第47話 最終決戦、チェックメイト
特命担当室の静謐な空気が、分厚い陶器の湯呑みから立ち上るほうじ茶の香ばしい湯気によって、ほんのわずかに緩んでいた。
佐野真二はタブレットから目を離し、目の前に立つ菊地凛を見上げた。彼女は両手をお腹の前で軽く握り合わせ、淹れたばかりのお茶を真二がどう評価するか、少し緊張した面持ちで待っている。
いつもなら「そこに置いておけ」と短く返すところだが、今の真二は真っ直ぐな彼女の視線から逃げることをやめ、ゆっくりと湯呑みに手を伸ばした。
一口含む。
熱すぎず、ぬるすぎもしない。適切に冷まされた湯の温度が、上質な茶葉の甘みと深い焙煎の香りを最大限に引き出している。カフェインと終わりのない思考で張り詰めていた胃の腑に、じんわりと温かいものが染み渡っていくのを感じた。
「……美味いな」
真二が低く短く呟くと、凛の張り詰めていた表情がふわりと解け、目元に小さな安堵の笑みがこぼれた。
その時だった。
「ミャウッ!」
凛の足元から、茶色い小さな影が弾かれたように飛び出した。
生後二ヶ月半になり、すっかり足腰がしっかりしてきたレオだ。彼はフローリングを滑るように駆け抜けると、ソファの背もたれを器用に駆け上がり、そのままの勢いで真二の広くがっしりとした膝の上にダイブした。
「おい、レオ」
真二が声をかける間もなく、レオは真二の手元にあるタブレット端末の上にずかずかと乗り込んだ。短い前足を画面にバンバンと叩きつけ、スクロール中の株価チャートを勝手にスワイプし始める。さらに、細い尻尾をピンと立てて左右に振り、画面上の重要な数字を完全に隠してしまった。
「こら、レオちゃん! 邪魔しちゃ駄目ですよ!」
凛が慌てて手を伸ばすが、レオは「ミャー!」と抗議の声を上げ、タブレットの上でゴロンと仰向けになり、画面の縁を小さな歯でカミカミと噛み始めた。
神宮寺グループという巨大な組織の命運を左右する極秘データ群の上で、毛玉が大胆に腹を見せてくつろいでいる。
真二は小さく息を吐き、レオの柔らかい腹を大きな手のひらで優しく包み込むようにして持ち上げた。指先に伝わる温かい体温と、力強い鼓動。
「相変わらず、この部屋で一番偉いのは自分だと思っているらしい」
真二が呆れたように言うと、宙吊りにされたレオは空中で短い手足をバタバタと動かし、不満げに鼻を鳴らした。
その平和でコミカルな数秒間を切り裂くように、大西明日香の機械的な声が響いた。
「室長」
明日香の指がキーボードを叩く速度が、一段階上がった。カタ、カタカタという硬質な打鍵音が連続し、部屋の空気が再び痛いほどに張り詰める。
「第一波、到達しました。メインバンクの頭取から武藤常務の直通回線へ、ホットラインで着信。同時に、英国の提携先CEOから神宮寺社長宛に『武藤常務の背任行為に関する重大な懸念』と題された親書がメールで送信されました。現在、社長室周辺のネットワークトラフィックが急増。関連部署の電話回線がパンクし始めています」
真二は宙で手足を動かしているレオを凛の腕の中にそっと預け、ゆっくりと立ち上がった。
仕立ての良いダークネイビーのジャケットのボタンを一つ、静かに留める。
「武藤の動きは」
「メインバンクからの電話を3分で切断。現在、秘書を怒鳴りつけながら役員フロアの廊下を猛スピードで移動中。向かっている先は……当室です。到着まで、およそ二十秒」
「ご苦労。予定通りだ」
真二の言葉が終わるか終わらないかのうちに、分厚い防音扉の向こう側から、厚い絨毯を踏み荒らすような乱暴な足音が聞こえてきた。
直後、重厚な扉が強烈な力で押し開けられ、壁にぶつかって鈍い音を立てた。
「佐野おおおっ!!」
怒号とともに踏み込んできたのは、武藤常務だった。
普段の威厳に満ちた姿は見る影もない。綺麗に撫でつけられていたはずの白髪交じりのオールバックは乱れ、数本の髪が額にへばりついている。顔は土気色に濁り、額や首筋には大粒の脂汗が浮かんでいた。仕立ての良かったオーダースーツも、荒い呼吸に合わせて無様に上下している。
彼の背後には数人の部下たちが控えていたが、皆一様に顔面を蒼白にし、武藤の異様な怒気と特命室の冷ややかな空気に挟まれ、完全に立ちすくんでいた。
「よくも……よくも私をコケにしてくれたな! 貴様ら、一体何の手回しをした! なぜメインバンクが突如、私の管轄するプロジェクトの新規融資枠を全額凍結するなどと言ってくる!」
武藤は目を血走らせ、真二の数歩手前まで詰め寄った。
対する真二は、一歩も引かなかった。
ポケットに片手を入れたまま、見下ろすような視線を武藤に向ける。瞬き一つせず、その表情には一切の感情が浮かんでいない。
