第48話 新体制の発足
神宮寺グループ本社の最上階、代表取締役社長室。
かつてこの部屋の主であった旧体制のトップが座っていた重厚な革張りの椅子は、すでに撤去されている。分厚いペルシャ絨毯はそのままに、壁に掛けられていた権威を象徴するような悪趣味な絵画もすべて取り払われていた。代わりに置かれたのは、洗練されたモダンなデザインの広大なデスクと、エルゴノミクスに基づいた機能的なチェアだ。無駄な装飾を排したその空間は、新たにトップに立つ人間の冷徹な実用主義を明確に示していた。
床から天井まで届く巨大なガラス窓の向こうには、東京のビル群が朝の陽光を反射して眩く輝いている。無限に広がる都市の脈動を、エレノア・スペンサーは、仕立ての良いネイビーのパンツスーツに身を包み、静かに見下ろしていた。
ブルーグレーの瞳には、かつての孤立からくる過度な緊張感や、周囲を警戒して張り巡らせていた氷のような冷たさはもうない。異国の地で一人、周囲すべてを敵に回して戦っていた孤独な令嬢は、今やこの巨大な帝国を率いるトップとしての、深く静かな覚悟を纏っていた。
エレノアが窓の外から振り返ると、そこには手元のタブレットに視線を落とす佐野真二の姿があった。
真二は画面から視線を上げ、エレノアのブルーグレーの瞳を見つめ返して、静かに告げた。
「……各部署の部長級以上の人事異動案、すべて決裁が完了しました。旧体制に加担していた者は容赦なく関連子会社へ出向させ、空いたポストには実力主義で若手を登用する手配が済んでいます」
武藤常務の完全な失脚と、それに伴う旧体制派閥の崩壊。アリア・ローランが仕掛けた完璧な世論誘導と、セレナ・デイヴィスのファンドによる絶妙な市場介入により、神宮寺グループの株価は一時的な暴落から奇跡的なV字回復を遂げた。その劇的な再生の中心にいたエレノアは、内部の腐敗を一掃した「改革の旗手」として、本国の親会社からも日本の市場からも圧倒的な支持を得て、正式に神宮寺グループのトップに就任したのだ。
そして真二は、彼女の右腕たる「社長室長」兼「特命担当室長」として、グループ全体の実質的な人事権と監査権を掌握していた。表向きは一介の室長に過ぎないが、役員ですら彼を通さずして重要な決裁を下すことはできない。もはや、彼に逆らえる人間はこの会社には存在しない。
「早急な対応、感謝します。旧体制の残党が息を吹き返す前に、物理的にもシステム的にも彼らの手足を切断する必要がありましたから」
「実務はすべて大西が処理しています。彼女のタイピング速度は、昨日からさらに上がっているようです。あの調子なら、今週中には末端の関連企業の再編案まで組み上がるでしょう」
真二が淡々と答えると、エレノアの口角がわずかに上がった。
「菊地さんの淹れるお茶と、レオの存在が彼女の潤滑油になっているのでしょうね。……特命担当室は、そのまま残して正解でした。大西と菊地さんには、引き続きあなたをサポートしてもらいます」
「ええ。表の業務は社長室で回せますが、汚れ仕事や非公式な情報収集は、あの防音扉の奥で処理するに限ります」
真二はタブレットをデスクに置き、一歩だけエレノアに近づいた。
「これで、盤面は完全にあなたのものです。本国からの横槍も、社内のくだらない足の引っ張り合いも、もう気にする必要はありません」
「……ええ。わかっています」
エレノアは真っ直ぐに真二の目を見つめた。
「でも、私がこの場所に立っていられるのは、あなたが私のために盤面を作り上げ、泥を被り、完璧に守り抜いてくれたからです」
「俺は自分の目的のためにあなたを利用しただけです。相互利益の範疇ですよ」
「そう言うと思いました」
