第49話 ヒロインたちとの未来
週末前夜。木曜日の午後10時。
六本木の地下深く。微かに漂う葉巻の香りと古い革の匂いが満ちるシガーバーは、今夜も外部から隔絶された静寂に包まれていた。
重厚なオーク材の扉の向こう側では、選ばれた少数の客たちが声を潜めてグラスを傾け、自分たちのテリトリーを守るように夜を消費している。店内に静かに流れるモダンジャズのベース音が、腹の底に心地よく響いていた。
ルシア・カルヴァーリョはカウンターの奥で、気怠げにグラスを傾けていた。琥珀色の照明を浴びる彼女のシャープなベリーショートが、退廃的でエキゾチックな美しさを際立たせている。大胆に胸元が開いた黒のシルクシャツからは、しなやかな鎖骨が覗き、彼女が呼吸をするたびに微かな陰影を作っていた。
「特捜部の連中、今頃は武藤の自宅と隠れ家をひっくり返して大騒ぎでしょうね」
ルシアは細身のシガーを長い指に挟んだまま、面白そうに目を細めた。紫煙がゆっくりと天井の暗がりへ吸い込まれていく。
佐野真二は隣の席で、シングルモルトのスコッチを一口含み、静かにグラスを置いた。
ケイマン諸島に隠された武藤常務の裏口座。その口座の遠隔凍結と、金融庁および東京地検特捜部への完璧な証拠データの匿名送付。ルシアの常軌を逸したハッキング技術がなければ、神宮寺グループに深く根を張った巨大な権力を、痕跡一つ残さずに完全に断ち切ることはできなかった。
「指定されたオフショア口座への報酬の送金は、今日の午後に完了している」
真二が淡々と告げると、ルシアはグラスの氷をカランと鳴らした。
「確認済みよ。……でも、お金以上のスリルだったわ。あの老いぼれ、ケイマン諸島だけじゃなく、パナマのダミー法人を三つ経由して、スイスのプライベートバンクにも資金を分散させてた。あの年代の権力者が考えそうな、典型的な資金洗浄のテンプレね」
ルシアは喉の奥でハスキーな笑い声を漏らした。
「何重にも偽装された電子の金庫扉を、遠隔から一つずつ破壊していく。最後に凍結のエンターキーを叩いた瞬間、最高のエクスタシーを感じたわ。表の世界のエリートたちが、自分たちを神だと勘違いして積み上げた砂上の楼閣を、指先一つで崩す。これだから、この仕事はやめられないの。……彼、自分が長年かけて築いた不可視の帝国が、画面上の『アクセス拒否』の一言で消え去ったのを見た時、どんな顔をしたのかしらね」
「絶望だろうな。そして、自分が今まで見下していた相手に足元をすくわれたという屈辱だ。……お前のアドレナリンジャンキーな悪趣味に付き合わせるつもりはない。だが、助かったのは事実だ。お前の技術がなければ、武藤は必ずどこかで政治的な逃げ道を確保していた」
真二の短く、しかし確かな評価の言葉に、ルシアはふっと表情を和らげた。
「退屈しない男ね、あなたは。……今度は、もう少しマシな酒を奢りなさい。また泥沼のゲームがしたくなったら、いつでも呼んで。あなたの依頼なら、最優先で受けてあげる」
ルシアはグラスを掲げた。
真二は無言で自身のグラスを軽く当て、低く澄んだ音を響かせた。共犯者としての、確かな敬意を込めて。
グラスの触れ合う乾いた音が、ジャズの旋律に溶けて消えた。
★★★★★★★★★★★
翌金曜日の午後2時。
虎ノ門にある外資系高級ホテルの40階。東京湾からスカイツリーまでを一望できるラウンジは、平日の昼下がり特有の、優雅で弛緩した静寂に包まれていた。
高い天井から下がる豪奢なシャンデリアの光が、磨き上げられた大理石の床に反射している。行き交うウェイターたちの足音すら、分厚い絨毯に吸い込まれて音を立てない。
窓際に設えられた特等席のソファに、圧倒的な存在感を放つ二人の女が座っていた。
「本当に、完璧なシナリオだったわ」
アリア・ローランが、ダージリンティーのカップをソーサーに置きながら優雅に微笑んだ。彼女のナチュラルなカーリーヘアと前衛的な白いセットアップが、洗練された空間に完全に溶け込んでいる。