「座りますか、常務。それとも、立ったままで結構ですか」
「ふざけるなッ! 貴様ごとき平社員が、クロエ・ルルーシュの父親にまで接触して圧力をかけさせただと? 越権行為も甚だしい! 今すぐ社長に直訴して、貴様もエレノアもまとめて懲戒免職にしてやる!」
武藤の絶叫が防音の壁に反響し、凛の腕の中でレオがビクッと体を震わせた。
真二は表情一つ変えずに、手元のタブレットをテーブルの中央へと滑らせた。
「直訴するのは自由ですが、社長は今、あなたに関わっている余裕はないはずですよ。アリア・ローランが今朝、国内外の各メディアに一斉送信したリーク資料により、神宮寺グループ本社の前にはすでに数十人の報道陣と中継車が詰めかけています。社長室は今、火消しと緊急の記者会見の準備で完全にパニック状態です。あなたの名前は、すでに『巨大な腐敗の根源』として世間に認知され始めています」
「な……」
武藤の口が半開きになり、言葉が詰まる。
「さらに」
真二は、息継ぐ隙も与えずに言葉を重ねた。
「ルシア・カルヴァーリョが集めた、あなたが佐々木翔太などの下っ端を使って構築した裏口座の全トランザクション。その完全なデータは、先ほど金融庁と東京地検特捜部の匿名通報窓口に受理されました。数時間後には、身内の監査部などではなく、本物の捜査のメスが入る」
武藤の顔から、みるみるうちに血の気が引いていく。
呼吸が浅くなり、ネクタイを緩めようとする彼の手は微かに震えていた。しかし、彼は老獪な権力者としての最後の意地を見せ、歪んだ唇を無理やり引き上げた。
「……小賢しい真似を。それしきのことで、この私が倒れるとでも思ったか。私には民政党の大田原議員という強力なパイプがある。彼に一言口を利いてもらえば、地検の動きなどいかようにも牽制できる。それに、私個人の資産はすでにオフショアの……」
「ケイマン諸島のファンドですね」
真二の低く静かな声が、武藤の言葉を刃物のように断ち切った。
武藤の両目が、限界まで見開かれた。
「な、なぜそれを……」
「午前9時15分。あなたの個人名義で管理されていたケイマン諸島の3つの口座は、マネーロンダリングの疑いで現地の金融当局により全額凍結されました。セレナ・デイヴィスのファンドが、現地の当局に『確実な情報』を提供したためです。あなたの隠し資産は、もう1円たりとも引き出せません」
武藤の喉の奥から、ヒューという奇妙な音が漏れた。彼はよろめくように一歩後ずさり、背後の部下にぶつかりそうになる。
「そして、大田原議員ですが」
真二は一歩だけ、武藤に近づいた。その距離感は、かつて翔太が真二を見下していた時のそれよりも、遥かに暴力的で絶対的だった。
「昨晩、彼の私設秘書が東京地検に任意同行を求められました。あなたの裏金プールである『青雲会』の帳簿とともに、です。今朝の時点で、大田原議員の事務所はあなたからの着信を完全に着信拒否に設定しています。……彼らは、すでにあなたをトカゲの尻尾として切り捨てました」
「馬鹿な……そんなはずは……」
武藤の足がもつれた。
政治家への裏工作も、海外の隠し資産も、彼が最後の切り札として用意していたものだ。それを、目の前の男はすべて先回りして潰している。
「なぜ、貴様が……そこまで……」
武藤の震える声に、真二は静かで残酷な微笑を浮かべた。
「さあ。少しばかり、先の未来が見えただけですよ」
真二は武藤から視線を外し、部屋の奥に立つ明日香へと顎を向けた。
「もはやあなたに、逃げ道も、反撃のカードも残されていません。メインバンクは離れ、提携先からは見放され、世論はあなたを糾弾し、法的にも完全に詰んでいます。あなたの手足となって動く部下は、もう一人もいません」
真二の宣告が、静まり返った部屋に重く響き渡る。
武藤の膝から、完全に力が抜けた。
ドサッという鈍い音を立てて、彼は特命担当室の厚い絨毯の上に両膝をついた。うつむいた彼の肩が、小刻みに震えている。
「……私の、負けだ……」
白髪の頭を垂れ、武藤は力なく呟いた。
「大西」
真二は床に這いつくばる武藤には目もくれず、短く名を呼んだ。
「はい。辞任届および、保有株式の議決権放棄に関する同意書。すでにプリントアウトしています」
明日香が一切の無駄のない動作で立ち上がり、数枚の書面と、重厚なモンブランの万年筆を武藤の目の前のテーブルに並べた。カツン、と万年筆がテーブルに置かれる乾いた音が響く。
真二は武藤を見下ろした。その暗く淀みのない瞳に、憐憫の色は微塵もなかった。
「サインしなさい。そして、法の裁きに従って全財産と名誉を失い、静かに退場してください。……これで、チェックメイトです」




