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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第42話 王の帰還

 日曜日の午後。エレノア・スペンサーが暮らす高層タワーマンションの広々としたバスルームには、絶え間ない水音と、それに負けないほどの甲高い抗議の声が反響していた。


「ミャァァァッ! ギャウッ!」

「暴れるな。すぐ終わるから大人しくしろ」


 袖を肘まで捲り上げた佐野真二は、バスタブの縁に腰を下ろし、両手で茶トラの子猫――レオの体をしっかりとホールドしていた。

 生後二ヶ月を過ぎ、保護された当初の弱々しさに比べて体つきは少しふっくらとしっかりしてきたレオだが、水に対する本能的な恐怖は健在だった。普段の愛らしい甘えるような鳴き声とは似ても似つかない、濁った声を上げて真二の手から抜け出そうと必死にジタバタと短い手足を動かしている。濡れた大理石のタイルに小さな爪が当たる音が、シャワーの水音に混じってせわしなく響く。


「佐野、もう少し優しく持ってあげられないのですか。レオが怖がっています」


 エレノアが、シャワーヘッドからぬるま湯を出しながら心配そうに声をかけた。彼女もまた、平日の隙のないパンツスーツ姿ではなく、濡れてもいいようにシンプルな白いTシャツにショートパンツという無防備な格好だ。彼女のブルーグレーの瞳は、手の中で暴れる小さな命に対する庇護欲で落ち着かなく揺れている。


「これでも最大限加減している。緩めれば一瞬で逃げ出して、この広いバスルーム中を泡だらけにして走り回るぞ」


 真二は表情を変えずに答えながら、レオの小さなピンク色の肉球が自分の腕に爪を立てようとするのを絶妙な力加減でいなした。

 真二の大きく分厚い手がレオの小さな体を包み込むようにホールドし、その関節の動きを完璧にコントロールしている。彼の手のひらは、前世での終わりのないキーボードのタイピングや重い資料の運搬で刻まれた微かなタコが残っていたが、その力の入れ具合は驚くほど繊細だった。決して痛みを与えず、しかし決して逃がさない。


 エレノアはペット用の低刺激シャンプーを手のひらで丁寧に泡立てた。カモミールの微かな香りが、温かい蒸気とともにバスルームに広がる。


「ごめんね、レオ。すぐ綺麗になるから」


 普段の冷徹な役員としての顔からは想像もつかないほど優しく、甘い声だった。彼女の細く白い指先がレオの柔らかな毛並みをマッサージするように洗っていくと、レオも観念したのか、抗議の声を少しだけ潜め、「ミャ……」と情けない声で鳴いた。

 泡を洗い流すと、フワフワだったレオの体は水を含んで半分ほどの細さになり、まるで別の生き物のようになった。その惨めな姿に、エレノアの口元から微かな笑みがこぼれる。


 真二が素早く用意していた大判のバスタオルでレオをすっぽりと包み込むと、ようやく安心したのか、レオは真二の腕の中で小さく身震いをした。真二はタオルの上から軽くレオの背中を叩いて落ち着かせる。


「後は俺が乾かしておく。着替えてこい。少し濡れている」


 真二の視線が一瞬だけ、エレノアのTシャツの胸元に向けられ、すぐに外された。レオが暴れた際の水飛沫を浴びた薄手の生地が、彼女の透き通るような白い肌に微かに張り付いている。


 エレノアは一瞬遅れて自分の状態に気づき、頬を微かに染めてコクリと頷き、足早にバスルームを後にした。


 30分後。

 広々としたリビングには、ドライヤーの温風でふんわりと元の毛並みを取り戻し、ソファの隅のカシミアのブランケットで疲れ果てて眠りについたレオの静かな寝息だけが響いていた。


