第45話 クロエの奇策
水曜日の午後2時。
神宮寺グループ本社の奥深く。特命担当室は、昨日までの殺伐とした空気が嘘のように、穏やかな静寂に包まれていた。厚い絨毯が足音を吸い込み、分厚い壁がフロアを行き交う社員たちの焦燥に満ちた喧騒を完全に遮断している。
「ああっ、レオちゃん、そっちはデスクの下です……!」
ソファスペースの床に膝をつき、菊地凛が少しだけ焦ったような声を上げた。
彼女の視線の先には、生後二ヶ月を過ぎて少し体つきがふっくらとしてきた茶トラの子猫、レオがいる。レオの丸く黒目がちな瞳は、凛の手からフローリングへ放たれた新しいおもちゃ――グレーのフェルトで作られ、しっぽの部分が本物の革紐になっている小さなねずみのぬいぐるみ――に完全に釘付けになっていた。
レオは獲物を狙うように身を低くし、細く尻尾を振ってタイミングを計っている。短く生え揃った毛がかすかに逆立ち、狩猟本能が小さな身体を支配しているのがわかる。短い後ろ足を床に踏ん張り、お尻を小さく左右に振ってから、バネのように勢いよく飛びかかった。
「ミャウッ!」
見事にねずみを前足で捕らえたレオは、そのままコロンと仰向けに転がり、後ろ足でねずみのお腹をポコポコと連続で蹴り始めた。いわゆる「ケリケリ」と呼ばれる狩りの本能行動だが、その小さな体と短い足で一生懸命にぬいぐるみを蹴る姿は、ただひたすらに愛らしかった。
「……捕まえましたね。すごいです、レオちゃん」
凛は目を細め、ふわりと柔らかな笑みを浮かべた。彼女がそっと手を伸ばしてレオの顎の下を撫でると、レオはねずみを抱え込んだまま、喉をゴロゴロと鳴らして甘えた。
部屋の奥でタイピングを続けていた大西明日香が、手を止めた。彼女は無表情のままモニターから視線を外し、足元で転がっている茶トラの毛玉と、それを優しく見守る凛の姿を静かに観察している。特命室の裏の要として常に張り詰めている彼女の切れ長で涼しげな目元には、普段の冷たい刃のような鋭さはなく、ほんのわずかだが、温度の通った柔らかい光が宿っていた。
佐野真二はローテーブルに置かれたコーヒーカップを手に取り、静かに一口飲んだ。酸味の少ない豆の香ばしい匂いが、鋭く研ぎ澄まされていた彼の神経をほどよく解していく。
しかし、その平穏は、重厚な扉が開く音によって唐突に破られた。
入ってきたのは、エレノア・スペンサーだった。
仕立ての良いネイビーのパンツスーツに身を包み、乱れ一つないダークトーンの波打つロングヘアを肩に流している。だが、その透き通るような白い顔には、普段の完璧に感情を押し殺した「氷の令嬢」の仮面がわずかにひび割れ、隠しきれない焦燥と深い疲労の色が滲んでいた。
「……エレノア」
真二はコーヒーカップを音を立てずに置き、静かに立ち上がった。そのただならぬ雰囲気に、凛は慌てて姿勢を正し、レオを抱き寄せる。明日香も即座にモニターへと視線を戻し、臨戦態勢に入った。
「本国から、正式な召還命令のドラフトが届きました」
エレノアの声は硬く、かすかに震えていた。彼女は真二の対面のソファに腰を下ろし、手元のタブレットをテーブルの中央に滑らせた。画面には、英国の提携先企業である親会社からの、法的拘束力を持つ書類のPDFが表示されている。日付は今日、そして宛先はエレノア・スペンサー本人だ。
「召還命令……? しかし、武藤常務の不正はアリアのリークによって完全に世間に露呈しています。旧体制の信用はすでに地に落ちているはずだ」
真二が鋭く問うと、エレノアは小さく首を横に振った。
「彼らは、組織が腐りきっている事実よりも、自分たちの居場所が脅かされることを恐れたのです。武藤常務というトカゲの尻尾を切り捨てた後、残った旧体制の役員たちは、日本のメインバンクと密かにスクラムを組みました。そして、本国の親会社に対して『一連の不祥事は、エレノア・スペンサーの強引なプロジェクト進行と管理不足が招いた混乱である』という虚偽の報告を上げ、多数決で承認させたのです」
