第41話 神宮寺グループの闇
月曜日の朝。神宮寺グループ本社の空気は、先週までの膠着した政治闘争のそれとは全く異なっていた。
焦燥、混乱、そして保身。
フロアを歩く社員たちの歩調は不自然に速く、誰もが手元のスマートフォンでニュース速報を気にしている。各部署の電話は朝一番から鳴り止まず、怒声と謝罪の声が入り乱れていた。
「申し訳ございません。現在、事実関係を確認中でして……はい、プレスリリースにつきましては後ほど広報部より……」
「だから、アペックスとの取引履歴は全部洗い出せって言っただろう! 監査が入る前にこちらの部署の潔白を証明できるデータを用意しろ!」
「おい、武藤常務と連絡つかないぞ! 秘書室もパニックになってる!」
怒号が飛び交う中、各フロアに設置されたテレビモニターには『老舗財閥・神宮寺グループ、巨額の不正資金流出疑惑』というセンセーショナルなテロップが踊っている。佐々木翔太の懲戒解雇という一個人の不祥事は、アリア・ローランが緻密に仕掛けたリークによって、武藤常務が主導する裏ファンドへの不正送金システムという巨大な組織的腐敗へと鮮やかにすり替えられ、世間に暴露されていた。
週末の間にネットニュースから火がつき、月曜の朝刊各紙が一斉に後追い記事を出したことで、事態は完全に神宮寺グループの手におえない規模へと膨れ上がっていた。普段は静謐を保っている役員フロアへ続く専用エレベーター前にも、多くのマスコミが殺到し、警備員たちが怒号を上げながらそれを押し留めている。
株価は寄り付きから売り注文が殺到し、すでにストップ安の気配を見せている。武藤常務の派閥に属する幹部たちは、特捜部の任意聴取や社内監査への対応に追われ、事実上、完全に機能停止に陥っていた。神宮寺グループという巨大な船が、今まさに内部から崩壊し、沈没しようとしている。その音を、誰もが肌で感じていた。
特命担当室。
大西明日香は、フロアのパニックなど一切存在しないかのように、正確無比なタイピングを続けていた。その打鍵音は、普段よりわずかにスピードを上げているようにさえ聞こえた。
「室長。今朝の主要紙、および経済系ウェブメディアのトップニュースは、すべて神宮寺グループの不正資金問題で占められています」
明日香が抑揚のない声で報告する。彼女の視線は3台のモニターに固定されたままだ。画面上には、急転直下で暴落していく神宮寺グループの株価チャートと、SNSのトレンドワードが滝のように流れていた。
「株価の急落は、海外の機関投資家による空売りが牽引しています。さらに、SNS上では『神宮寺不買運動』のハッシュタグがトレンド入りし、一般消費者にも影響が波波及しつつあります。佐々木翔太の横領事件を端緒とした、武藤常務の裏ファンドへの資金流出。アリア・ローランの仕掛けたリークは完璧でした。メディアは『権力者の腐敗』という最も大衆が喜ぶストーリーに食いついています。関連する下請け企業への飛び火も始まっており、武藤派閥の資金源はこれで完全に絶たれました」
「……」
佐野真二はソファに深く腰掛け、ブラックコーヒーの入ったカップを見つめていた。
翔太と結城麻衣を破滅させるために熾した火種は、予想を超えて神宮寺グループという巨大な山全体を焼き尽くす山火事へと発展していた。
そこへ、重厚な扉が静かに開く。
エレノア・スペンサーだった。
彼女は無言で部屋に入ると、真二の対面のソファに崩れ落ちるように腰を下ろした。
いつもは一切の隙なくセットされているダークトーンの波打つ髪が、わずかに乱れている。透き通るような白い肌は完全に血の気を失い、ブルーグレーの瞳には深い疲労の色が濃く沈んでいた。
「……ロンドンとのビデオ会議が終わりました」
エレノアの声は、ひどく掠れていた。
「本国の判断は」
真二がカップを置いて問う。
「……私の、プロジェクト最高責任者からの解任。および、今月末での本国への召還です」