 真二はアイランドキッチンのスツールに腰掛け、手元のノートPCの画面を睨んでいた。

 画面には、幾重にも暗号化された通信ソフトが立ち上がっている。黒い背景に緑色のプログレスバーが走り、次々とデータパッケージの復号化が完了していく。


『――で? 状況はどう?』


 スピーカーから、ルシア・カルヴァーリョの気怠げでハスキーな声が流れた。背景には、氷がグラスに当たる微かな音が聞こえる。相変わらず、どこか薄暗いバーの片隅からアクセスしているのだろう。


「世論の反応はアリアが完全にコントロールしている。武藤がいくら火消しに走ろうと、もはや神宮寺グループ全体への疑念は止まらない。旧体制の連中は今頃、責任の押し付け合いでパニックに陥っているはずだ」

『そうでしょうね。こっちの作業も終わったわよ。ケイマンとバージン諸島のサーバーをいくつか経由したけど、最終的な到達点は丸裸にしてやったわ』


 ルシアの言葉とともに、真二の画面に新しいファイルのアイコンが次々と現れた。


『武藤常務と、彼に連なる旧体制の役員5名。彼らが過去3年間にアペックスのようなダミー企業群を経由してオフショアに逃がした裏金のトランザクション履歴。それから、彼らの個人用デバイスから抜いた、生々しい相談の録音データと暗号化メッセージのやり取り。……完璧なパッケージよ。どんな優秀な弁護士をつけても言い逃れは不可能ね。彼ら、デジタルデータの隠蔽に関しては素人同然だったわ。システムへのアクセス権限を少し偽装した程度で、足跡を完全に消せたと思い込んでいたのよ』

「ご苦労。これで彼らの『首』はいつでも刎ねられる」


 真二はファイルの中身を素早くスクロールしながら確認した。表示されたファイルの中には、武藤たちが料亭の密室で交わした生々しい会話の音声データまで含まれていた。『これでもう、我々の天下だな』という武藤の下劣な笑い声が、短い再生時間の中に切り取られている。膨大な数字と文字の羅列の中に、神宮寺グループを腐敗させてきた長年の膿がすべて可視化されていた。武藤たちが私腹を肥やすために会社にどれだけの損害を与えてきたか、その緻密な裏帳簿が、今、真二の手の中にある。


『でも、真二』


 ルシアの声が少しだけ真剣な響きを帯びた。


『武藤たちを告発して追い出したところで、役員会が空っぽになるだけよ。今の神宮寺は株価が底を打って、市場からの信用はゼロ。このままじゃ、会社ごと沈むわよ』

「沈ませはしない。そのための『底』だ」


 真二はPCの画面を切り替えた。

 表示されたのは、セレナ・デイヴィスからの着信だった。真二はルシアとの通話を保持したまま、セレナの回線を開いた。


「俺だ」

『待ちくたびれたわよ、真二』


 電話の向こうから、セレナの挑発的で余裕に満ちた笑い声が聞こえた。


『見事な暴落ぶりね。神宮寺の株価、先週末から30%も吹っ飛んでる。おかげで、うちのファンドが用意した資金で、市場に出回っている浮動株を底値でしこたま買い集めることができたわ。日本の個人投資家も、弱腰の機関投資家も、完全にパニック売り状態よ。彼らが投げ捨てた株券を、私たちがありがたく拾い上げているところ』

「現在の持ち株比率は」

『ダミーの機関投資家を通じた分も含めて、すでに15%を超えたわ。これ以上は大量保有報告書を出さなきゃいけなくなるけど……いつでもいけるわよ。委任状争奪戦の準備は完璧。私たちの本国のトップも、日本の老舗財閥を丸ごと飲み込めるかもしれないって聞いて、すっかり色めき立ってるわ。まさか、一介の社員だったあなたがここまで完璧に盤面を整えてお膳立てしてくれるなんてね』