「責任のすり替えですか。見事な事なかれ主義だ」
真二の口角が、氷のように冷たく上がった。
「室長」
奥のデスクから、明日香が抑揚のない声を上げた。彼女の指先が高速でキーボードを叩き、新たな情報をディスプレイに引きずり出している。三台のモニターの青白い光が、彼女の冷静な横顔を照らしていた。
「エレノア役員の言葉を裏付けるデータを確認しました。セレナ・デイヴィス氏のファンドが仕掛けていた市場外での神宮寺グループ株式の買い集めですが、数時間前、メインバンクからの横槍により金融庁の監視対象リストに上げられ、取引口座が一時的に凍結されています」
「アリア・ローランが築き上げた『私が内部告発を主導した改革の旗手である』という世論の熱も、役員会という密室の論理の前では効力を失いつつあります」
エレノアは両手を膝の上で強く握りしめた。彼女のブルーグレーの瞳が、悔しさに揺れている。彼女の正当な努力も、真二が裏で進めてきた徹底的な暗躍も、すべてが巨大な組織の強固な自己保身という分厚い壁に阻まれようとしていた。
「明日の臨時取締役会で、私の解任と本国への送還が正式に決議されます。……盤面は、完全に膠着しました。私たちが積み上げてきた正攻法のロジックも、セレナの資本も、神宮寺という老舗の岩盤を突破するには、あと一歩、決定的な圧力が足りなかった」
沈黙が降りた。
明日香のタイピング音すら止まり、部屋には再び静寂が満ちた。真二は腕を組み、脳内で無数のシミュレーションを走らせた。盤面上の駒を一つ一つ確認していく。
ルシア・カルヴァーリョに指示を出し、メインバンクのシステムに非合法なハッキングを仕掛けてさらなるスキャンダルを暴露するか。あるいは、アリア・ローランを通じて海外メディアに神宮寺と銀行の癒着を大々的にリークし、外圧を高めるか。
だが、明日の臨時取締役会というタイムリミットに間に合わせ、かつ物理的な決定打とするには、どれも時間が足りない。
その重苦しい空気を切り裂くように、再び扉が、今度はノックもなしに無遠慮に開け放たれた。
「やだ、何このお通夜みたいな空気。真二、クーラーの設定温度低すぎるんじゃない?」
軽やかな足音とともに現れたのは、クロエ・ルルーシュだった。
彼女は鮮やかなレモンイエローのサマードレスを纏い、部屋の空気を一瞬で華やかに塗り替えるようなオーラを放っていた。週末のショッピングの帰りのような気軽な足取りで、小さなチェーンバッグを肩から下げている。彼女の存在自体が、この張り詰めたビジネスの戦場において完全に異質だった。
「ミャウッ!」
クロエの姿を見つけたレオが、ねずみのおもちゃを放り出し、短い足でタタタッと駆け寄って彼女の足首にすり寄った。クロエは屈み込んでレオをひょいと抱き上げ、慣れた手つきで顎の下を撫でた。
「クロエ。……今は、少し状況が悪い」
真二が静かに告げると、クロエはレオを抱いたまま、不思議そうに小首を傾げた。
「状況が悪い? エレノア、まさかあのシワだらけのおじいちゃんたちに負けそうなの? 私が特等席で見てるこのショー、バッドエンドなんて絶対に許さないわよ」
エレノアは小さく息を吐き、事の顛末を簡潔に説明した。旧体制の役員たちがメインバンクと結託し、本国の親会社をも巻き込んで、エレノアをスケープゴートにしようとしていること。セレナの資本介入すらも、金融庁という国を巻き込んだ圧力で止められていること。
それを聞いたクロエは、同情するでもなく、焦るでもなく、ただ呆れたように「はぁ」と大げさな溜息をついた。
「なんだ、そんなこと。……もっと早く言いなさいよ、真二」
クロエはレオを凛の腕の中にポイッと預けると、自身の小さなチェーンバッグからスマートフォンを取り出した。
