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二度目の人生は冷徹に。搾取された社畜はお人好しを捨て、完璧な復讐劇の幕を開ける  作者: 伊達ジン


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第40話 過去との完全なる決別

 日曜日の早朝。


 都心のサービスアパートメントの広々としたリビングは、まだ薄暗い青色の光に包まれていた。分厚い遮音ガラスが外の喧騒を完全に遮断し、部屋には、朝の静寂だけが広がっていた。


 佐野真二は、肌触りの良いダークネイビーのシルクのルームウェアのまま、アイランドキッチンに立っていた。素足の裏に触れる無垢材のフローリングの感触が、心地よく冷たい。


 冷たい人工大理石のワークトップに、重厚な琉球ガラスのグラスを静かに置く。冷蔵庫の扉を開け、沖縄の蔵元から直接取り寄せている、上質なもろみしぼり酢の瓶を取り出した。瓶の表面にうっすらと結露が浮かんでいる。コルクの栓を抜くと、黒麹菌が時間をかけて発酵する過程で生み出された、独特の芳醇な香りが鼻腔をくすぐった。


 グラスに氷は入れない。常温のまま、琥珀色の液体を底から指二本分ほど注いだ。


 真二はグラスを手に取り、迷いなく一気に呷った。


「……ッ」


 強烈な酸味が舌を刺し、喉の奥を焼くようにして食道へと落ちていく。クエン酸とアミノ酸の濃厚な塊が、まだ半分眠っていた胃袋に到達した瞬間、身体の芯からカッと熱が波及するのがわかった。細胞の一つ一つが、強引に目を覚まされるような感覚。


 すかさず、横の小鉢に用意しておいた、かち割りの純黒糖をひとかけら指でつまみ、口に放り込む。


 ざらりとした粗い舌触り。そして、ゆっくりと溶け出す、ミネラルをたっぷりと含んだ深くコクのある甘みが、口内を満たしていく。先ほどまでの喉を刺すような強烈な酸味が、黒糖の自然な甘さによってゆっくりと中和され、口の中に心地よい余韻へと変わっていく。


 真二は目を閉じ、深く息を吐き出した。


 ゆっくりと目を開けると、シンクの蛇口を捻った。細く絞られた水流が、琉球ガラスの底に当たる。丁寧にグラスを濯ぎ、上質なリネンのクロスで一滴の曇りも残さないように水気を拭き取ると、食器棚の定位置へと戻した。


 そのままリビングの奥にある書斎スペースへと向かう。


 革張りのチェアに腰を下ろすと、わずかに空気が押し出される音がした。デスクに置かれた高性能なノートPCを起動し、複雑なパスワードを一切の淀みなく打ち込んで、暗号化されたローカルフォルダを開く。


 画面に並んだのは、ここ数ヶ月間、大西明日香やルシア・カルヴァーリョを使って収集し、構築してきた膨大なデータの数々だった。


 佐々木翔太の裏口座の入出金履歴、ダミー法人の登記情報。接待という名目で経費を横領していた際のGPSログと飲食店の領収書データ。数千万単位の不自然な資金移動を証明する海外のトランザクション記録。

 結城麻衣のクレジットカードの利用明細、消費者金融からの借入記録。そして、ホテルのラウンジやエントランスで撮影された、複数の男たちとの密会写真や、彼女自身がSNSに投稿していた虚栄に満ちた写真のバックアップデータ。


 真二はマウスを握り、それらのフォルダをすべて選択した。


 右クリックし、「完全に削除」を選ぶ。


『本当にこれらのファイルを完全に削除しますか? この操作は取り消せません』という無機質なシステムメッセージが、画面の中央にポップアップ表示される。


 真二は、わずかな瞬きすらすることなく、「はい」をクリックした。


 プログレスバーが一瞬で右端まで到達し、画面上から二つの名前を冠したフォルダがすべて消滅した。念のため、復元ソフトを使っても読み込めないよう、ストレージの空き領域にゼロデータを上書きするワイプ処理のコマンドを打ち込む。黒いコマンドプロンプトの画面に白い文字列が滝のように流れ、数分後、『処理が完了しました』の文字が静かに点滅した。


 真二はPCの電源を落とした。ファンが停止し、モニターが完全に暗転する。


 立ち上がり、窓際のブラインドに手をかけた。コードを引き、角度を変える。初夏の眩しい陽光が書斎に差し込み、彼の端正な顔を明るく照らし出した。


★★★★★★★★★★★


 翌日の月曜日、午前9時。


 神宮寺グループ本社の特命担当室は、いつものように外部から完全に隔絶された、穏やかな空気に包まれていた。


「室長、おはようございます。コーヒー、入りました」


 菊地凛が、お盆に乗せたマイセンのカップを丁寧にローテーブルに置いた。淡いグレーのカーディガンを羽織った彼女の控えめな笑顔は、週明けの淀んだ空気を一瞬で浄化するような無垢な透明感を放っている。立ち上る湯気からは、グアテマラ産の深煎り特有の、カカオのような芳ばしい香りが漂っていた。