エレノアは小さく息を吐き、少しだけ視線を泳がせた。彼女の透き通るような白い頬に、ほんのわずかな赤みが差す。常に論理的な彼女が、業務以外のことで躊躇いを見せるのは珍しい。
「……佐野」
「何でしょうか」
「今週末、予定はありますか」
真二は微かに眉を動かした。
「特にありませんが」
「……ならば、私の予定に付き合ってもらいます。契約結婚の『ダミーの夫』としてではなく……その、個人的な、外出として」
エレノアの不器用な誘いに、真二は少しだけ目を細め、静かに頷いた。
「承知しました」
★★★★★★★★★★★
日曜日の午前11時。
真二が指定された待ち合わせ場所は、銀座でも六本木でもなく、谷中銀座商店街の入り口だった。
初夏の日差しが降り注ぐ中、真二はリネンのサマージャケットにダークトーンのチノパンという、リラックスしつつも隙のない服装で立っていた。周囲の喧騒から少し浮くような静かな存在感を放ちながら、彼は近づいてくる一つの人影に気づいた。
「……お待たせしました」
声の主は、エレノアだった。
普段のタイトなスーツ姿とは全く異なる、柔らかな素材のミモレ丈のプリーツスカートに、シンプルな白いブラウス。目元を隠すためのツバの広い麦わら帽子を被っているが、その隙間から覗く肌と端正な顔立ちは、隠しきれない気品を放っていた。
「いや、俺も今来たところです」
真二は短く答え、彼女の服装を一瞥した。
「ずいぶんと、ここには不釣り合いな格好ですね」
「……おかしいですか?」
エレノアが少し不安そうに帽子のツバを下げる。
「いいえ。よく似合っていますよ。ただ、少し目立つかなと思っただけです」
真二が淡々と言うと、エレノアは少しだけホッとしたように息をつき、周囲の景色を見回した。
「以前から、日本の古き良き商店街というものに興味があったのです。ですが、立場上、一人でこのような場所を歩くわけにもいかず……」
「なるほど。B級グルメの視察ですか」
「視察ではありません。……純粋な、興味です」
二人は並んで、活気あふれる商店街へと足を踏み入れた。
休日の谷中銀座は、地元の人々と観光客が入り混じり、独特の熱気と生活の匂いに満ちていた。惣菜屋の店先から漂う揚げ物の香ばしい匂い、八百屋の威勢の良い呼び込みの声、そして路地裏の木陰でのんびりと昼寝をしている地域猫たちの姿。神宮寺グループのトップに君臨する経営者と、その裏で権力を振るう実質的な支配者。その二人が、休日の下町を並んで歩く姿は、奇妙なほど自然に風景に溶け込んでいた。
「……佐野、あれはなんですか」
エレノアが一軒の店の前で立ち止まった。ガラスケースの向こうで、湯気を立てている茶色い物体を指差す。
「メンチカツですよ。この商店街の名物だそうです」
「メンチカツ……挽肉を揚げたものですね。食べてみたいです」
真二は無言で財布を取り出し、二つ購入した。紙袋に包まれた熱々のメンチカツを一つ、エレノアに手渡す。
「熱いから気をつけてくださいね」
エレノアは紙袋を両手で持ち、少し躊躇うように小さな口を開け、端の方をかじった。
サクッ、という軽快な音が響く。
その瞬間、彼女のブルーグレーの瞳が、驚きに見開かれた。
「……美味しい」
溢れ出す肉汁と、玉ねぎの甘み、そしてサクサクの衣の食感。高級フレンチの繊細なソースとは全く違う、暴力的なまでの旨味が彼女の舌を直撃したらしい。
「ジャンクな味ですが、たまには悪くないでしょう」
真二が自身のメンチカツを齧りながら言うと、エレノアは無言でこくこくと頷き、次の一口を頬張った。
「口元に、油がついていますよ」
真二が内ポケットから清潔なハンカチを取り出して差し出すと、エレノアはハッとして頬を赤らめ、素直にそれを受け取った。その姿は、周囲から畏怖される「氷の令嬢」とは程遠い、年相応の純粋な女性そのものだった。
