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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第43話 アリアの世論誘導戦

 月曜日の朝。


 日本のビジネスの中心である丸の内は、いつものようにダークスーツに身を包んだ群れが足早に交差していた。しかし、今日ばかりはその光景に明確な異変が起きていた。駅の改札から吐き出される人々の視線は、ほぼ例外なく手元のスマートフォンの画面か、あるいはビルの壁面に設置された大型ビジョンに釘付けになっていた。


 ビジョンからは、ニュース番組のキャスターの緊迫した声が響き渡っている。


『――続いてのニュースです。日本を代表する総合企業、神宮寺グループにおける大規模な不正資金流用疑惑について、先週末から相次いで新たな事実が報じられています。武藤常務を中心とする旧経営陣の一部が、複数のダミー法人を経由して数十億円規模の裏金を作っていた疑いがあり、関係機関も重大な関心を寄せています』

『画面に出ているのが、その不正な金の流れを示すとされる内部資料の一部です。専門家によりますと……』


 行き交う人々の間から、ひそひそとしたどよめきが漏れる。

 スマートフォンのSNSアプリを開けば、タイムラインはたった一つの巨大なスキャンダルで埋め尽くされていた。


『#神宮寺グループ裏金』

『#武藤常務辞任しろ』

『#老舗財閥の闇』


 トレンドの上位を独占するこれらの言葉は、分刻みで新しい投稿を生み出し続けている。

 金曜日の夜、タブロイド紙のウェブ版に掲載された「佐々木翔太の不祥事の背後関係」を匂わせる小さな記事。それが最初の火種だった。週末の間にネット上で憶測が飛び交い、日曜日の夜、信頼性の高い経済メディアのトップ記者が、確たる証拠である資金ルートのリストとともに署名記事を全国一斉配信した。


 それと連動するように、数十万人規模のフォロワーを抱える複数のインフルエンサーや、SNSのオピニオンリーダーたちが一斉に声を上げ始めた。


『一個人の横領じゃなくて、完全に組織ぐるみの犯罪じゃん』

『古き悪しき日本の企業体質のテンプレ。こういう連中が甘い汁を吸い続けてる』

『神宮寺グループの製品、うちの会社でも使ってるけど契約見直すかも』


 ネット上の怒りは瞬く間に実社会へと広がり、一般消費者にも影響が波及しつつあります。神宮寺グループのカスタマーセンターには朝から抗議の電話が殺到し、一部の関連商品に対する不買運動を呼びかける声すら上がり始めていた。怒りの矛先は、完全に武藤常務とその派閥に集中している。


 その猛烈なバッシングの嵐の中で、もう一つ、別のトレンドが急速に順位を上げていた。


『#孤独な改革者』

『#エレノア・スペンサー』


 経済系のアカウントを中心に、ある一つの情報がまことしやかに、しかし極めて自然な形で拡散されていた。


『神宮寺の内部で、この腐敗した旧体制に対してたった一人で戦っていた役員がいるらしい』

『エレノア・スペンサー。弱冠二十代の外国人女性。ずっと窓際部署に追いやられて圧力を受けていたのに、内部告発の準備を進めていたとか、映画の主人公かよ』

『こういう硬直した組織に新しい風を吹き込めるのは、彼女みたいな外部の血だけだろ。徹底的に膿を出してほしい』


 画面の向こう側の熱狂は、現実の丸の内の空気を確実に塗り替えていた。


★★★★★★★★★★★


 神宮寺グループ本社、特命担当室。


 社内がパニックに陥っていることなど一切存在しないかのように、大西明日香は正確無比なタイピングを続けていた。


「人事部より共有。武藤常務の派閥に属する不動産部門の木崎専務、および総務担当の川島常務を含む関連役員3名から、体調不良を理由とした欠勤連絡が入りました」


 明日香の淡々とした声が、キーボードの打鍵音に混じって室内に響く。


「実質的な逃亡ですね。さらに、メインバンクである東京中央銀行の融資担当役員から、武藤常務への直接の面会を一切拒絶する旨の通達が秘書室に入りました。関連する主要取引先六社も、現在すべての新規契約と発注手続きをストップさせています。事実上の取引停止措置です」