エレノアは自嘲気味に、微かに唇を歪めた。
「本国の株主たちからすれば、私は『身内の恥を世界に晒した無能な責任者』に過ぎない。日本の役員たちも、ここぞとばかりに私に責任を押し付けてきたわ。私が武藤たちの不正に加担していたという匿名の怪文書まで、本国に送りつけられている。……私の、負けです」
エレノアは膝の上で両手を強く組んだ。白い指先が白く鬱血するほどに。
「佐野。特命担当室は、本日をもって解散とします。あなたと大西には、事前に約束していた通り、希望する部署への異動と十分なポジションを保証するよう人事に手配済みです。菊地さんの身分も、人事部の一般事務職として本採用されるよう根回しを終えました。彼女が二度と、あのような理不尽な目に遭わないように」
「……」
「あなたのおかげで、佐々木と武藤という私の最大の障壁は排除できました。結果として私の首が飛ぶことにはなりましたが、あなたが私にしてくれた仕事は完璧でした。あなたが集めてくれたデータのおかげで、少なくとも私自身への横領の疑いだけは晴らせそうです。約束通り、報酬はあなたの指定した口座に振り込まれます。……もう、これ以上あなたを私の泥船に付き合わせるわけにはいきません」
真二は無言のまま立ち上がり、エレノアの前に歩み寄った。
そして、彼女が組んでいる両手の上に、自分の大きな手を無造作に重ねた。
「……っ」
エレノアが息を呑み、顔を上げる。氷のように冷たかった彼女の手が、微かに震えていた。真二の手のひらから伝わる圧倒的な熱が、彼女の冷え切った指先を強く包み込む。
「俺はまだ、この船を降りるとは言っていません」
真二の声は、深い海の底のように静かで、圧倒的な熱を帯びていた。
「あなたは俺の盾です。その盾が本国からの理不尽な圧力で簡単にへし折られるのは、俺の計画の邪魔になります。武藤が消え、会社が混乱している今こそ、内部からこの巨大な組織を掌握する最大の好機です」
「佐野……でも、本国の決定は絶対です。私にはもう、それを覆す権限も資金も……」
「俺がなんとかします」
真二は彼女の手を離し、振り返って明日香を見た。
「大西。本国の主要株主の構成と、神宮寺グループの現在の債務状況、そしてセレナのファンドによる市場外での株式取得状況をすべてリストアップしろ」
「すでに手元にあります」
明日香は即座にキーボードを叩き、データを真二のタブレットに送信した。
「……エレノア」
真二はタブレットを手に取り、エレノアを見下ろした。
「荷物をまとめるのはまだ早い。数日だけ、耐えてください」
★★★★★★★★★★★
金曜日の午後8時。
広尾の閑静な住宅街にひっそりと佇む、看板のない一軒家レストラン。
限られたVIPしか予約を取れないそのプライベートな空間で、真二は薄いクリスタルグラスに注がれたヴィンテージのシャンパーニュを静かに味わっていた。
対面に座るアリア・ローランは、深いエメラルドグリーンのシルクドレスを完璧に着こなしていた。彼女の艶やかな浅黒い肌に、ドレスの色が息を呑むほど美しく映えている。首元で輝く繊細なダイヤモンドのネックレスが、テーブルに置かれたキャンドルの光を受けて柔らかく瞬いていた。
「完璧なショーだったでしょう?」
アリアは長い指でグラスのステムを弄りながら、満足げに微笑んだ。
「あの佐々木翔太の個人的な横領が、どうしてこんなグループ全体の組織的腐敗として世間に認知されたと思う?」
「あなたが、メディアの『見たいもの』を正確に与えたからです」
真二は、運ばれてきた前菜――軽く炙った帆立貝柱に、キャビアと柑橘のソースをあしらったもの――にフォークを入れた。
「正解。大衆は、一個人の転落よりも、巨大な権力が腐敗しているというストーリーを愛するの。私はほんの少し、彼らの視線を武藤常務の裏ファンドへ誘導し、SNSのインフルエンサーたちに『老舗財閥の闇』というキーワードを囁かせただけ。あとはメディアが勝手に延焼してくれたわ」
