第44話 明日香の防衛線
火曜日の早朝。
地上40階に位置するエレノア・スペンサーのタワーマンションは、東京を飲み込もうとしている巨大な混乱から完全に隔絶され、静謐な空気に包まれていた。分厚い遮音ガラスの向こう側では、まだ薄暗い青色が残る空から徐々に白み始め、朝焼けがビル群の輪郭を鋭く切り取っている。
バスルームからは、勢いよく降り注ぐシャワーの低い水音が響いていた。大理石のタイルに水滴が弾け、換気扇の一定の駆動音と混ざり合って密室の空気を白く染め上げている。
佐野真二は、少し熱めに設定した湯を頭から浴びながら、ゆっくりと目を閉じていた。鍛え抜かれた厚い胸板と背中を湯が滑り落ち、前世から引き継いだ重い疲労の感覚を物理的に洗い流していく。高い水圧が肩甲骨を打ち据える感覚に意識を委ね、ただ静かに呼吸を整えていた。
その時、すりガラスのドアの向こうから、切羽詰まったような細い声が聞こえた。
「ミャァ……ッ! ミャァァッ!」
同時に、ドアの下部を小さな前足でカリカリと必死に引っ掻く音が響く。プラスチックの表面に当たる爪の音が、不規則で焦ったようなリズムを刻んでいた。
真二は湯を止め、濡れた髪を無造作に後ろへ掻き上げてから、ドアのノブに手をかけて少しだけ隙間を開けた。
脱衣所のふかふかとしたマットの上で、茶トラの子猫――レオが、ピンと尖った耳を後ろに反らし、大きな丸い瞳を不安げに揺らして真二を見上げていた。小さな身体が微かに震え、ピンク色の鼻をヒクヒクと動かしている。
「……大丈夫だ。溺れてはいない」
真二は腰にバスタオルを巻き、屈み込んでレオの小さな頭を大きな手でそっと撫でた。
レオは真二の体温と無事を確認してホッとしたように「ミュー」と短く鳴き、濡れた真二の足首にすりすりと柔らかな体を擦り付けた。
「随分と心配されてしまいましたね」
背後から、静かな声がした。
リビングへ続くドアの枠に寄りかかり、エレノアが微かに口角を上げて立っていた。彼女は上質なダークネイビーのシルクのルームウェアを纏い、手には淹れたてのコーヒーが入ったマイセンのカップを持っている。湯気がふわりと立ち上り、深煎りの豆の香ばしい匂いが脱衣所の湿った空気に混ざり合った。
「ただのトラウマのフラッシュバックです。あなたも、あまり甘やかさないように」
真二はレオの顎下を軽く掻いてやりながら立ち上がり、エレノアからコーヒーを受け取った。ブラックのままの一口を飲み込むと、鋭い苦味が完全に目を覚まさせてくれる。
「外の喧騒が、まるで別世界のようです」
エレノアは窓の外、朝日に照らされてオレンジ色に染まり始めた東京のビル群に視線を向けた。
「今はまだ、嵐の中心ですからね。だが、今日から連中は生き残りを懸けて、手当たり次第に噛み付いてくる。……俺たちにも」
真二は冷めかけたコーヒーをもう一口飲み、その深い漆黒の瞳に冷徹な光を宿した。
★★★★★★★★★★★
午前10時。神宮寺グループ本社、特命担当室。
分厚い防音扉の奥に、書類の束を両腕に抱えた菊地凛が小走りで戻ってきた。彼女の白い頬は微かに紅潮し、肩で息をしている。ヒールがフローリングを叩く足音が、普段よりも明らかに急いでいた。
「室長、ただいま戻りました。……あの、社内の空気が、昨日よりもひどいです」
凛は自分のデスクに重いバインダーを置きながら、不安そうに声を落とした。
「営業部のフロアでは、あちこちでシュレッダーがずっとフル稼働していて、誰も電話を取ろうとしません。総務部の人たちも、過去のファイルボックスを慌ててダンボールに詰めていて……廊下ですれ違う人たちの目が血走っていて、本当に怖かったです」
「気にするな。沈みゆく泥舟の上で、ネズミが共食いを始めているだけだ」
革張りのソファに深く腰を沈めた真二は、手元のタブレット端末から視線を外さずに淡々と答えた。その声には一切の動揺もない。
その時、部屋の奥で3台のモニターと向き合っていた大西明日香のタイピング音が、ピタリと止まった。
「室長」
明日香が、淀みない声で報告を上げた。
「システム管理部より、当室のサーバーへのアクセス権限を強制的に停止するコマンドが発動されました。同時に、人事部から『特命担当室の業務一時凍結および、全スタッフの待機命令』が社内ネットワーク経由で発令。さらに……」
明日香は中央のモニターに視線を固定したまま、言葉を続けた。画面には、社内システムのアクセスログが赤字で滝のように流れている。
「現在、監査部および総務部の合同チーム、計6名がこの部屋に向かっています。エレベーターのログと各フロアのゲート通過記録から推測して、到着まであと40秒」
「手際がいいことだ。責任の所在をうやむやにするために、まずは我々を『情報漏洩の疑いがある反逆者』としてスケープゴートに仕立て上げ、物理的にデータを押収するつもりか」
真二はタブレットをテーブルに置き、ゆっくりとコーヒーカップを手に取った。その動作には一ミリの焦りもない。
「対応しますか」
明日香が、真二の顔を見ずに問う。
「すべて弾き返せ。1秒たりとも、連中の思い通りにさせるな」
「承知いたしました」
