第46話 凛が守るもの
クロエが電話を終えた直後、特命担当室の分厚い防音扉の奥には、水を打ったような静寂が落ちていた。
彼女の口から紡がれた流暢なフランス語の余韻が、冷気を帯びた密室の空気にわずかに漂っている。数秒の空白。それは、巨大な嵐がまさに今、神宮寺グループという巨大な組織の心臓部に向けて放たれたことを意味する沈黙だった。
真二は瞬きを一つし、即座に思考のギアを切り替えた。
「大西」
真二の声は、普段よりも一段低く、氷のような硬さと冷たさを帯びていた。
「はい」
3台の大型モニターを前に硬直していた明日香が、弾かれたように姿勢を正し、キーボードへのタイピングを再開する。カタ、カタカタという硬質な打鍵音だけが、静寂を切り裂いて響き始めた。
「ロンドン市場の動向と、メインバンクの役員間における通信ログのトラフィックに張り付け。外資系ファンドの動きも同時に監視し、異常値が出次第アラートを回せ。武藤の息の根を止めるタイミングは、秒単位で調整する」
「承知しました。対象となる関連ファンドのリストを最優先監視対象に設定。メインバンク側のアクセスログ、現在平常値ですが、数分以内に変動が起きることを前提にソートをかけます」
指示と応答の応酬に、一切の無駄はない。真二の視線は手元のタブレットに固定され、明日香のモニターから転送されてくるリアルタイムのデータ群を冷徹に追い続けている。
「じゃ、私は帰るわね」
クロエは小さなバッグを肩にかけ、ブランド物のヒールを鳴らして立ち上がった。
「パパの機嫌が変わらないうちに、この後のことはそっちでうまくやってちょうだい。ああ、退屈だった。次はもっと面白いこと、期待してるわよ」
嵐のように現れ、盤面をひっくり返した小悪魔は、満足げな笑みを残して特命室を後にした。重厚な扉が閉まり、再び部屋が完全に外部から遮断される。真二はその背中を見送ることもせず、ただ画面上で明滅を始めた赤いアラートの光だけを静かに見つめていた。
★★★★★★★★★★★
その夜。
都心のサービスアパートメントのアイランドキッチンは、青白い間接照明の光だけが落ち、底冷えするような静けさに包まれていた。窓の外には、暗闇を埋め尽くすように東京の夜景が広がっているが、分厚いガラスがその喧騒を完全に遮断している。
佐野真二はダークネイビーのルームウェアを纏い、無表情のまま冷蔵庫の扉を開けた。冷気が足元へ流れ落ちる中、棚の奥からよく冷えたもろみしぼり酢の瓶を取り出す。
重みのある琉球ガラスのグラスを大理石のワークトップに置き、コルクの栓を抜く。氷は入れず、琥珀色の液体をそのまま底から指二本分ほど注ぎ入れた。独特の熟成された酸の香りが、冷たい空気にツンと立ち上る。
真二はグラスを手に取ると、躊躇うことなく一気に煽った。
「……ッ」
強烈な酸味が舌を刺し、喉の奥を焼くようにして胃の腑へと落ちていく。食道を通り抜ける熱を確かめながら、真二は小鉢に用意しておいた純黒糖のかけらを一つ指でつまみ、口に放り込んだ。
舌の上で黒糖が溶け出し、濃厚な甘みとコクが、口内にへばりついていた鮮烈な酸味を中和していく。深い息を一つ吐き出し、彼はグラスをシンクに置いた。
蛇口を捻る。冷たい水が勢いよく流れ落ち、グラスに当たって飛沫を上げた。グラスを洗う水音だけが、静寂の部屋に響く。
水を止め、リネンのタオルで手を拭きながら、真二はダイニングテーブルに置かれたタブレットに視線を向けた。画面には、武藤常務が隠れ蓑にしている海外ファンドの資金移動ログが表示されている。クロエの父親による圧力が波及した結果、いくつもの口座で「凍結」を示す赤いエラーコードが点滅を繰り返していた。
真二は無言のまま画面をスワイプし、明日の朝一番で金融庁の内偵情報をリークする手順の最終確認を行う。キーボードを叩く手つきに迷いはなく、タイピングの音だけが、広い部屋に規則正しく吸い込まれていった。
★★★★★★★★★★★
翌日の午後。特命担当室。
重い沈黙が落ちる密室で、真二と明日香の間に交わされる言葉は、極限まで温度を失っていた。
「金融庁の動きは」
真二がソファから手元の画面を見据えたまま問う。
「すでに動いています。ロンドンからの圧力と連動し、対象の関連企業への立ち入りが開始されました」
明日香がモニターから一切目を離さずに即答する。
「武藤の関連口座の凍結状況は」