「大衆は、腐敗した巨大権力に立ち向かう孤高のヒロインを愛する。エレノア・スペンサーが旧体制を告発し、自らが新社長に就任した瞬間の、あの株価の急反発とSNSの熱狂。私が仕掛けた世論誘導の通りに、世界中が彼女を『改革の旗手』として認知したわ。大衆は自分の頭で考えて正義を選んだつもりでいるけれど、実際は私が与えたキーワードで踊っているだけ。私のキャリアの中でも、三本の指に入る美しいショーになった」
隣に座るセレナ・デイヴィスは、鮮やかなエメラルドグリーンのタイトドレスに身を包み、シャンパングラスの細いステムを指先で弄んでいた。健康的なブロンズ肌が、窓からの陽光を弾いている。
「うちのファンドの本国連中も、朝から手のひらを返したように祝電を送ってきているわ。市場がパニックになって投げ売りされた神宮寺の株を、私のファンドが底値で根こそぎ浚ってやった。今や莫大な含み益を生み出し、新体制の大株主としての発言権も得た。ウォール街の連中も、極東の島国でこんな鮮やかなディールが成立するとは夢にも思っていなかったでしょうね。日本市場での私の足場は、これで盤石よ」
真二は二人の対面に腰を下ろし、冷えたペリエで喉を潤した。
「二人が得た利益は、十分な対価になったはずです」
真二の言葉に、セレナは挑戦的なアーモンドアイを細め、テーブルに肘をついて身を乗り出した。彼女の纏うスパイシーな香水の香りが、真二の鼻腔をくすぐる。
「ええ。でも、一番欲しかったものは手に入らなかったけどね」
セレナの赤いマニキュアが塗られた指先が、テーブル越しに真二のネクタイの結び目へ向かって伸びる。真二は表情を変えず、わずかに上体を引いてその指を躱した。
「冷たい男。……でも、そういうところも嫌いじゃないわ。ウォール街に戻る予定は当分延期したの。あなたがいつ気が変わって、私のところに来たくなるかわからないからね。莫大な資本と、あなたを正当に評価する玉座を用意して待っているわ」
アリアがクスクスと喉を鳴らして笑った。
「諦めなさい、セレナ。エレノアはもう、誰にも手出しできない不可侵の存在になった。彼がその周囲の雑音をすべて物理的に排除したからよ。彼の目はもう、神宮寺という新しい帝国と、その頂点に立つ女王にしか向いていないわ。私たちのような裏方の魔法使いが入り込む隙はない」
「俺は自分の意志で選んだ場所にいるだけですよ」
真二は淡々と答えた。エレノアをトップに据え、彼女と共に組織を動かす。それは前世の自分を搾取し、使い捨てた巨大なシステムそのものを、自らの手で根本から作り変えるという真二の新たな野心であり、意志だった。
「でも、あなたという被写体は最高だったわ」
アリアは真面目な顔になり、真二の目を真っ直ぐに見据えた。
「もし、神宮寺という舞台が退屈になったら、私に連絡を。世界中のどの企業でも、どの国家でも、あなたのための完璧なステージを用意してあげる」
「覚えておきましょう」
真二の静かな返答に、二人の美しき共犯者たちは満足そうに微笑み合った。利害関係だけで結ばれた契約は終わりを告げたが、そこには確かに、互いの実力を認め合うプロフェッショナルとしての確かな絆が残っていた。
★★★★★★★★★★★
土曜日の午前11時。
初夏の強い日差しが降り注ぐ、原宿駅前の交差点。
週末の解放感に包まれ、行き交う人々の波の中で、クロエ・ルルーシュの姿は一際目を引いた。
ライトブルーの細身のデニムに、デコルテを大胆に出した白いオフショルダーのブラウス。普段のVIPルームで見せるハイブランドのドレス姿とは打って変わった、17歳の等身大のカジュアルな装いだった。しかし、太陽の光をたっぷり浴びたブロンドヘアと、隠しきれない健康的な色気は、道行く人々の視線を否応なしに引きつけている。
「真二! こっち!」
横断歩道を渡り切った真二を見つけると、クロエは無邪気に手を大きく振った。
「遅れていないはずだが」