 佐野真二は、手元のタブレットでリアルタイムに急落していく株価チャートを一瞥し、画面を暗転させてテーブルに置いた。


「周囲の堀は完全に埋まったな。本人の様子は?」

「武藤常務は現在、36階の自室に籠城中です。内線にも個人のスマートフォンにも一切応答していません。専属の秘書すら入室を拒まれている状態とのことです」


 真二は視線を、窓際に立つエレノアに向けた。

 彼女は仕立ての良いダークネイビーのパンツスーツを着こなし、腕を組んで東京のビル群を見下ろしている。その背筋はピンと伸び、かつて彼女の肩を強張らせていた見えない緊張感は、今は微塵も感じられなかった。


「株価の暴落は想定の範囲内です」


 エレノアは窓の外を見たまま、静かに言った。


「しかし、このまま売り込まれ続ければ、企業体力が致命的に奪われる。セレナのファンドの動きは?」

「すでに市場外で動いています」


 真二は手短に答える。


「底値で買い集め、経営権の基盤を固める。午後、あなたが新体制のトップとしてメディアに出れば市場は落ち着きます」


 エレノアはゆっくりと振り返り、真二を見た。

 ブルーグレーの瞳には、冷徹な理知の光が宿っている。


「……私の言葉一つで、この巨大な組織の運命が決まる」

「あなたがこれまで下してきた決断の積み重ねが、評価されるだけです」


 真二は短く返した。


「市場は実務の成果を正当に見る」


 エレノアはわずかに目を伏せ、微かに口角を上げた。


「……ミャウ」


 その時、特命室の片隅から細く高い声が響いた。

 足元を見ると、菊地凛からミルクをもらい終えたばかりの茶トラの子猫――レオが、トコトコと不器用な足取りで真二の足元まで歩いてきていた。

 まだ生後2ヶ月に満たない小さな体。昨日のバスルームでの水攻めを根に持っているかと思いきや、レオは真二の革靴のつま先にすり寄っている。


 真二は座ったまま、長い腕を伸ばして右手をレオの目の前に差し出した。指を軽く曲げ、力を抜いた緩い拳を作る。

 レオはピタッと動きを止め、目の前に現れた大きな岩のような拳をじっと見つめた。ピンと尖った小さな耳が、興味深そうに前を向く。丸く大きな瞳が、その奇妙な物体を観察している。

 やがて安全なものだと判断したのか、レオは慎重に拳の匂いを嗅ぎ始め、そして次の瞬間。


「ミャッ!」


 レオは短い両前足で真二の拳をガシッと抱え込み、そのまま親指の付け根のあたりに小さな口を開けてガブッと噛み付いた。

 生え揃ったばかりの乳歯だ。全く痛くはない。皮膚に小さな歯が当たるくすぐったい感触だけがある。

 真二は表情を変えないまま、レオがぶら下がった状態の拳を、ゆっくりと数センチだけ上に持ち上げた。

 宙吊りになったレオは「ミャーッ!」と抗議のような声を上げ、後ろ足が宙でジタバタと空を掻いている。


「佐野。あまり意地悪をしないであげてください」


 エレノアが、呆れたような、しかしどこか柔らかな声で言った。

 真二が拳を床に下ろすと、着地したレオは今度は拳の側面に自分の小さな頭をゴツン、ゴツンと何度も擦り付け始めた。喉の奥から、満足げなゴロゴロという低い音が聞こえてくる。