「神宮寺のメインバンクって、東京中央銀行よね。そこの頭取、パパとよくモナコでゴルフしてるわ。あと、エレノアの本国の親会社のCEO。彼、うちのファンドが筆頭株主だったはずだけど」
その言葉に、エレノアの目がわずかに見開かれた。
クロエ・ルルーシュ。彼女の実家は、ヨーロッパを拠点とする世界的なラグジュアリーブランドの創業一族であり、同時に巨大な投資ファンドを裏で操る、桁外れの資本家だ。
クロエは一切の躊躇なく発信ボタンを押し、スマートフォンを耳に当てた。
「Allô, Papa? C'est Chloe.」
流暢で、少し甘えたようなフランス語が特命室に響く。クロエは爪先で床をトントンと叩きながら、まるで週末のショッピングの相談でもするかのような軽い調子で言葉を紡いでいく。彼女のまとうレモンイエローのドレスが、照明を受けて鮮やかに揺れた。
「ええ、今、東京。……ねえパパ、ちょっと退屈しのぎに手伝ってほしいことがあるの。神宮寺グループって知ってるわよね。あそこのメインバンクの頭取と、英国の提携先のCEOに、今すぐパパから直接電話してちょうだい」
クロエの口元に、小悪魔のような、ひどく残酷な笑みが浮かんだ。
「エレノア・スペンサーを神宮寺のトップに据えないなら、うちのグループの資本と取引、全部引き揚げるって脅して。……ええ、今すぐ。5分以内にね。メルシー、パパ。愛してるわ」
通話を切り、クロエはスマートフォンをバッグに放り込んだ。
「これでよしっと」
クロエはあっけらかんと言い放ち、テーブルの上のミネラルウォーターを手に取って喉を潤した。
特命室は、水を打ったような静寂に包まれた。真二も、明日香も、そしてエレノアも、今目の前で行われたことの意味を消化するのに数秒を要した。正攻法のロジックも、緻密な情報戦も、すべてを無意味にする次元の違う一撃だった。
それからわずか3分後。
テーブルに置かれたエレノアの端末が、狂ったように着信音を鳴らし始めた。画面には、本国のCEOの名前が表示されている。
同時に、奥のデスクで監視を続けていた明日香が、弾かれたように顔を上げた。
「室長、エレノア役員。……金融庁の監視名目でストップしていたセレナ・デイヴィス氏のファンドの取引制限が、たった今、全解除されました。さらに、東京中央銀行の役員会議事録のドラフトデータに不正アクセスして確認したところ、明日の神宮寺への融資継続条件として『エレノア・スペンサーの代表権取得』が緊急追加されています」
明日香の機械的な声が、信じられない事実を告げた。
エレノアは震える手で端末を見つめた後、通話ボタンを押し、耳に当てた。
『……ミズ・スペンサー。先ほどの件だが、大きな行き違いがあったようだ』
漏れ聞こえてくる本国CEOの声は、先程までの高圧的な態度とは打って変わり、明らかな狼狽と平身低頭な謝罪の色を帯びていた。彼らの親会社すらも、クロエの背後にある巨大な資本の前では首を垂れるしかないのだ。
数分後、通話を切ったエレノアは、呆然とした視線をクロエに向けた。
「……本国からの召還命令も、今、白紙撤回されました。逆に、旧体制の役員たちの退任を要求する強烈な圧力が、親会社から直接入っています」
「どう? 私の奇策。泥遊びも、さすがにこれ以上長引くと飽きちゃうからね」
クロエは得意げにウインクをし、再び凛の足元でねずみのおもちゃに飛びかかっているレオにしゃがみ込んだ。
真二の顔に、確かな勝機を捉えた冷徹な笑みが浮かんだ。
「だが、これで最後の障害は消え去った」
真二はエレノアに向き直り、静かに、しかし絶対的な重みを持つ声で告げた。
「明日の取締役会。彼らが用意した断頭台は、彼ら自身を処刑する舞台に変わります。……さあ、エレノア。神宮寺の玉座を獲りに行きましょう」