「武藤たちの不正データは揃った。週明けの臨時役員会で彼らを完全に失脚させる。同時に、株主としての権利を行使し、経営陣の刷新を要求してくれ」

『ええ。旧体制の無能な老人たちを一掃して、新しいトップを据える。……本国から切り捨てられそうになっている、悲劇のヒロインをね』


 セレナの言葉に、真二はリビングの窓際に立つ人影に視線を向けた。

 着替えを終え、ネイビーのシルクのルームウェアを纏ったエレノアが、静かに窓の外を見下ろしていた。


 真二はPCを閉じ、エレノアの隣へと歩み寄った。

 窓の外には、終わらない首都の脈動が広がっていた。無数のビル群が放つ光が、暗闇をどこまでも埋め尽くしている。


「……準備が整ったようですね」


 エレノアが、窓から視線を外さずに静かに言った。その横顔には、かつて彼女を縛っていた孤立への恐怖も、他者を拒絶する氷の壁もない。


「ええ。武藤常務をはじめとする旧体制派閥の不正の証拠、そして彼らを追放した後の空白を埋めるための、セレナの資本。すべて揃いました」


 真二の言葉に、エレノアはゆっくりと振り返り、真二を真っ直ぐに見つめた。

 ブルーグレーの瞳の奥には、ただ一つ、自分を信じ、共に死線を潜り抜けてきた目の前の男への、絶対的な信頼だけがあった。


「本国は、このスキャンダルの責任をすべて私に押し付け、日本から撤退させるつもりでした。しかし、あなたが用意したこの盤面なら……私が、神宮寺のトップに立つことができるのですね」

「ただトップに立つだけではありません」


 真二は一歩距離を詰め、低い声で告げた。


「アリアの世論操作により、あなたは『腐敗した日本の旧体制に一人で立ち向かい、内部告発を主導した改革の旗手』としてメディアに祭り上げられる。アリアの描いたシナリオ通り、世間は今、不正を働く旧体制を憎悪し、新しい清廉なリーダーを渇望しています。世間の熱狂的な支持と、筆頭株主となる外資ファンドの強力なバックアップがあれば、いかに強大な本国の役員会であろうと、あなたを無視することはできなくなります」


 エレノアは小さく息を吸い込んだ。


「……恐ろしい男ですね、あなたは。私を盾にすると言っていたのに、気がつけば、私を王座に座らせようとしているのですね」

「俺は、俺の居心地の良い場所を作りたいだけです。そのためには、あなたが頂点にいるのが一番手っ取り早い」


 真二が淡々と返すと、エレノアはふっと口角を上げ、そして真二のネクタイを外したままのシャツの襟元に、そっと手を伸ばした。

 かつては触れることさえ拒絶していた彼女の指先が、今は戸惑うことなく真二の肌に触れた。真二の確かな体温を確かめるように、細い指先がシャツの生地越しに滑る。


「いいでしょう。あなたのその不遜な野望に、私が最後まで付き合います」

「……光栄です」


 真二は視線を外し、ポケットからスマートフォンを取り出して短縮ダイヤルを押した。

 数回のコールの後、大西明日香の淀みない声が応答する。


『はい、室長』

「大西。準備はいいか」

『すべてのトラップとデータ送信のスクリプト、スタンバイ済みです。指定された三十二ヶ所の送信先へのルーティングも、すべてダミーサーバーを経由するよう設定を完了しています。ご指示があれば、いつでも実行可能です』


 真二は窓の外、神宮寺グループの本社ビルがある方角を見据えた。前世で自分を搾取し尽くした巨大な組織。その腐った中枢を、今度はこちらから完全に解体する。


「武藤の不正データを、社外取締役全員、主要取引銀行、そして大口の機関投資家へ一斉送信しろ。……大掃除の最終フェーズだ。一気に終わらせるぞ」

『承知いたしました。実行します』


 電話越しに、大西明日香のエンターキーを叩く静かな、しかし決定的な音が響いた。

 真二はスマートフォンをポケットにしまい、眼下の広大な光の海へと静かに視線を戻した。

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