「メインバンクの独断により、午前9時を以てすべて強制停止されました。彼の退路は物理的にも絶たれています。現在、役員フロアでは武藤常務との連絡がつかないと、各部署から秘書室への問い合わせが殺到し、パニック状態になっています」
「いい。そのまま首が完全に締まるまで放置しろ。無用な接触は避け、監視だけにリソースを割け」
「了解しました」
部屋の隅で、菊地凛はその光景をじっと見つめていた。
彼女の膝の上では、いつの間にかケージから抜け出してきたレオが、丸くなって静かな寝息を立てている。凛はレオの柔らかい背中を無意識に撫でながら、ソファで微動だにせずタブレットを見つめる真二の横顔から目を離せずにいた。
武藤を追い詰めるための指示を出す真二の瞳には、かつて凛に見せていたような、わずかな温度すらない。ただ盤面上の不要な駒を弾き出すための作業を、機械のように淡々とこなしている。
凛は小さく息を吸い込み、膝の上のレオをそっと隣のクッションへ移した。
音を立てずに立ち上がり、給湯室へと向かう。急須に茶葉を入れ、適温に冷ました湯を注ぐ。立ち上る香ばしい香りを確かめながら、彼女は分厚い陶器の湯呑みに丁寧にほうじ茶を淹れた。
湯呑みを両手で持ち、真二のデスクへと近づく。
「室長」
そっと、湯呑みをテーブルの端に置いた。香ばしい湯気が微かに立ち上る。
「今は要らない。そこに置いておいてくれ」
真二はタブレットから視線を外すことなく、低く冷たい声で返した。普段の彼なら、ここで一度手を止め、短い言葉をかけるはずだった。
凛は、引かなかった。
テーブルに置いた手を離さず、真二のすぐ横に立ったまま、動かない。
「飲んでください。今、ここで」
その声のトーンに、真二はわずかに指を止め、目を細めて凛を見上げた。
彼女の黒目がちな瞳は、全く怯えていなかった。いつも他人の顔色を窺ってばかりだった不器用な少女が、今は真っ直ぐに、真二の顔だけを捉え、その視線を逸らそうとしない。
「……後にする。大西、次のフェーズへの移行確率は」
真二が再びタブレットに目を落とし、明日香に指示を出そうとした。
「佐野さん」
役職名ではない、はっきりとした呼びかけ。明日香のタイピング音が、ピタリと止まった。
真二の眉間がわずかに寄る。
「何の話だ」
「これ以上、自分を削らないでください」
短い、しかし切実な声だった。凛の手が、自身のスカートの裾を強く握りしめているのが見える。
「俺は、元々こういう人間だ」
真二はタブレットを伏せ、冷たく返した。
「綺麗な手段だけで、この腐った会社を崩せるわけがない。目的のためなら、俺はどんな手段でも使うし、感情も殺す」
「知っています」
凛の声が、微かに震えた。
「室長が私のために、どれだけ手を汚して、どれだけ危険な橋を渡ってくれたか、知っています。でも」
凛は一歩だけ、真二に近づいた。
「私を助けてくれた時の室長は、そんな冷たい目じゃありませんでした。雨の中で震えるレオを見捨てられなくて、温かいうどんを作ってくれて……そういう、室長の優しい部分まで、全部殺さないでください」
静寂が降りた。
外部の喧騒から完全に切り離された部屋で、二人の視線が交錯する。
「ミャウ」
ソファの奥のクッションから、目を覚ましたレオの間延びした鳴き声が唐突に響いた。小さな前足を伸ばし、大きな欠伸をしている。
張り詰めていた空気が、その小さな音で微かに揺らいだ。
真二はしばらく無言で凛を見つめた後、小さく息を吐いた。
彼は手を伸ばし、テーブルの端に置かれたほうじ茶の湯呑みを手に取った。
ゆっくりと口に運ぶ。
温かく、香ばしい茶の香りが、冷え切っていた胃の腑にじんわりと染み渡っていく。昨夜飲んだ強烈なもろみ酢の刺激とは違う、穏やかで静かな温度。
「……少し、熱いな」
真二がぽつりとこぼすと、凛の張り詰めていた顔からスッと力が抜け、ようやくふわりとした表情が浮かんだ。
「次からは、もう少し温度を下げますね」
凛は小さく頭を下げて、自席へと戻っていった。
真二は手の中の湯呑みを見つめ、底に残る茶の温もりを指先で確かめた。
「大西。監視は継続しろ。だが、こちらの動きは明日の朝まで完全にストップする」
真二の声から、先ほどの氷のような硬さは消えていた。
「承知いたしました」
明日香もまた、普段の機械的な声の中に、ほんのわずかな緩みを滲ませて答えた。再び、特命担当室に静かなタイピング音が響き始めた。