アリアは帆立を口に運び、目を細めた。
「美味しい。酸味のバランスが絶妙ね」
「柑橘だけじゃない。ソースのベースに、発酵させたトマトの上澄み液を使っている。キャビアの強い塩気を、まろやかな旨味で包み込んでいるな」
真二が淡々と食材の構成を分析すると、アリアは楽しそうに喉の奥で笑った。
「相変わらず、舌も目も鋭いわね。……でも、真二。これで神宮寺グループの株価は底なし沼よ。世論の怒りは頂点に達している。エレノア・スペンサーも、このままじゃ火だるまになって本国に送り返されるわね」
アリアは身を乗り出し、テーブル越しに真二を真っ直ぐに見つめた。
「あなたは、どうするおつもり? 復讐の対象はもう消えた。このまま炎上する神宮寺を見捨てて、別の舞台に移る? 私のクライアントになれば、あなたのその手腕、世界中で高く売ってあげるわよ」
真二はシャンパーニュの残りを飲み干し、静かにグラスを置いた。
「俺は、舞台を降りるつもりはありません」
真二の瞳の奥で、冷たく暗い炎が静かに燃え上がった。
「神宮寺グループが焼け野原になったのなら、好都合です。更地になった方が、新しい建物を建てやすい。世論が神宮寺を憎んでいるのなら、その世論を反転させる『新しい顔』が必要になる」
「……なるほど」
アリアの目が、劇的なシナリオの気配を嗅ぎ取って強い光を帯びた。
「エレノア・スペンサーを、旧体制の腐敗を内部から浄化する『悲劇のヒロイン』であり『改革の旗手』として再ブランディングする。そういうことね?」
「その通りです。本国が彼女を切り捨てる前に、日本国内の世論と市場が『彼女こそが神宮寺グループの救世主だ』と認知すれば、本国も彼女を切ることはできなくなる。むしろ、彼女を神輿に担がざるを得ない。そのための第二のリークの準備はすでにできています」
「面白くなってきたわね」
アリアは指先でトントンとテーブルを叩きながら、急速にプロデューサーとしての思考を回転させ始めた。
「まずは彼女の孤立無援な状況を、あえて同情的にメディアに漏らす。そこへ、彼女が独自の権限で不正の温床を断とうとしていた証拠を投下する。インタビューのセッティングはこちらでやるわ。彼女の氷のような美貌は、画面映えする。冷酷な役員から、孤高のジャンヌ・ダルクへの転換ね」
アリアはゆっくりと背もたれに寄りかかり、小さくため息をついた。
「最高のシナリオだわ。絶望の淵に立たされた氷の令嬢が、腐敗した巨大組織を一人で改革する。大衆が熱狂する要素がすべて揃っている。真二、あなたって人は……本当に恐ろしい演出家ね」
「俺はただの裏方です。世論の誘導と、彼女を美しく見せるためのライトの当て方は、プロフェッショナルであるあなたに任せたい。……受けていただけますか」
真二の問いかけに、アリアは挑発的な笑みを浮かべた。
「もちろんよ。こんなに刺激的なショー、私以外の誰かにプロデュースさせるわけにいかないもの。……でも、私のギャラは高いわよ?」
「資金なら、セレナのファンドが潤沢に用意しています」
「完璧ね」
アリアが艶やかに微笑み、運ばれてきたメインディッシュの仔羊のローストへとナイフを伸ばす。
美しいロゼ色の焼き加減の肉に刃を入れると、芳醇なスパイスの香りがテーブルを満たした。
「素晴らしいわ。この火入れ。それに、ソースの奥にあるこの香りは……?」
「カルダモンと、わずかにクミンだ。仔羊の野性味を消すのではなく、引き立てるための計算された配合だ。肉そのものも、牧草だけでなく潮風を浴びたミネラル分の強い草を食べて育ったプレ・サレだろう」
真二の的確な分析に、アリアは小さく息を吐いた。
「本当に、あなたと食事をしていると自分の舌が試されている気分になるわ。……でも、そういう妥協のなさが、あなたの描く盤面の恐ろしさでもあるのよね」
アリアは嬉しそうに目を細め、仔羊を口へと運んだ。