真二の短い指示を受けた瞬間、明日香の指先が、これまで見たこともないほどの異常な速度でキーボードを叩き始めた。カタカタという単調な打鍵音ではなく、もはや連続した一つの高いノイズに近い。青白い光に照らされた彼女の横顔は、完全に感情を排除した絶対零度の刃のようだった。
「システム管理部からのアクセス遮断コマンド、無効化。エレノア役員が持つ英国本社のマスター権限をオーバーライドし、当室の全データを海外のセキュアサーバーへルーティング完了。社内ネットワークからの干渉を物理的に遮断しました」
わずか十数秒の間に、特命担当室のデジタル防衛線は完璧に構築された。
「人事部の業務凍結命令に対しては、事前に法務部を通して作成しておいた『不当労働行為および権限乱用に対する即時提訴の準備書面』を、全役員および外部の労働基準監督署へ自動送信。同時に人事部長の個人端末へ警告を発報。……現在、人事部からのアクセスは完全に沈黙しました」
明日香が報告を終えるとほぼ同時に、分厚い防音扉が乱暴な音を立てて開け放たれた。
重い扉が壁のストッパーに激突し、鈍い衝撃音が室内に響く。踏み込んできたのは、血走った目をした監査部の三田村次長と、それに付き従う総務部の社員たちだった。三田村のネクタイは大きく曲がり、額には脂汗が光っている。
「そこまでだ、佐野! エレノア役員および特命担当室には、社外への機密情報漏洩の重大な嫌疑がかかっている! 現在をもってこの部屋のすべての端末を監査部が差し押さえる。PCから離れろ!」
三田村が、大声を張り上げて室内に踏み込んできた。その後ろで、総務部の社員たちが凛のデスクの方へ向かおうと一歩踏み出す。
凛が恐怖で肩をすくませ、手元のファイルボックスを抱え込むようにして後ずさった。
「……菊地さんのデスクには、指一本触れないでください」
静かだが、ひどく冷たく、重みのある声が部屋に響いた。
明日香が静かに椅子から立ち上がり、次長たちの前に立ちはだかった。
「なんだ君は! 監査部の業務命令が聞こえないのか!」
「監査部規定第14条第2項。特命事項を帯びた役員直轄部署への立ち入りおよびデータ差し押さえには、取締役会における過半数の承認、および社長印を押印した正式な令状が必要です」
明日香は無表情のまま、淀みなく言い放った。
「現在、あなた方が持っているその書類は、総務部長の単独決裁によるものですね。社内規定に照らし合わせ、完全に無効です」
「屁理屈を抜かすな! これは緊急事態だ! 会社を守るための特別措置として……!」
「会社を守るため、ですか」
明日香は次長の言葉を遮り、手元のタブレットを軽く操作した。背後にある大型モニターの一つに、いくつかの表と画像がはっきりと映し出される。
明日香は、監査部次長たちを足元を這う害虫を見るように冷ややかに見据え、立ち塞がった。
「監査部次長、三田村さん。あなたが過去半年にわたり、監査部内で計上していた『外部コンサルタントとの意見交換費』名目の交際費、計420万円。そのすべての領収書の日付と時間が、銀座の高級クラブ『ルナ』の出勤記録と完全に一致していますが、これも会社を守るための特別措置でしょうか」
三田村の顔から、一瞬にして血の気が引いた。
「な、何を……」
「さらにその後ろにいる総務部の方々。現在、あなた方の部署が管理している備品のリース契約先が、先日不正が発覚した武藤常務の関連ダミー法人と同一の住所であることを、すでに金融庁の調査窓口へリストとして提供済みです」
明日香は一歩、彼らの方へ距離を詰めた。その小柄な体から放たれる威圧感は、大柄な男たちを完全に萎縮させていた。
「これ以上、この部屋の業務を不当に妨害するというのであれば、今画面に表示したすべてのデータを、現在本社ビルを取り囲んでいるマスコミ各社、および東京地検特捜部の情報提供窓口へ、私のこの指先一つで一斉送信します。……押収を続けますか?」
三田村の唇がわななき、後ろにいた総務部の社員たちが顔を見合わせてジリジリと後退を始めた。彼らの足元が、目に見えて浮き足立っている。
「……ッ、憶えていろよ!」
三田村は顔を真っ赤にして捨て台詞を吐くと、逃げるように部屋から立ち去った。合同チームの男たちも、蜘蛛の子を散らすようにそれに続く。
乱暴に開け放たれた扉が、静かに閉まる。
特命担当室に、再び空調の低い駆動音だけが戻ってきた。
明日香はモニターの表示を通常に戻し、何事もなかったかのように自席に座り、再びキーボードに指を置いた。
「……排除完了しました。室長」
真二はソファに座ったまま、コーヒーカップを静かにテーブルに置いた。
「完璧な仕事だ、大西」
真二の短い賞賛の言葉に、明日香はキーボードを叩く手を止めないまま、ほんのわずかだけ、見えないほど微かに口角を上げた。
「彼らの足掻きは、すべて物理的・システム的に無力化しました。これ以上の直接的な干渉は不可能です」
「ああ。ゴミが自ら分別されにきたようなものだ」
真二は立ち上がり、窓の外を見下ろした。
眼下の道路には、中継車のアンテナが林立し、群がる人々の波が小さく見えた。神宮寺グループという巨大な虚飾の塔が、根元から崩れ落ちようとしている。
「あとは、本丸が完全に崩れ落ちるのを待つだけだ。……そして、新しい王を玉座に据える」




