮やかなレモンイエローのサマードレスを翻し、クロエ・ルルーシュが太陽のような笑顔で飛び込んできた。
彼女の背後には、困惑した顔の受付嬢がオロオロと立っている。本来ならセキュリティパスがなければ入れないフロアだが、神宮寺グループの最重要パートナーであるファンドの令嬢を、力ずくで止められる人間などこの社内にはいない。
「クロエ。アポなしでの訪問は控えるよう、あれほど言ったはずだが」
「細かいこと言わないの。それに、今日はビジネスじゃないわ。遊びに来たの」
クロエはあっけらかんと言い放ち、凛の腕の中からレオをひょいっと奪い取った。
「レオ、元気だった? 相変わらず可愛いわね。……ねえ真二、先週の竹下通り、すっごく楽しかった! だから今週末は、お台場の遊園地に行きたいわ。パパに言って貸し切りにしてもいいけど、やっぱり普通に並んでクレープとか食べたいのよね」
クロエはレオの背中を撫でながら、真二に挑戦的な視線を向ける。
「週末は、エレノアと美術館に行く予定だ。どうしても行きたいなら、大西を連れて行け。経費は俺のポケットマネーから出す」
「えっ、あっちゃんと? それはそれで面白そうだけど……」
クロエがモニター前の明日香に視線を向ける。明日香は手元のテリーヌの皿にフォークを置くと、氷のような無表情でクロエを見つめ返した。
「業務外の同行要請は、時給換算で別途請求させていただきます」
「あはは! あっちゃん、やっぱり最高!」
クロエの屈託のない笑い声が、防音の密室に明るく反響する。
真二はほうじ茶の湯呑みを手に取り、その香ばしい香りを吸い込んだ。
目の前で繰り広げられる、騒がしくも穏やかな日常。
前世で、深夜のオフィスで心臓を鷲掴みにされるような激痛に耐えながら、誰からも顧みられずに孤独に死んでいった自分。あの時の絶望は、今はもう、遠い過去の幻影のように薄れている。
★★★★★★★★★★★
その日の夜。
エレノアのマンションの広々としたリビングで、真二はグラスに注いだコニャックを静かに揺らしていた。
間接照明だけが灯る薄暗い空間。窓の外には、東京の夜景が果てしなく広がっている。
真二の胡座をかいた膝の上には、すっかり安心しきったレオが丸くなり、規則正しい寝息を立てていた。時折、夢を見ているのか、小さな前足がピクピクと動く。
隣には、エレノアが寄り添うように座っていた。
彼女は自分のグラスをテーブルに置き、真二の肩にそっと頭を乗せた。彼女から漂う、シトラスと微かなムスクの香りが、真二の鼻腔を優しくくすぐる。
「……何か、考えていたのですか?」
エレノアが、目を閉じたまま静かに尋ねた。
「いや」
真二は片手でレオの背中を撫でながら、もう一方の腕をエレノアの肩に回した。彼女の華奢な体が、真二の体温を求めてわずかにすり寄ってくる。
「ただ、悪くない人生だと思っていただけだ」
真二の低い声に、エレノアは目を開け、少しだけ体を起こして真二の横顔を見上げた。そのブルーグレーの瞳には、かつての孤独な冷たさはなく、ただ深い愛情と信頼だけが湛えられている。
「ええ。私も、そう思います」
エレノアは微笑み、真二の頬にそっと手を添えた。
窓の外で瞬く東京の夜景が、ゆっくりと優しく2人の影を溶かしていく。
真二はエレノアの腰を抱き寄せ、その静かで穏やかな夜の深淵へと、ゆっくりと身を委ねていった。
2度目の人生は、もう誰にも奪わせない。