真二が歩み寄ると、クロエは真二の腕にすっと自分の腕を絡ませた。
「私が早く来すぎたの。待ちきれなくて」
彼女は小悪魔のように微笑むと、真二の腕を引いて歩き出した。
神宮寺グループのメインバンクと英国の提携先を、たった一本の電話で恫喝し、盤面をひっくり返した「ジョーカー」。その対価として彼女が要求したのは、真二との「一日デート」だった。
「どこへ行きたい」
「んー、とりあえずクレープ食べたい! それから、竹下通りのごちゃごちゃしたお店も見たいな」
真二は小さく息を吐いた。仕立ての良いサマージャケットに身を包んだ自分と、17歳の彼女。
「俺の年齢でそこを歩くのは、少しばかり浮くぞ」
「平気よ。真二、イケてるから。それに、私と歩いていればパパ活か、危ない関係にしか見えないから大丈夫!」
あっけらかんと言い放つクロエに、真二は無言で眉間を押さえた。
彼女の指定する通り、二人は休日の喧騒に包まれた竹下通りを歩いた。
すれ違うのも困難なほどの人の波。周囲には色鮮やかな看板が立ち並び、甘いクレープの匂いと流行の音楽が混ざり合って特有の熱気を生み出している。真二は無意識のうちにクロエの少し斜め後ろに立ち、行き交う人々の肩や荷物が彼女にぶつからないよう、自分の広い肩幅でさりげなくガードしていた。
クロエはそれに気づいているのかいないのか、色とりどりの雑貨が並ぶ小さな店を次々と覗き込んでは歓声を上げている。常に大人の世界に身を置き、高度な心理戦と莫大な資本の中で生きてきた彼女。だからこそ、こうした「普通の高校生のような休日」に飢えている部分があることを、真二は看破していた。
イチゴとホイップクリームがたっぷりと乗ったクレープを両手で持ち、美味しそうに頬張る彼女の表情には、VIPルームで見せる酷薄な笑みとは違う、年相応のあどけなさが溢れていた。真二は少し離れた場所から、人波に押されないように気を配りながらその姿を静かに見守っていた。
一通り歩き回り、喧騒から少し離れた裏路地の静かなカフェのテラス席に落ち着いた頃には、時計の針は午後2時を回っていた。
真二はアイスコーヒーを、クロエは色鮮やかなフルーツティーを注文した。パラソルの間からこぼれる初夏の日差しが、テーブルの上に淡い影を落としている。風に揺れる木々の葉擦れの音が、静かに二人の間を通り抜けていく。
「……楽しかったわ」
グラスのストローをくわえながら、クロエがぽつりと言った。
「いつもは、SPが何人も遠くからついてきたり、周りの大人が私の機嫌取りばかりしてくるから。今日みたいに、ただ人混みを歩いて、買い食いして、普通の会話をするなんて……初めてかもしれない」
「それは良かった」
真二が短く返すと、クロエはテーブルに肘をつき、両手で頬杖をついて真二の顔を下から覗き込んだ。
「ねえ、真二。エレノアの隣、居心地いい?」
唐突な質問だった。しかし、その瞳にはいつもの悪戯な光ではなく、他人の感情の機微を読み取る彼女特有の鋭い直感が宿っていた。
「……悪くない」
真二が視線を逸らさずに答える。
「ふーん」
クロエはつまらなそうに唇を尖らせた。
「エレノア、真二のこと完全に独占してるもんね。……でも、忘れないでよ。私が本気を出してパパに頼めば、神宮寺グループごと真二を買収することだってできるんだからね」
真二はグラスについた水滴をペーパーナプキンで静かに拭き取り、それからクロエの目を真っ直ぐに見返した。
「君の父親のファンドをすべて敵に回す気はない。勘弁してくれ」
呆れたように、しかし確かな温かみと大人の余裕を含んだ真二の声に、クロエは数秒だけ目を丸くし、そして吹き出した。
「あははっ! 何よそれ、真二でもパパは怖いのね」
「当然だ。俺は命知らずではない」
クロエの明るい笑い声が、初夏の風に乗ってテラスに響く。
真二はアイスコーヒーを喉に流し込みながら、休日の柔らかい日差しの中で笑う少女を、ただ静かに見つめていた。