「力加減を教えているだけだ」


 真二は淡々と答えながら、人差し指でレオの顎の下を軽く撫でた。レオは目を細める。


「室長。レオちゃん、すっかり懐いてますね」


 離れたデスクからその様子を見ていた凛が、ふわりとした笑みを浮かべて言った。


「最初はあんなに小さくて震えていたのに。室長が優しくしてくれるのが、ちゃんと分かるんですよ」


 凛の言葉に、真二は撫でる手を止めずに答えた。


「動物は損得で動かない。自分に危害を加えるかどうかで人間を判断する」

「それって、人間よりもずっと誠実ってことですよね」


 凛が真剣な顔で頷く。


 その時、真二の内ポケットに入っていたスマートフォンが短く振動した。

 画面に表示されたのは、アリア・ローランの名前。


 真二はレオから手を離し、電話に出た。


「俺だ」

『おはよう、真二。私のショーの幕開け、楽しんでくれているかしら?』


 電話の向こうから、アリアの艶やかで自信に満ちた声が聞こえる。背後では複数のキーボードを叩く音や、指示を飛ばすスタッフの声が微かに響いていた。


「想定以上の延焼速度だ。武藤の周辺は完全に焼け野原になっている」

『当然よ。大衆は複雑な数字なんて読みたくないの。分かりやすい悪玉と、正義の物語が欲しいだけ』


 アリアは軽く笑い声を上げた。


『武藤常務の裏工作の決定的な証拠も、さっき金融庁のしかるべき窓口に届くよう手配しておいたわ。これで彼は社内政治どころか、法的にも詰みよ。地検が動くのも時間の問題ね』

「手配に感謝する」


 通話を切り、真二は立ち上がった。

 仕立ての良いジャケットのボタンを一つ留める。


「エレノア」


 真二の低く落ち着いた声に、エレノアは姿勢を正した。


「午後1時。緊急の役員会を開きます。議題は武藤常務ら関連役員の解任動議。そして、あなたが暫定トップとして実権を握ることの決議です」


 エレノアは小さく息を吸い込み、そして深く頷いた。


「反対する者は?」

「いません。彼らも保身のために旧体制の首を喜んで差し出すはずです」


 真二は手元の資料をまとめながら告げる。


「大西。役員会議室の手配と、必要書類の最終出力を」

「完了しています。いつでも動けます」


 明日香が即座に立ち上がる。


 真二は扉へと向かうエレノアの斜め後ろに付き従った。

 特命担当室の重厚な扉が開かれる。


「記者会見の原稿は、会議の進行中に最終調整を行います」


 真二は廊下を歩きながらエレノアに告げた。


「ええ。質問の想定問答集にはすべて目を通しました。厳しい追及が来るのは覚悟の上です」

「あなたが矢面に立つ必要はありません。過去の不正に関する法的な責任追及の対応は、法務部と我々が担う。あなたはあくまで、再生の象徴として未来を語ればいい」


「いいえ、逃げるつもりはありません。自らの意志でこの巨大な組織を率いるなら、すべての責任を背負う」


 エレノアの靴音が、静まり返った役員フロアの廊下に高く響く。


「それが、彼ら旧体制との一番の違いであることを、市場に示す必要があります。隠蔽も、責任転嫁もしない。私がすべてを白日の下に晒します」

「……了解しました」


 すれ違う秘書や他部署の社員たちが、驚きと畏怖の混じった視線で慌てて壁際に寄り、二人の道を空ける。彼らの顔には一様に、得体の知れない事態に対する戸惑いと、明確な怯えが浮かんでいた。もはや、先週までのようにエレノアを冷遇されていた窓際部署の人間だと見下す者は一人もいない。


 真二とエレノアは歩みを緩めることなく、最上階の役員会議室へと真っ直ぐに向かっていく。

 廊下の突き当たり。巨大な重い木扉が、彼らを待ち受けるようにそびえ立っていた。


「準備はいいですか」


 真二の問いかけに、エレノアは扉のドアノブに手をかけ、振り返ることなく答えた。


「開けて」

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