「ありがとう、菊地」


 真二がソファに腰を下ろしてカップを手に取ると、足元から「ミャウ」と細い声がした。茶トラの子猫、レオが真二の革靴のつま先に前足を乗せ、見上げてきている。凛が休日の間に丁寧にブラッシングしてやったらしい柔らかな毛並みが、室内の照明を弾いて艶やかに光っている。新しい羽のおもちゃでたっぷり遊んだ後なのか、満足げに喉をゴロゴロと鳴らしていた。真二は空いている左手で、レオの耳の裏を軽く掻いてやった。


「室長」


 部屋の奥、3台の大型モニターに囲まれたデスクから、大西明日香が、タイピングの手を休めずに静かに報告した。左の画面には社内人事の更新データ、中央には金融機関の公開情報クロール、右の画面にはシステムログが絶え間なく流れており、彼女の視線はそれらを正確に捉えて素早く移動している。


「対象A、佐々木翔太の自己破産手続きが開始されたとの情報が、信用情報機関のデータベースに反映されました。また、対象B、結城麻衣については、消費者金融数社からの内容証明郵便が、彼女の実家へ送付された履歴を確認しました」


 事務的な、単なる事実の羅列。


 真二はコーヒーを一口飲み、その豊かな香りを味わってから、カップをソーサーに置いて静かに告げた。


「そうか。大西、その二人の監視タスクは、今この瞬間をもって完全に終了とする。彼らに関するアクセスログやトラッキングデータは、すべてサーバーから破棄しろ」


 明日香のキーボードを叩く手が、ピタリと止まった。


 彼女はモニターから視線を外し、真二の方へと顔を向けた。その隙のない無表情の奥に、理に合わない指示を受けたことに対する微かな疑問の色が浮かんでいる。


「……破棄、ですか。今後のリスクヘッジとして、彼らが再び接触を試みてきた場合に備え、動向の最低限のログは残しておくべきかと愚考しますが」

「不要だ」


 真二の声は低く、しかし一切の反論を許さない絶対的な響きを持っていた。


「彼らが俺たちに牙を剥く力はもうない。万が一這い上がってきたとしても、その時は再び叩き潰すだけの力が今の俺たちにはある。終わったことにリソースを割くのは無駄だ。ゴミを保管しておくスペースは、この部屋にはない」


 真二の言葉に、明日香は数秒だけ沈黙し、そして深く頷いた。彼女の中で優先されるのは、常に真二の意志だ。


「承知いたしました。関連データ、すべて完全消去します」


 再び、彼女は一切の無駄なくタイピングを再開した。黒い画面上で削除のコマンドが実行され、過去の残骸が物理サーバーから跡形もなく消え去っていく。


 その時、特命担当室の重厚な防音扉が、静かに開いた。


 入ってきたのは、エレノア・スペンサーだった。

 仕立ての良いネイビーのパンツスーツ。わずかにシトラス系の香水の香りを漂わせながら歩み寄る彼女のブルーグレーの瞳には、以前のような周囲すべてを拒絶する氷の壁はない。


 エレノアは凛に軽く会釈をしてから、真二の対面のソファに優雅な動作で腰を下ろした。


「……終わったようね」


 エレノアは、明日香のモニターに表示されていた一連の削除プロセスを視界の端に捉えながら、静かに言った。


「ええ。大掃除は完全に終わりました」


 真二はコーヒーカップをソーサーに戻した。


「佐野。この特命担当室の、今後の運用についてですが」


 エレノアが少しだけ居住まいを正し、膝の上で両手を組んで真二を真っ直ぐに見据えた。


「武藤常務の派閥は、佐々木の件で深刻なダメージを受けました。しかし、神宮寺グループという巨大な組織の中には、まだ私たちのプロジェクトを阻害しようとする旧態依然とした連中が山ほどいます。それに、セレナ・デイヴィスが率いるファンドも、過半数には届かないものの、物言う株主として役員会に圧力をかけられるラインを狙って、市場外での株式の買い集めを加速させている」

「わかっています」


 真二は深く頷いた。


 目の前にいる気高き令嬢が掲げる目標は高く、立ち塞がる壁はまだ数多く存在する。忠誠を誓う右腕にふさわしい盤面を用意し、純粋な心を持つアシスタントが理不尽に怯えることのない安全な場所を守り抜く。


「これまでは、寄生虫を駆除するための破壊のフェーズでした。これからは、建設のフェーズです」


 真二はゆっくりと立ち上がり、エレノアを見下ろした。

 その暗い瞳には、絶対的な自信と、未来を正確に見据える冷徹な知性だけが光っていた。


「俺たちが神宮寺グループの主導権を握るための、盤石な足場を築く。外部からのどんな攻撃も跳ね返し、内部のどんな陰謀も事前に叩き潰す。そのための手は、すでにいくつかダミーファンドを経由して打ってあります。セレナの動きも、想定の範囲内です」


 エレノアの口角が、微かに、しかし確かに上がった。それは冷笑ではなく、全幅の信頼を寄せるパートナーに向けた、彼女なりの柔らかな表情だった。


「頼もしいことですね。……期待していますよ、私のパートナー」

「ええ。お任せください」


 真二は窓の外へ視線を向けた。


 分厚いガラスに反射する光の向こう側。窓の外には、夏の気配を孕んだ青空が、東京のビル群を越えて、地平の彼方まで果てしなく広がっていた。

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