その後も、二人は商店街をゆっくりと歩いた。焼き鳥の匂いに誘われて足を止め、路地裏の小さな雑貨屋で色鮮やかな和柄の手ぬぐいを眺め、日向ぼっこをしている地域猫の頭をそっと撫でた。
エレノアは、目に映るすべてのものを新鮮そうに観察し、時折、真二に小さな質問を投げかけた。真二はそれに、過不足なく、静かに答えていく。
前世で過労死の淵にいた真二にとって、休日は疲労を回復させるためだけの泥のような時間だった。結城麻衣の際限のない虚栄心を満たすためだけに高級ブティックへ連れ回され、ただの財布兼荷物持ちとして駆り出されては、虚無感だけを抱えて表参道や銀座を歩いていた記憶しかない。自分の意志などどこにもなく、ただ搾取されるためだけに命をすり減らしていた。
だが今は違う。
隣を歩くこの女性は、真二に何かを要求するわけでも、虚栄心を満たそうとするわけでもない。ただ、彼と同じ空間、同じ時間を共有すること自体に価値を見出している。損得勘定の存在しない、ただ歩いて、見て、食べるだけの穏やかな時間。
真二の胸の奥底にあった暗く冷たい空洞が、初夏の陽気と彼女の存在によって、少しずつ温度を取り戻していくような感覚があった。
★★★★★★★★★★★
夕暮れ時。
二人は商店街を抜け、近くの小さな神社の境内にあるベンチに腰を下ろしていた。
西日が朱塗りの鳥居を照らし、木々の間から差し込む光が、二人の足元に長い影を落としている。遠くから、カラスの鳴き声と、子供たちが帰路につく声が微かに聞こえていた。静寂が、心地よく二人を包んでいる。
「……不思議な一日でした」
エレノアが、手元にあった冷たい麦茶のペットボトルを見つめながら、ぽつりと呟いた。
「高級フレンチのソースの味も、シャンパーニュの泡の弾ける音も、確かに魅力的です。ですが……今日、あなたと並んで歩き、名も知らぬ路地裏の風景を眺めた時間の方が、ずっと私の心に深く残る気がします。これほど満たされた時間は、思い返しても記憶にありません」
「非日常が日常になれば、ただの退屈になります。たまに息抜きをするくらいが、ちょうどいいのですよ」
真二はベンチの背もたれに体を預け、夕焼け空を見上げた。オレンジ色に染まる空は、前世で彼が絶望の中で見上げたコンクリートの天井とは、まるで違う色をしていた。
「明日からはまた、戦場です。新体制が発足したとはいえ、巨大な組織の舵取りは容易ではありません。武藤を排除したことで生じた権力の空白を狙い、別の派閥が暗躍を始める兆候もすでに大西がキャッチしています。反発する勢力も、外から虎視眈々と隙を狙う連中もいるでしょう。あなたが改革の旗手として光を浴びれば浴びるほど、その足元には濃い影が落ちる」
「ええ。わかっています」
エレノアは顔を上げ、真二の横顔を見つめた。
「ですが、恐れはありません。私が表の光の中で組織を導き、あなたが裏の闇の中で障害を排除する。私たちが背中を預け合っている限り、この神宮寺グループは誰にも崩せません」
彼女の言葉には、絶対的な自信と、真二に対する揺るぎない信頼が込められていた。それは、社内政治の駒としてではなく、共に死線を潜り抜けたただ一人のパートナーとしての信頼だった。
真二は視線を戻し、エレノアのブルーグレーの瞳を真っ直ぐに見据えた。
「あなたのその強い意志が折れない限り、俺はあなたの最も鋭い剣であり、最も強固な盾であり続けます」
真二の低い声に、エレノアは小さく息を呑んだ。
「頼りにしています、私の『右腕』」
エレノアは、これまでに真二が見たことのないほど、柔らかく美しい微笑みを浮かべた。
真二は静かに頷き、赤く染まっていく夕暮れの街へと、彼女と共に再び歩みを進めた。




